2018.12.28 Friday

納棺とあちら、こちら

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    納棺という仕事をしていて、一番良い時間というのはどこか。

     

    前にも書いたけれど、ご遺族から故人の生前の話を聞いている時間は、私にとっては、何か救いを見出す時間だ。

     

    それと並んで良い時があるとしたら、化粧のお加減などを見に行く時だろうか。

     

    下請け業者としてではなく、葬儀社の自社納棺の納棺師としての私のキャリアはかなり短いのだけれど、それでも何件かのご遺体のお世話をさせていただき、自社納棺という手厚い形態の良い部分を経験することができた。

     

    朝、出社して最初にすることは、ご遺体のご状況を確認しにいくことである。

     

    着替え、死化粧、ご納棺はすでに終わっている。処置や化粧の方針が正確であれば、表情やお顔色の一切変わらぬ故人が、まだ木の匂いのする棺の中に横たわっておられる。

     

    部屋は大抵寒く、薄暗い。故人の死に顔はいかにも安らかで、静かな不動の時間がその上に覆い被さり、その光景はより一層、人間の魂の永続性を象徴するかのようである。

     

    お身体に異常が無ければ、当日のスケジュールに合わせて、ご遺族の雰囲気なども考慮しつつ、消臭の処置やお顔色の調節など細々と行う。

     

    静かな空間で粛々とそれを行う時、ふと私は、自分がまるで”死”そのものになったようにも感じた。

     

    それは人を苦しめ、奪い、破壊する一方で、人に奉仕し、労り、苦痛を取り除いて、生き生きとした有限の中の華やかさを、死せる永遠の静かな輝きに変えてしまう。

     

    蝋燭を取り替え、お棺周りを整えてその暗い部屋の中から抜け出すと、あたりはまた雑然とした日常の、日の光の中に生き返っていく。

     

    ちょうど映画館から出てきた後のような。ついさっきまで、深い瞑想の中で何もかも忘れてしまっていた、不意にそれを頭の中に取り戻した時のような。

     

    そういう静かな、この世の外、の仕事である。

     

     

     

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    2018.12.06 Thursday

    納棺と獣

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      納棺(?)のこと。

       

      当時私が納棺師として働いていました営業所、近所に野良猫がいくらかおりまして。

       

      人間、変な話ですが、自分が苦しい生活をしている人ほど、野良の動物を大事にしたりするものですね。

       

      情というのは不可思議なもので、そうそう論理の是非で捉えきれぬところがあるのでしょう。福井県には、沢山の猫が住み着いているというので有名な『猫寺』なんていうのもあり、本なども出ているそうですね。

       

      それはそう、あんまり高級な住宅地でもないそういう場所に事業所があったもので、野良猫もおり、増えたの減ったの、どこそこでエサを貰ってるのを見ただとか、そんな風に時々の話題にものぼりつつ、まあごたごたと共生をしておったのです。

       

      ある日私、車の拭き掃除でもと外に出ると、道路の真ん中にぽつんと座っている茶猫の姿を見つけました。

       

      その足下には、茶色いボロ切れみたいなものがひとつ。

       

      生まれてすぐ、車にひかれたのでしょう。小さい子猫でした。

       

      見るとすでに息絶えており、相当の異臭を放ってもいるのですが、親猫はそのすぐ横に居座って、首のあたりの毛を舐めたり、動く気配もありません。

       

      いくらか迷ったあとで、これだけ小さければそう問題にもなるまいということで、子猫の亡骸は葬儀用の綿に包んで、その側の用水路の堤、雑草だらけの誰も通らぬあたりの地面に埋め(”生ゴミ”を勝手に地面に埋めるのは、法律的には良くないことだけれど)、上に石をひとつおいてやりました。

       

      子猫を包んでいる間、親猫は慌てる風もなくとことこ離れていって、遠くから私のやることを眺めておりました。

       

      しばらく後、数時間後でしょうか。またそこを通りがかると、親猫は子猫の埋まっているあたりの匂いを嗅ぎながら、その辺をウロウロしているのが見えました。

       

      ( 猫にも悲しみはあるのだろうか )

       

      眺めつつ、そんなことを少し考えたのですが、結局答えは見つかりませんでした。

       

       

       

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      2018.11.20 Tuesday

      納棺と怒り

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        納棺のこと。

         

        グリーフ(悲嘆)ケアという言葉がある。疑いようもなく、人間がもっとも悲嘆に暮れる瞬間は、身近の大切な誰かを失ってしまう瞬間だろう。

         

        悲しみには、濃淡があり、人と人との関係、思い入れ、好き嫌いとか、利害関係の問題などによって、遺される人の悲しみも違う。

         

