2019.01.20 Sunday

生命のウォークライ

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    人生には、というより生物の一生の中には、ある程度の激情が必要なように思うのです。

     

    40億年の時間の積み重ね。何億世代にも上ろうという祖先達が、それぞれの時代時代を生きた記憶。

     

    1万年前、凍える夜に焚き火ごしに見た誰かの瞳。その中で静かに揺れている炎。

     

    このDNAの鎖を繋ぐために、切り裂き食い散らかしてきた沢山の他者。

     

    その体液で血まみれになった、鏡の中の醜い牙と指先。

     

    そういうもの全部を思うとき、私たちの一生は、決してつまらないものであってはならないと思うのです。

     

    やはりそこには、何かしら義務のようなものがあるのではないか、と。

     

    そういう激情の薄まってしまった社会。安定し、硬直し、冷却され無気力になった社会。

     

    生がこれほどまでに安定してしまうのは良いことなのかどうか。安定が陰鬱とした虚無感を生み出すだけなら、それは今まで積み上げて来たことに対する裏切りではないのか。

     

    或いはこれは、私たち人間種があまりにもこの世界に飽和してしまったということなのかもしれません。

     

    だとしたら私たち人間は、あまりにも天高くまで塔を築き上げた罪で滅び去り、もう一度歴史をやり直すべきなのか。それともこれまでの生物の枠組み、人間種の枠組みを超えて、既存の限界の制限を受けない、何か次の新しい段階へと進まねばならないのか・・・。

     

    そんな大それたことを少し、考えてもみるのです。

     

     

     

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    2019.01.19 Saturday

    自由を許すな

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      躓く石も縁の端(つまづくいしもえんのはし)。

       

      四字熟語にしたら、躓石縁端。読みはチセキエンタン、かな?

       

      ということで新しい記事カテゴリーを作りました。こちらでは宗教教義や神秘思想など、精神世界のカルチャーにおける、理論のわかりづらい部分、つまづきの石となりやすい部分について、参考までに私なりの解釈を述べさせていただこうと思います。

       

      最初のエントリーは『自由』について。

       

      伝統宗教の精神修養の文脈では、自由というものは好まれるよりむしろ避けるべき性質としてとらえられます。

       

      一方で神秘思想などの分野では、自由であれ、心のままに生きよ、というようなことが良く言われます。

       

      この「自由であれ」の教えについて私たちが違和感を抱くとしたら、大体こんな風でしょう。

       

      『欲望を好き勝手満たしていたら、周囲の人間は迷惑でたまらない。どうしてそんな無責任なことが許されるのだろう。こんな考え方は、人間を自堕落にして破滅させるだけだ。』

       

      先ずまず無難な、健全な意見だと思います。しかし好奇心を抱いてもう一歩教義の中に踏み込んでいくと、大抵この「自由であれ」という教えは、実は次のような前提条件を持っていることがわかります。

       

      曰く、『何もかも好きにしたら良い。食べたいだけ食べればいいし、寝たいだけ寝ればいい。怖ければ逃げればいいし、人に嫌われたくなければ、おべっかをつかって頭を下げていればいい。心でそうしたいと欲することも、頭でそうありたいと考えることも、どちらも君の本心から出ている望みなのだから。

       

      自由、という言葉の中に放埒さや無責任、わがまま、動物的な卑しさなどを見る人は、実は暗黙の内に”理性(頭)ー本能(身体)”という少し古めかしい精神構造のイメージを持っています。

       

      こういう二分割された精神イメージでは、心というのは、本能(欲求)を理性(規則)で制御し続けることで成り立っています。

       

      だからこういう場合、何かを”望む”ということは心の半分だけであって、それは常に”ガマンする”というもう反面を伴わなければ健全では有り得ない、という考えになるのです。

       

