2018.12.16 Sunday

憎しみという名の病

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    人の心のあらゆる病気の根本は、”憎しみ”であると思います。

     

    憎しみが病気に至る過程を深く解説するつもりはありませんが、キーワードとして『憎しみの本質とは現実を否定することである』ということだけあっさり述べておこうと思います。

     

    現実を否定すること。大きすぎる期待を抱いたり、「こうならなければおかしい」と考えたり。そう頭の中で考えるまでは良いとしても、いざ現実に向き合ってみて、自分の考えと違うことが起きたときに、現実ではなく自分の頭の中の予想や空想を優先してしまうこと。

     

    あるいは良く観察する前に邪推をしてみたり、間違った理解で現実を覆い隠してしまったり。無知や錯誤があるのはまだ良いとしても、自分が無知であるという事実を知りたくないが為に、不都合な現実からはあえて目を背けてみたり。

     

    現実を否定する性質。そういうものを自分の中に野放図に育てていくと、それはやがて攻撃になり、反発を生み、争いへと発展していきます。

     

    受け入れる努力が必要なのです。できないということ、わからないということ、無力であること、すれ違うということ、そういう諸々の、私たち自身の弱さを受け入れる努力が。

     

    そうした憎しみという内なる性質を制御していく努力にこそ、日々励んでいきたいものだと私なりに考えています。

     

     

     

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    JUGEMテーマ:心理学

     

     

    2018.12.15 Saturday

    宗教のような、別の何か

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      どうしても必要に迫られれば、私は自分の宗教宗派を説明するために『何も信じない宗教』という言葉を使うだろう。

       

      これは一種のパラドックスであって、宗教を持ち得ない人間が己の宗教を説明するための苦し紛れだとも言える。

       

      普通、世間一般の人々は、社会秩序の安定のために何かを緩やかに信じている。

       

      仏教であれキリスト教であれ神道であれ、はたまた国家観であれ儒教的家制度であれ資本主義であれ、何らかの原理や教祖、教師、上司、親、養育者などを緩やかに信じて生きているものだ。

       

      それを考えると、『何も信じないこと』は一般的な態度だとは言えない。私は、国家も社会も宗教も科学も、人間という基礎的コンセプトも宇宙の有限さも、何も信じていない。そういう人間は希であって、誇大妄想的と言っても良いが、何であれ過度に思想的な存在であることは間違いない。

       

      それだからかえって、周囲の人々から、私には何らかの宗教的な背景があるのではないかということを疑われるのだ。

       

      苦し紛れに私が答える『何も信じない宗教』というのは、実際は宗教ではない。私は宗教を恐れているから、自分がそれとは無関係だということを主張したくて、そう言うわけではない。

       

      『何も信じないこと』は、宗教ではありえない。そもそもそれは、人間社会の中で醸成され伝達されていく要素としての、文化ですらない。

       

      不信はむしろ、文化の断絶であり、間隙であり、欠如である。それはドーナツの穴のようなもので、認識することはできても実体はない。

       

      何も信じない宗教など、有り得ないのだ。不信とは宗教における完全な空白期間であって、例えばその空白を取りあげて『これこそ新しい宗教だ』と主張するとしたら、矛盾に満ちている。

       

      それはただ、不適合を起こした私たちの文化的資質が、一旦後退し、別のやり方で課題をやり直そうとする際にだけ有用に働き得る、文化の『破壊の因子』であるに過ぎない。

       

      宗教とは、その実体としては、思想的なものというよりもより社会的なものである。私たちが社会との”信頼”関係を結ぶためのある一つの形態を宗教と呼ぶのだとしたら、どうして、不信というものが宗教的であり得るだろうか。

       

      不信は宗教ではない。文化ですらない。それは無である。この意味でだけ、不信は死に似ている。

       

      それは野生からもたらされる夜であり、同時に、新しい道が始まるための、純白のキャンバスでもある。

       

       

       

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      2018.12.14 Friday

      Wild Night and New Road

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        今日は、自分の頭の整理。時にはこういうのも。

         

        昨日人と話していて、ああ、自分のやっていることを上手く説明できなくなっているな、と感じた。

         

        問題に向き合う時間が長くなり、進む方向が複雑に曲がりくねり、それにあわせて対応領域が広がってきた結果、でもある。

         

        私ははじめに、ワーク/ライフバランスの問題から取り組んだ。がむしゃらに働いて、その結果が確かに未来に残るなら良いが、地震の経験などもあってそういうのは幻想だと思うようになった。