        個人的な経験から言って、取り分け死別の悲しみの濃淡を最も深く左右する要素は、故人が亡くなられた時のご状況と、遺される側の覚悟・・・つまり心の準備のあるなしであるとか、死別が突然のものでなかったかどうか、という二つの点にあるように思われる。

         

        本当に深い悲嘆は、突然のむごたらしい死別によってもたらされる。この突然というのはもちろん、事故とか急性の病気であるとかの、事実としての突然ということもあるけれど、遺される側が「まさかあの人が死ぬなんて思ってもみなかった」という状況で不意に訪れる場合にも言えることであって、主観的な意味での”突然”であると言ってよい。

         

        本当に深い悲嘆は、その人の周囲のあらゆる人間を、絶望させるような重さを持っている。

         

        壮健な立派な人物が、立ち上がることもできなくなり、子供のようにうずくまって泣いているのを見るとき、一体私たちは、その側で何を感じれば良いというのだろう?

         

        一度ならず、そういうとき、納棺師としての私が抱くのは、紛れもなく神への憎しみの感情だった。剥き出しの残酷な真実への、わき上がる敵意だった。

         

        『例え地獄に落とされようとも、せめて生きた人間の尊厳と面影を、神や仏から奪い返してみせよう。』

         

        その気持ちは、ある時小さな火のように私の心の中に芽吹き、忘れて消え去られるわけでもなく、ひとつひとつの仕事を繰り返すたびに、だんだんと大きくなっていった。

         

         

         

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        2018.11.05 Monday

        納棺と着るもの

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          ちょうど季節でもあり、衣替え。整理して不要と思われる洋服を、今朝ゴミに出した。ゴミの出し方の説明書きを見るに、この洋服はどうやら集積されてリサイクル品としてどこぞへ持って行かれるようだ。

           

          使わない服。もう誰も着ない服。残される服。久々に、納棺のこと。

           

          ご家族から、故人の最後のお召し物を指定されるのは良くあることである。

           

          一般的にはスーツやお気に入りの着物など。少し変わったところでは、生前のご趣味でされていたフラメンコや日本舞踊のご衣装、祭りの法被、鉄道関係などの仕事の制服、職人の仕事着、などなど。

           

          よく悩まされるのは、宗教的な風習・慣習にまつわるご衣装で、例えば仕事を離れられたご住職が、亡くなった際にまた袈裟をお召しになる場合など、本格的なご衣装はなかなか素人には仕組みがわからず、結局ご家族などに教えていただいて着付けをすることにもなる。

           

          普通の着物くらいであれば戸惑いはしないものだが、そう言えば印象深い仕事がひとつ。

           

          お布団の上の故人、ご家族はお気持ちが深く、とても悲しまれているご様子だった。「最後にこれを」と出てきたお召し物は、振り袖・・・。

           

          一口に着物、と言えど、基本的に、振り袖は若い方のお召し物である。若い方が亡くなることは当然まれであり、そうすると納棺師が振り袖というものを扱う機会も少なくなる。だから、同じ着物のくくりではあっても、こういうものは少し緊張する。

           

          晴れ着の振り袖はただ単に袖丈が違うとかいうことだけではなく、寸法も小さめだし、帯も豪華なものが多い。単純に、同じやり方で着付けるわけにも行かないのが辛いところだ。

           

          苦心しつつ、色々手を尽くして、何とか見栄え良くその振り袖をお着せした。ご家族に面会していただくと、故人のお母様はしんみりとそれを喜ばれた。

           

          聞けば、記念の日に一度着たきりのお召し物であったという。故人のその装いを通して、ご家族が過ぎ去った日の出来事の光景を、ありありと思い出されているのが傍目にも感じられた。

           

          たかが、服。されど服なのだ。それらは私たちの人生を一時彩って、そしていずれはどこかに消え去らねばならない。消え去らねばならないとしたら、どんな風に・・・。

           

          ――ああ、思えばあの振り袖は、良い消え方をしたのだな。

           

          衣替え、服を捨てる、ゴミ捨て場と、リサイクルと。燃やされたら、もったいないか。死んでしまったら、何もかも無意味だったろうか。

           

          様々な思いが一瞬頭をよぎって、その思いの行き場でも求めるように、『ありがとう』と胸の中で一言、古布の入った袋ひとつをゴミ捨て場に、ポン、と置いてきたのだった。

           

           

           

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          2018.10.07 Sunday

          納棺と青アザ

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            久々に、納棺のこと。

             

            「ほら見て、手が真っ青でしょう。どこかでぶつけたのね。」

             