      そういう事情の所へ「自分の願いに完全に自由であれ」なんていうことが言われると、『とんでもない!それじゃ心の半分だけじゃないか!それは自動車のタイヤを、半分取り外して走り回るようなものだぞ、上手く行きっこない!』というような至極当然の反論が上がってくるでしょう。

       

      さて、ですがこの”頭ー身体”という精神モデル、昨今の心理学や哲学、精神自由思想などの分野では、いささか時代遅れなものになっています。

       

      現代では、「心」というものはより全体的なもの、少なくとも脳を含めた身体機能全部の微妙なからまりあいの中で生じているもの、と認識されていることの方が多いでしょう。

       

      そういう視点で見ると、「自由であれ」ということもどうでしょうか。『頭で思うことも身体が欲することも、全部含めて君の望みだろう』ということになれば。

       

      『あの店の食べ物を何でも好き勝手に食べて回りたいけど、怒られたり、捕まって牢屋に入れられたりするのは嫌なのか? なに、大丈夫だ。自由にしたら良いのさ。君がしたくないと思うことなら、しなくて良いんだよ。』

       

      「自由であれ」。実は、これは結局『まあそう深く悩むなよ。なるようになるさ』ということを言っているのに過ぎません。何でもない、ただの無意味な挨拶みたいなものです。

       

      むしろこの「自由であれ」という呼びかけの意義は、前述のような「古い精神イメージ」を抱えている人たちの認識にショックを与えて、揺さぶり変えていこう、というところにこそあるのかもしれませんね。

       

       

      「自由」についてもっと深い考察をしたい、という方がもしおられたら、ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』をお読みになることをおすすめします。難しく書いてある本ですが、私たちの「自由」についてのイメージを一新するような、鮮烈な明晰さで記された名著です。適性のある方なら、閉じていた眼をすっと開かれるような体験ができるかもしれません。

       

       

       

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      2019.01.18 Friday

      It's a small world

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        社会が大きくなるにつれて、私たち人類はだんだんと自分の小ささを忘れるようになってきました。

         

        この宇宙、この世界は、私たちが知る限りでは138億年ほど前から存在しています。

         

        地球の誕生は45億年前。

         

        生命はその5億年後、今日から40億年前に生まれました。

         

        時代はずっと下って、進化と淘汰を繰り返し、人間という種族が生まれたのはここ20『万』年くらい。

         

        私たちの歴史の記録。人間の”文明”の痕跡。それはせいぜい2万年。

         

        慣れ親しんだ西暦の暦。たかだか2000年。

         

        ちなみに『1年』というのは、地球が太陽の周りを一周する時間。地球人にしかわからない時間尺度だから、きっとよその星に言って『1年』なんて言うと、恥をかくのでしょうね。

         

        この小さな人間の世界で、時々私たちは『正しさ』というものに悩まされます。

         

        人として、どうあるべきか。お金はどれぐらいあればいいか。果たすべき責任は何か。やってはいけない選択はどれなのか。

         

        『正しさ』というものがわからなくなれば、足がすくんで前に踏み出せなくなってしまう。

         

        でもそんな時こそ、例えばそう、自然の中にでも答えを探してみるべきでしょう。

         

        なぜなら人間の世界はたかが数万年のことだけれど、自然というものは、もう何十億年も前から、ずっとそこにあり続けてきたのだから。

         

        「私にはもう、何が正しいのかわからない。この先一体どうやって生きていけば良いのだろう。」

         

        人間が自然にこう尋ねたら、どんな答えが返ってくるでしょうか。例えばこんな風かもしれません。

         

        『ああそうだ、それはワシにもわからない。正しさというものはね。』

         

        『だが小さな子よ。正しさがわからなくとも、生きていくことはできる。』

         

        『山頂の湧き水は、川になりたくて湧き出てくるわけではないのだよ。だが自然と、そうなるのだ。ものごとの大きな流れの中ではな。』

         

        『全てはあらぬところから現れ、何もかもあるべきところへと落ち着いていく。』

         

        『自分の生きたいように生きなさい。』

         

         

         

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