2020.09.05 Saturday

使い捨てのヒーロー

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    どうやらこの社会はいまだ、新しい時代へ舵を切らないらしい。

     

    より力のある人と結託する、という単純な集団主義の力学と、明るい展望だけをひたすら視界に収めようとする割り切った態度が世を覆っている。

     

    それはそれで良い。その上で、私のような社会思想的な宗教者が考えるのは、この日本の適応スタイルの負の側面をどう吸収していくかということである。

     

    簡単に言えば、前述のような適応態度は革新や改善のない低成長の世界を招く。更に悲劇的なのは、こうした社会では優秀な人間が真っ先に排除されていくということである。

     

    人に優しく、自分で考える力を持ち、賢くて逞しい人間。大抵の親が子に望むそうした性質の全てが毒になる。賢い子供は社会の不条理に気付いてしまう。弱者を助けようとし、自分の心技体に自信を持ち、声を上げていつも何かを良い方向へ変えようと努力する。

     

    そういう者を社会は求めない。むしろ多少愚鈍でも従順で意志が弱く、それでいて我慢強い子供が良い。こういう人々は今の社会にすんなりと適応できるだろう。

     

    問題は社会不適合者――比較的高い資質を持って生まれてきた人間に、破綻せず生きるための道を与えることである。

     

    資質の高い人間は自己実現に問題を抱えやすい。社会の隅に追い詰められた彼らが、自分の中の誇大妄想と結びつけてどのような凶行に及び得るかということは想像に難くない。

     

    奪われた「無敵の人」は、確信犯的な私刑を遂行する「ヒーロー」に変わる。彼らは匿名のコメントの世界で大いに賞賛を得るだろう。それは、自分の手だけは決して汚さないくせに、心の奥底ではいつも世の中に不満を抱えて自分以外の”誰か”がそれを裁いてくれれば良いと考えている、醜い私達の心の要求にいかにも呼応する娯楽だからである。

     

    人の心に蓋はできず、抑圧すれば必ず怪物が生まれる。彼らは犯罪を犯してヒーローになる。一回きりの正義。使い捨ての英雄。顔も見えない暗闇の中で誰かがこっそりと拍手をする。身元不明の万歳の合唱。

     

     

     

    しかし、全く別の道を示すことができるはずだ。より実存的な領域、より創造的な領域でこそ、彼らは自分がこの世界に生まれてきたことの真の意味を知ることができる。この宇宙で、孤独と不条理にまみれて生きている私達一人ひとりの現実。その現実を直視できるような存在の居場所と模索の装置を、私達は持っていなければならない。

     

    使い捨てのヒーローなんてつまらない。じりじりと僅かずつしか進めなくとも、地に足を付けて現実を開拓する方が面白い。高い資質に揺るぎない強靱な倫理を併せ持てば、どれほどの奇跡を私達は成し得るだろう。

     

    私はもう一度見る。この眼で。次の時代に、月の光の中で燦然と輝くあの宝石の谷を。

     

     

     

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

    2020.08.26 Wednesday

    手紙

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      Eli、私は本心では理解している。短い人生だけれど、様々な場所で生活をして、沢山のものを見た。

       

      悪い人なんて居なかったよ。ただの一人も。ただ誰も彼もが、少しずつ病的で、少しずつ歪んでいて、そして大抵呆れるほど愚かだった。

       

      でも悪い人なんて居なかった。

       

      君は権力者が腐敗すると言った。それはそうだ。それは遥か昔から言われている。

       

      『富者が天の国に入るのは、針穴にロープを通すより難しい。』

       

      恵まれた環境で生まれ育った人は、本当の意味で智慧を得るということはない。それは大変に残念なことだ。ルドルフ・シュタイナーは、地獄の業火が人間の罪を浄化するのだと言った。有り難いことではあるけれど、それでは私達人間一人ひとりが、果たしてその業火の中に進んで足を踏み入れるだろうか、ということを考えてみれば良い。