            『そうねぇ。最後まで病院のスタッフさんが色々頑張ってくれたからね。そりゃあ色々、仕方ないこともあるわね。』

             

            化粧着替えを終え、面会の折。畳の部屋、布団の上には故人が横たわり、それを囲むようにご家族が集まる。

             

            「あら、ここも・・・首の後ろ。真っ赤で痛そうねぇ・・・。」

             

            そう言ってしげしげと眺めておられるお顔にはかすかに笑みが浮かび、それは一見悲しみというよりも、好奇心に満ちた表情のようにも見える。

             

            だがその眼差しの奥で不安げに揺れる瞳の動きは明らかに、心中の動揺、混乱、猜疑心などを表している。

             

            不安、不満、疑い、怒り、悲しみ、空想、失望、焦燥、そして見捨てられ感。

             

            『死』に対する人間の無知は、瞬時にこれだけのものを生み出す。臨終という非日常の中で生み出されたその虚妄は、すぐさま日常を侵蝕しはじめ、何か悪しきものをまき散らして、私たちの精神を歪ませてしまう。

             

            そうしたものを防ぐためある時は盾となって、道となって、あの世この世の安らかな橋渡しをすることも納棺師に期待される役割である、と言ったら格好を付けすぎるだろうか。

             

            並んだお二人の、強ばったぎこちない笑顔にやおら向かいなおし、お声をかける。

             

            「本当に、痛そうなお色ですね。ただ、故人様がご生前に、これで苦しまれたということはないと思いますよ。このアザは死斑(しはん)と言って、人が無くなるとどなたも同じように浮き出てくるものです。血液の中の色素が、だんだん、沈んでくるからです。お手元の変色も、そのように。指先から始まっておられるので、打ち身ということもないと思います。」

             

            お伝えしたところで、こういう心情というものは、頭ではわかってもすぐさま晴れないこともある。お二人ともそれを聞いて、『うーん』という表情でまだしばらくは故人のお身体を確かめていたりする。

             

            やがてぱっと表情が戻って「なんだ、気にして損した。」というように気持ちを切り替えていただけたら・・・それでもうこちらとしては安心だ。少なからず自分の使命を果たせた、そういう満足感をもってご納棺を終えることができるだろう。

             

            −ー”先ず臨終のことを習うて、後に他事を習うべし”

             

            これは日蓮聖人のお言葉。仏教の言葉なので、もちろん身体ではなく心の問題について言われたのだろう。しかし納棺師がその同じお言葉を見れば、それは違う意味にも見える。

             

            納棺師は、他のどの職種の人々よりも、死体現象に詳しくなくてはならない。例え今はそうでなくとも、少なくとも、いつかはそうなろうという志を持つべきだ。

             

            死という現実、朽ちいく身体。それを前にして、人間にはできることとできないことがある。技術のあるなし以前に、先ずはその、できることできぬことを見極める目を持ち、その目をご遺族にお貸しすることこそ、納棺師の必須の要件なのだと言えるだろう。

             

             

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            2018.09.25 Tuesday

            納棺とひとんち

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              引き続き納棺のこと。

               

              納棺師というのは、色んな家を見る。

               

              お身内を亡くされて、慌ただしく、部屋の片付けなどとても、という状況でご自宅に上がりこんで仕事をする。

               

              色んな家がある。広い家、狭い家、片付いた家、荷物の多い家、人気のない家、暖かみのある家、デザインのある家、機能重視の家。

               

              家は、その人その家族の人生を反映して、表情も表現も実に豊かなバリエーションに富んでいる。

               

              いつも思うのだが、家の中、プライベートな空間にお邪魔するということは、相手の無意識の中に足を踏み入れるようなものだ。

               

              ユングは「夢は無意識の王道」と言ったそうだが、家もまた、人間の心理的な状況や構造をこれでもかというほど如実に表す。

               

              似た職業の人は似た家、似た状況であることも多い。家の構えを見た瞬間に、農家か漁師か医者か建築関係か。その職業がわかったりもする。

               

              諸々の家に足を踏み入れ、しんみりと思うこと。喜ばしいことでもあり、同時に切なく悲しいことでもあるのだが。

               

              『 一口に”人”と言っても、人生は、斯くも違う。なるほど人間同士は、分かり合えないはずである。 』

               

               

               

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              2018.09.24 Monday

              納棺と誰だ?