         

        どれだけ勤勉に積み上げていても、失うときは特に意味も無く全てを失う。冬に飢えて凍えるキリギリスは愚か者だが、冬が来る前に死に絶えてしまう働きアリは、貴重な春を無駄な労働に捧げて失ったという意味で、同じように愚か者だ。(だがこの問題の本質は、そうやって死んでいった愚かな働きアリの労働の成果を、他の誰かがまんまと味わっているのではないか、ということかもしれない)

         

        不要なもの(人間)を排して必要なもの(人間)だけを集めようとする中央集約的な、システマチックな考え方に嫌気がさして地方へ出た。新しい価値観を見出したかった。

         

        地方社会の疲弊や地域活性の取り組みに生じる歪みを観察する過程で気付いたのは、私たち人間の、惰性というものの重さだった。

         

        現代の私たちに、問題を根本的に解決するための意欲はない。問題は社会の中に継続してきたからだ。社会は大きい。人間はちっぽけで、自分は無数にいる人間の中のただ一人にすぎず、何かを変える力などない。

         

        その惰性を観察して、はっきりと、これは私とは違う、と感じた。私は問題を解決しようと思ったが、ほとんどの場合、人間は問題を無気力に踏襲し、問題の中に自分の存在を歪めて落とし込むだけであって、それを自分の手で変えようとは思わない。

         

        原因はすぐにわかった。私は地震を通して、自分の死を予感していたからだ。

         

        いずれ、数十年内という近いうちにこの身体も精神も失ってしまうであろう私には、今このときの自分の存在を、そんなに簡単に放棄して良いようには思われない。その自覚は、どんな形であれ世界に自分の存在意義を刻もうとすることへの、意志と情熱の基礎になっている。

         

        エンディングシーンや終末産業に興味を持ったのは、そういう次第だった。現代の私たちは、核家族化や生活内容の商品化を通して、死という野生の現実を見失っている。失われてしまった”死”というコンセプトを、また別の形で、私たちの自己認識の内に取り戻す必要があると思われた。

         

        死生観は、人生観を決める。人生観は労働観を決め、それが家庭観や教育観に移り、また消費性向をも決める。私たちの貧弱な死生観人生観が、経済活動の中の活き活きとした躍動さえも失わせる原因になるということが、確かに起こり得るのだ。それは人格の形成の問題でもあり、離婚や、うつ病や、一人親や、人手不足や、労働環境の悪化や、神経発達の形さえ取る広範な問題の基礎である。

         

        こういう経路を辿る際に、私は宗教というものに全く躊躇しなかった。何となれば、生活に対する私たちの荒々しい不満は、思想信条の繊細さというものへの、考慮の余地を持たないものだからである。

         

        だが後になってみて、これは良いことだったと気付いた。仏教やキリスト教、神道などの宗教の領域も、疲弊し、惰性的になり、権威化され無気力になって、刺激を必要としていたからだ。私は非宗教的な野蛮人だったからこそ、そういう世界に新しい視点を持って望むことができた。(最も、本当の意味で私が宗教的な人間になれたことはなかったし、これからも無いであろう)

         

        労働、人生観、終末とエンディング、そういう全課程を通底する基盤としての心理学。これが今の私を形成している要素の全体だと言える。

         

        寄り道もいくらかはあった。地域活性化の仕事のあと、理想を好き放題述べつつも手は動かさず、結局は他人の優しさに甘んじているだけという自分の姿勢に嫌気がさして、泥まみれの店舗運営なども経験した(人として地に足をつけると言う意味で、これは本当に良い経験だった。人間の底力は、いつも現場で輝いているのだということも知った)。

         

        そういう色々な経過である。もうこの道も7,8年歩き続けているので、話が長くもなる。短い時間だと言う人は居るだろうが、今日死ぬかもしれない気でいる私には十分長い時間だった。それはそれとして、人に分かりよく完結に説明するということは、また別の問題ではあろうけれど。

         

        QOLやワークライフバランスに興味のあった若者は、疲弊する社会の中に人生観の欠如という根本的問題を見出し、それを解決する方策として”死”という切り口を選んだ。

         

        今まだ、意地汚くその”死”というものに縋り付いているところである。それで良い。この道を行こう。私の辿ってきた道、この世界での一日一日の経験が、そう言って背中を押してくれている。

         

         

         

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