       

      ほら、ヤスパースもフランクルも言っているだろう。人間が自分で選択して選び取れるような困難は、本当の困難ではないし、本当の限界状況ではない。本当の困難は、強いられ縛り付けられ逃がしてもらえないものだ。そういう苦難だけが魂を変容させる。

       

      だから、それを強いられない環境というのは難しいものだ。逃げ道があれば人は楽な方へ行こうとする。明るい方へ。楽しい方へ。自然なことじゃないか。叶うものなら、この世の悪い部分なんて見たくない。誰だってそうだ。私達だって、立場が違えばそうだっただろう。それを悪とは言えないよ。

       

      そこに、権力の問題が加わる。

       

      従順な人たち、素直な人たち。一歩間違えば、この人々もなんという毒になり得るだろう。無知な指導者が無知な指示を出して、従順な人たちは違和感を覚えつつもそれに従ってしまう。

       

      権力というのは集約されていくものだ。一度その恩恵に預かったら、中々抜け出すのは難しい。皆、自分や家族の生活がかかっているからね。人は魂を欠いてまで飽きもせず労苦する。借金で自分の身の回りに囲いを立ててしまったりすると、もうそこから抜け出す道はない。どんな間違った指示も聞かずにはいられない。むしろ、間違っていないと自分に言い聞かせることの方が忙しい。間違っているぞと、こちらの安定した生活を脅かすようなことを言い出す連中を叩き回ることの方が、ずっと忙しい。

       

      シモーヌ・ヴェイユが言うように、指示命令には大きな力がある。「上のもの」から言われると、人間は本当に弱い。そうした人間の心の機微を読み取れない指導者は、知らず知らず、自分が思っている以上に大変な力を振るって狂気を招いてしまうものだ。

       

      でも、彼らも大変だと思うよ。何かの拍子で不意に世間の不満に晒されたりすると、突然、見たことも聞いたこともないような自分の罪や醜聞がこれでもかというほどあげつらわれて、「違う、こんなの間違いだ!私ははめられたんだ!」と叫びたくなる気持ちも分かる。慎重な人なら言われる前に解りそうなものだけれど、生憎、富める者の足かせという奴が邪魔をするのだろう。

       

      そんな風に、人間の自浄作用というものには限界がある。誰かが特別悪いわけじゃない。それは自然で、避けがたい。必然で、残酷だ。

       

      だから社会構造というのは、時折リセットされなければならない。それを引き延ばすことも出来るけれど、結局は問題がより増大して、破綻する時のショックが大きくなってしまう。どの道最後はそうなる。それである程度ガス抜きされると、また人間の自浄作用だけでしばらくは何とかなる。

       

      とても不都合なことだな。破綻する時には、社会の中で一番弱い人たちが、真っ先に犠牲になるのだから。そしてそれを回避する方法は無いよ。

       

      回避する方法は無い。Eli、何故だと思う? それは、人間が賢くなれないからだ。賢さは理知だけでは成り立たない。智慧は愛によって支えられる。そして愛は、決して、社会全体に行き渡ることが無いからだ。

       

      とても悲しい話をしよう。愛情の本質とは何なのか。それは絶望だよ。

       

      この世界に絶望して、その絶望の中で窒息して、黒いドロドロが身体を満たして、それがなおも湧き続けて、この身一つに収まらずに、遂には自分の外の人間にまで影響を及ぼすようになる。

       

      イエス・キリストの受難も、マザー・テレサの奉仕も、全て絶望の底から湧き上がった抑えようのない衝動だ。

       

      そういう他者にまで及ぶ深い深いこの世界への絶望だけが、愛情の本当の色調を示す。それは絶望で、祈りで、救いを求める声で、救わずにはいられない狂気だ。それは論理的解釈を超えている。それは意味の地平線を押し開く。その深い絶望を私達は愛と呼ぶ。

       

      もしも人間の全てがこの愛を持てたならば、世界は救われるだろう。けれど良く考えてみてほしい。苦しんでいる人が救われたなら、巡り合うはずの苦難を誰かが事前に押しとどめてくれたとしたら、その時はもうそれ以上、絶望は生まれないんじゃないか?