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                「あぁ、この家かぁ・・・。」

                 

                納棺の現場に到着して一言。

                 

                その家のことは知っている。玄関まで行けば、家の大体の間取りくらいも思い出せる。

                 

                身近な知り合いの家とかってわけではない。訪れたのは一度だけ。前回の、納棺の際。

                 

                同じお家に何度も訪問することはある。多ければ3回、4回とお伺いすることもある。切ないが生きるとはそういうことだ。

                 

                それでも「もういいや」とならずに毎回納棺の仕事を依頼していただけるのは、前回の仕事ぶりを認めてもらえたようでありがたい。その期待に応えなければと、自然身も引き締まる。

                 

                故人は時には、知ったお顔である。前回の仕事が1、2年以内くらいなら、別の方の納棺の際にお会いしていて、こちらの記憶に残っている可能性も高い。

                 

                とは言えほんの数十分の面識で、ご印象は曖昧だ。(どんな人だったかなぁ)と記憶を辿ったりしつつ、着替えとお化粧を終わらせる。

                 

                納棺式ということになって、ご家族が集まる。皆様すでに経験をされているので話が早い。時にはご家族同士で、前回はあれをした、棺にはこれを入れたと思い出話をされる。

                 

                「おじいちゃんはあの時一緒に居たんだっけ?」

                 

                『居たじゃない。〜〜を学校に迎えに行ったから、遅くなったのよ。』

                 

                瞬間、その一場面をありありと思い出す。お孫様を伴われて、故人が玄関から入ってくる。ご家族に急かされて、お孫様と一緒に急いで靴を脱ぐ。

                 

                記憶は一瞬。その一瞬だけ。

                 

                人間の記憶というのは都合の良いもので、過去の出来事は現在の気分や体調にさえ影響され色彩を変える。またある記憶が別の記憶と重なり混ざり合うこともあり、その正確さはと言えば疑わしい。

                 

                けれど少なくとも、思い出せた。記憶は私の中では、ささやかな確信となって故人との縁を確かに結んでくれた。それで十分だ。目の前に横たわる人は、もう他人ではない。私の知っている誰かである。

                 

                ( ずいぶん、ご挨拶が遅くなりましたが・・・ )

                 

                その時の胸の内の印象、背筋の自然にシャンと整う感じは、あえて言葉にすればこんな風だ。

                 

                ( またお目にかかれましたね。この度は、拙いながら精一杯旅立ちをお手伝いさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします・・・ )

                 

                 

                 

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                2018.09.09 Sunday

                納棺と長生き

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                  『こういう仕事をしてると、あんた長生きするよ』と、故人の奥様がおっしゃった。

                   

                  ご自宅にてすでに亡き人の納棺を終え、しばし雑談をしている最中のこと。

                   

                  「そうでしょうか?」と返すと、『そうよ。そういうもんよ。』と白髪の女性は屈託なく笑っておられた。

                   

                  毎日を、己の生業として『死』に触れている納棺師たち。彼らは長生きするだろうか。

                   

                  個人的には、その仕事を通して私の価値観は変わった。財布の中には、名刺用紙に印刷した「死亡時の手はず書き」を入れたりなどしている。いつ死んでも苦労がかからないように。

                   

                  私は仕事柄、死を良く受け入れている方だとは思う。が、それは「長生き」とは正反対のような気もする。

                   

                  けれど案外、そういうことなのかもしれない。

                   

                  死を恐れなければかえって、長生きもするものなのかもしれない。

                   

                  「ありそうな話ですね」と、今ならあの人に、笑って調子を合わせられそうなものだ。

                   

                   

                   

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                  2018.09.01 Saturday

                  納棺と、今昔 家物語

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                    縁側は死の匂いがする。現代の家は、そんなものまるで縁が無いとばかりに、素知らぬ顔で取り澄ましているのだ。

                     

                    と、まあ詩的な書き出しをしてみましたが、ひどく現実的な話です。納棺のこと。

                     

                    納棺師は、割合にして半分くらいは葬儀会館で仕事をします。もう半分くらいは、ご自宅を訪問して湯灌(お風呂)やご納棺をするわけです。

                     

                    ご自宅訪問の場合、お家に着いた瞬間に、その現場の難しさが結構わかるものです。家の作りが現代的かどうかで。

                     

                    伝統的な間取りで縁側があったりすると、「あぁここは大丈夫、やり易そう」と感じます。そういうお家はどちらかと言えば古い家に多いです。

                     

                    新しいお家も場合によりけりですが、別荘地とか、街中のデザイナーズハウスを見ると、ちょっと「うっ!」と思いますね。

                     

                    というのは、古い作り、縁側が居間や客間に繋がっているお家であれば、故人様のご帰宅、浴槽や棺の出し入れ、枕経(お坊様の最初のお経)の準備などがある程度余裕を持って行える、それだけの広さがあるのです。

                     

