2020.06.28 Sunday

In-Di-Visual

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    少し前に、小社会と大社会について書いた。その延長の話。

     

     

     

    小社会の倫理は、善意と助け合いの倫理である。これは集団生物としての、人間のより本能的な能力だと言える。

     

    助け合いと集団化によって、社会の効率は個別のサバイバルよりも遥かに向上し、安定し、堅牢になる。

     

    個人と家族、家と家、組織と組織が手を組むことで、人間の力は何倍にも増幅され想像もしなかったような作業が可能になる。

     

    一方、この倫理規範の欠点は、一言で表せば無責任さと排外主義である。

     

    人は課題に直面した時に他者を頼るようになり、自分の責任を意識しなくなり、成長能力が抑制される。また自然と身近な人間を贔屓しはじめ、集団にとって不都合な事実を指摘する個体が現れたときには、結束を脅かすような批判の声を怒りをもって抑圧し排除するようになる。

     

     

     

    大社会の倫理は、責任と自律の倫理である。服を着た動物としての、人間のより高度な認知適応能力に由来する。

     

    社会に組み込まれたメタ認知装置としての法律と規則、そして契約という概念によって、人は自らが果たさねばならない責任を規定する。

     

    それは長い戦争の歴史を通して、暴力による淘汰の世界観を克服しようとする高等生物としての人間が、個々のエゴイズムからお互いを守り合うために作り上げた鎧であり盾である。

     

    この規範を通して人は自らを客観視し、より高い理想の姿を自発的に求め、その成長能力を最大限に引き出していく。

     

    この倫理規範の重大な欠点は、冷酷さと社会の混乱である。

     

    集団の力に頼らない人は、個別のサバイバルの世界を生きねばならない。周囲を取り囲む存在は中立者、敵対者、利害の一致する協力者であって、仲間とか血族のようなものではないため、少し歩み寄って他者と補助しあえば容易に解決できる問題を、あくまで道筋通りに遠回りして難しくする。自らの責任を果たそうとする分、他者の無責任や社会の不公平、不平等に極端に敏感になり、社会の中の隠された対立と不和の種を、成長させ複合させ破滅の扉を開かずにはいられない。

     

     

     

    善意のある人々が種を撒き、責任感のある人々が拡大させる。こうして社会は腐敗と憎悪に満たされていく。

     

    もしも私達が両輪を使えたとしたら、今の社会状況はずっと違っていたのかもしれない。

     

    多分、ごく粗雑な考えだが、貧すれば鈍する、不景気になるとどんな人間も人格の悪い面が出てくるという、それだけの話なのだ。

     

     

     

    後記:

    最も不都合なのは、こうしたことの犠牲になるのはいつも、社会の中で一番弱い立場に居る人たちだということだ。逃げ場のない人間が無責任の尻ぬぐいに使い潰され、助けを必要とする人が自己責任の名目の下で冷えきった死体に変わる。

     

    責任と善意は二項対立で、どちらかを取ればもう片方が犠牲になる。私達は、どちらにしろ負けの決まった戦いをしているのだ。これが人間の限界なのだろうか?

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

    2020.06.06 Saturday

    あもうずの毒

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      宇津流霊の存在が私達に示しているのは、あらゆる存在は、変化を代謝することによってしかその形を維持存続できないということだ。

       

      この宇宙全体が、ひとつの巨大な恒常性によって成り立っている。粗雑な空想ではあるが、ブラックホールとかホワイトホールとかの概念を、この恒常性における変化のエネルギーの出入り口と想定することもできそうだ。

       

      これは私達にとって、この世界のとてつもなく大きな葛藤的側面だと言える。

       

      存在は変化から解き放たれることがない。全ての存在は変化し続けなければならない。

       

      変化することを拒絶したらどうなるのか?

       

      その存在は固着し、萎縮し、機能不全を起こして崩壊しはじめる。それと並行して、別のより恒常性の高いシステムが優勢になり、古い物を取り囲んで、世界から排除してしまう。

       

      禍福は糾える縄の如し。安定と安寧の千年王国のようなものは、やはり幻想である。一時成り立つとしても、それはどこかに歪みを蓄積しており、必ず揺り戻しがある。

       

      宇津流霊の存在が私達に示しているのは、私達は変化し続けなければならないということだ。嫌々ではなく、むしろ積極的に無邪気に、義務として自分たちを取り巻く不安定の中に飛び込んで行かねばならないということである。

       

      変化の程度が過ぎればそれも害になるが、生命の卑近な欲求は常に永遠の安寧を望むものであり、この場合苦労を買って出て買いすぎるということもない。むしろ苦労しなさすぎるせいで、人はその存在を危険に晒す。

       