       

      そうだ。救済された人は絶望に出会わない。絶望がないとしたら、愛ももう生まれてこない。だからそこから、世界はもう一度破綻していくだろう。

       

      愛は行き渡らない。それは満たされることがない。愛は常に、社会のごく一部に存在するだけ。だから人間は、永遠に、救われることはない。

       

      だからどうしろってことを、私は今、君に言えないな。「こうするんだ」っていう答えや道筋が大事なわけでも、ないだろうから。

       

      Eli、私には、君の苦しみがわかって恐ろしい。この真実、この絶望、君が歩いてきた道。大きな絶望があったから君はここに居て、それなのに尚こうして私達は、お互いの心を傷付けるような真実を、もっと強く胸に抱こうとする。

       

      Eli、何ができるだろう。せめて君のために。

       

      無理をしないようにね。あまり自分を、傷付けてはいけないよ。

       

       

       

       

       

       

      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

      2020.08.25 Tuesday

      上品な処世術

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        生真面目な奴は本当にダメだな、と思う。

         

        昔、介護施設の職員をしている人間が施設を利用する高齢者のことを「あんな奴ら、部屋の中に閉じ込められてわーわー喚いてるだけ」と言っていた。

         

        私は(こいつ、馬鹿だけど良い奴だな)と思った。

         

        彼の嘲笑の顔の中に僅かな怒りが見えたからだ。

         

        生真面目な奴は良くない。時々そういう、真心がありすぎるせいで、自分のやってることを自分で汚さずにはいられない人間がいるのだ。

         

        彼は多分、自分が仕事としてやっているそのサービスのあり方とか高齢利用者の扱い方に、深く傷付いていたのだろう。ただの冷血な馬鹿なら「それが普通だから」と考える。賢い人間ならやっぱり「これが普通ですよ」と言うだろう。普通じゃないと解っていながら。

         

        馬鹿な良い奴は、自分自身の優しさと無責任な冷たい指示の間で板挟みになって、結局自分がやっていることに納得できないから、わざと自分を汚して、悪者にして、それで自分自身の真心を守るのだ。

         

        悪人が他者を馬鹿にしながらサービスをしているなら、劣悪な状況もさもありなんで傷付かない。でも必死に一生懸命やっているはずなのに、その結果が劣悪な状況だったら、底無し沼に沈められるような無力感を感じるだろう。彼はその無力感から身を守りたくて、悪人顔をして笑ったのだ。

         

        そういう奴らは、何かにつけて”自分の手で”決着を付けようとする。子供と無理心中する親とかもそうだ。愛しているからこそ、放棄できない。

         

        悪なんて他人に任せておけば良い。悪いのはそいつらだ。社会が悪いのだ。誰か他の責任者に責任を取らせろ。不具合が起きても自業自得だ。そうやって自分の手だけは汚さずに、自分の悪だけは上手いこと他人に転嫁してしまえる人間が、この世の中では成功者と言われるんじゃないか。

         

        思い違いだよ。「彼らは社会から必要とされていないのだと思った」なんて。自分の手で決着を付けようとするから、周囲の人間の無知や冷たさや無責任さや、そういう悪意まで自分事にするから、一人で悪魔みたいに笑うはめになる。そんなの空回りだ。社会がそう思うなら、無責任な奴らが好き勝手言うのなら、そいつらにずっとそう言わせておけ。肩代わりして自分の手を汚す必要なんてない。

         

        私は社会の様々な領域を見てきた。腐った人間がたくさん居た。

         

        そいつらは大抵、自分では手を汚さなかった。

         

         

         

         

         

         

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