                    場合によってはそこに祭壇を組んで、受付を設けてそのまま葬儀のセッティングまでできることもあります。

                     

                    逆に、とても新しい綺麗なお家であると、間取りの考え方などがそういう日本古来の伝統的な使い方に対応していないこともあります。棺を入れるスペースが無い、人が集まれない、故人様がお柩に移られたら、とてもそれを数人で抱えて家から運び出す導線が見当たらない、など。

                     

                    だから、古いお家はちょっと安心するんですよね。

                     

                    多分、代々その家を使ってきて、間取りなんかも予めルールがあって、「死ぬ」ってことを昔の人は・・・何というか今に比べたらずっと「おっかなびっくり」だったのかもしれないけど、一応もうちょっと直視するというか、ありのまま「そういうもんだ」と受け入れている部分があったんじゃないかなぁ・・・。

                     

                    さて皆さんも、お暇なときにちょっと考えてみると良いですよ。今住んでいるお家、安心して「死」を迎えられる間取りになっているかどうか。棺は入りますか・・・霊柩車は近くに停められますか、広間をひとつ取れますか、など。

                     

                    そうそう、変わった方が居ましてね。元大工さん、ある日大病を患って、療養しながら家に着いた時に気付いてしまった。

                     

                    その家、棺がどこからも入らない。

                     

                    それでどうしたかっていうとですけど、玄関の一部を四角く切り取って、「俺が死んだらここから運んでくれ」と。わざわざそこまでの生前のご希望ですからね、しっかりその見慣れない四角の隙間を使わせてもらって、お家から出棺させていただいたんでしたっけ。

                     

                    死生観、色々ですね。暗いことだけじゃない。そういう部分にこそ、「人柄」ってやつが光るんだなぁ・・・。

                     

                     

                     

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                    2018.08.27 Monday

                    納棺と夢

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                      どんな仕事にだってストレスはある。けれど納棺の場合は、そのストレスは泥のように拭いがたい実感を伴って、心の深い部分にまとわりついてくる。

                       

                      だから納棺師は、時々印象深い夢を見る。きっと私だけではないはずだ。変わった仕事の後、矢継ぎ早に現場を終わらせて心身共に疲れきっている日、失敗した時、驚かされた時、などなど。

                       

                      そうしたストレスを整理して心を回復させるために、深いリアルな夢を見るのだ。

                       

                      例えば私は、『こんな夢を見た』。

                       

                      一人での仕事で、大きな屋敷に人影は少ない。ご家族は他の仕事で忙しいのか、ちょっと顔を合わせた後すぐどこかへ行ってしまう。

                       

                      どこそこの部屋にご遺体が、と説明を受けた私は、知らない他人の家の畳部屋をいくつも歩き回り、ようやくご遺体を見つける。

                       

                      仕事がはじまり、順調に進む。何も異常はない、いつもどおりだ。ピンセットを使って口と鼻の奥に綿を詰める・・・上手くアゴが上がり、口が閉じた。

                       

                      その時、ふと、ご遺体の足下に黒い大きめのバッグがあることに気付き、妙な違和感を覚える。そういえばこの部屋には、普段使いの荷物が多すぎる。スーツや旅行カバン、たたんだままの布団など。ご遺体を安置するような雰囲気ではない。

                       

                      胸のざわつきが高まる。私は立ち上がって、隣の部屋に続いているであろう襖を開ける。するとそこには、介護ベッドの上に横たわり顔に白布をかけた「別のご遺体」が安置されている。

                       

                      でも−−だとしたら−−さっきまで私が処置していた「ご遺体」は何なのか・・・?

                       

                      焦りは最高潮になり、私の頭は夢の中でパニック状態になりながら、高速に回り始める。そうだ、私は生きた人間に死後処置を施したのだ。生きているのか?殺したのか?怪我を負ったことには間違いない。何と言い訳できよう。先ず家族を探すか。病院に電話を?いやいや、それよりも怪我の状態を見定めなければ。もしかしたら、もしかしたら・・・案外何ともなっていないかもしれない!

                       

                      そんなことを考えている内に、夢は覚める。汗をかいている。心臓が激しく打っている。ため息をつく。脱力して、ぼうっとした頭で心底「よかった」と思う。

                       

                      「夢は無意識の王道」。この言葉も、最近ではもうあまり意味を持たないかもしれないが。私自身は、当事者として私の無意識の心理内容を、その訴えをはっきりと受け取ることができる。

                       

                      そしてこの象徴的な夢を見た後で、こう思うのだ。「良かった・・・自分はまだ、納棺師をやっていて良いみたいだ。」

                       

                       

                       

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