      こうしたことは私達にとって、大きな矛盾のように思える。安定に固執するものは滅び、変化を代謝するものは永続に近付く。世界には混沌と、変化と破壊の風が、常に吹き荒れねばならない。

       

      (もしもあなた方が最早それを許容できず、完成された立場を放棄するくらいならむしろ衰退と破滅の道を選ぶのだとしても。その時この世界は、あなた方が「滅んだ」と思ったその土地の上に、新しい種を繁栄させるだろう)

       

      個人も組織も、国家も、この世界の何もかも。命は更新されねばならない。成長は苦しく不安定で、痛みがつきまとう。その痛みと共に進まねばならない。明るく、笑って。

       

       

       

       

       

      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

      2020.04.16 Thursday

      Voodoo rigger

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        魔術というのは、一言で言えばこの世界の諸法則を意図的に歪ませることである。

         

        こう書くといかにも神秘主義的な期待や警戒心を人に抱かせるかもしれないが、今私はただ単に、超実存的な哲学の見方からそう述べている。

         

        物理法則に根強く支配された基底世界と、私達一人ひとりを中心とする私達一人ひとりの個別の精神宇宙を対比させる時、魔術とは本質的にそういう事象であると思う。

         

        私達の個別宇宙においては、ちょうど子供が皆そうであるように、ある程度の幻想を信じることが許される。私達がある幻想を信じるとき、それは基底世界から見れば誤った認識ということになる。

         

        しかし個別の宇宙において、その主催者が本当に真剣に幻想を信じるなら、幻想はその宇宙における真実になり得る。言い換えれば、個別の精神宇宙は確かに、基底世界の時間や空間の諸法則から解放され得るのである。

         

        こうしたことはただ、個別宇宙と基底世界を同等に扱う、超実存の見方を持つ時にだけ言えるだろう。

         

        魔術は確かに世界の法則を歪ませる。だがその現象は生憎、歪みを形成し、望みを達成したちょうどその段階で、完了するということはない。

         

        魔術には歪みの先がある。それは、歪みの反動、反作用である。

         

        私達の個別の精神宇宙は、常に基底世界からの束縛的な照射に晒される。個人の勝手な幻想は、基底世界から批判され、攻撃され、遂には破壊される。幻想は一時真実になり得るとしても、必ず終わりがある。

         

        劇的な魔術はこの揺り戻しさえも強固に否定するかもしれないが、するとそのせいで、基底世界と個別宇宙の間に葛藤が生じる。それは滞留し、放置されたストレスとなって、肉体と精神に病理をもたらす。(おとぎ話に出てくる邪悪な魔女達の、不自然な醜形化を見よ)

         

        魔術には期限があり、それは確かに一時真実たり得るが、永続はしない。

         

        期限が訪れると、魔術は反転し、災いをもたらす。

         

        その災いから逃れるために取られる最も一般的な対策は、魔術が掛けられた対象それ自体を、期限が訪れる前に消失させることである。(シンデレラはシラミだらけの少女に戻る前に城を去り、かぐや姫は婚姻の前に月の世界へ消えてしまう)

         

        このように良く洗練された魔術は、幻想の中から生じ、ある程度基底世界をも巻き込んで事件を起こし、その巻き込んだ反動によって壊れ初め、完全に壊れきる前に”うやむやに”される。

         

        だがシンデレラを見れば確かに、物語全体としては魔術が終わった後も少女が王子の恋慕を射止めているように、かぐや姫を失った後も翁と老婆には豪邸が残されているように、魔術それ自体は期限付きで終わるとしても、”魔術の周辺で獲得されたものの全てが、元通りに消失するわけではない”。

         

        これこそが、この世界における現実的な魔術の、中心原理である。

         

        魔術とは、精神的な投機なのだと言っても良い。その流れの全体を読んで、筋書き通りに物語を雲散霧消させ、その過程で副次的な所から収穫を得るのである。

         

        ここまで書けば、何となく分かるのではないだろうか。魔術というのは実は、この人間社会にありふれたものである。程度の差こそあれ、どんな夢見がちな子供もどんな堅実な大人も、いくらかはこうした魔術的作用を無意識に行使して、現実世界からなにがしかの利益を汲み上げているものなのだ。

         

        正に私達の人生は幻想的であり、過度に期待的であり、それ故に魔術に彩られている。

         

        地球と月の曖昧な重力がもたらす歪みの中から、その海水の満ち引きの中から、生命という原初の渾沌が生じてくる。生命はそれ自体魔術的に歪んでいる。どれほど進化しようとも、どれほど理知を得ようとも、生命が生命である限りにおいて、魔術から解放されることはない。

         

        愚かな魔術的誘惑によって、人間の魂は楽園から追放される。それは仕組まれた呪いのようなものでもある。だから、人が神に拠って立つことは難しい。

         

         

         

        JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

         

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