2018.11.05 Monday

納棺と着るもの

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    ちょうど季節でもあり、衣替え。整理して不要と思われる洋服を、今朝ゴミに出した。ゴミの出し方の説明書きを見るに、この洋服はどうやら集積されてリサイクル品としてどこぞへ持って行かれるようだ。

     

    使わない服。もう誰も着ない服。残される服。久々に、納棺のこと。

     

    ご家族から、故人の最後のお召し物を指定されるのは良くあることである。

     

    一般的にはスーツやお気に入りの着物など。少し変わったところでは、生前のご趣味でされていたフラメンコや日本舞踊のご衣装、祭りの法被、鉄道関係などの仕事の制服、職人の仕事着、などなど。

     

    よく悩まされるのは、宗教的な風習・慣習にまつわるご衣装で、例えば仕事を離れられたご住職が、亡くなった際にまた袈裟をお召しになる場合など、本格的なご衣装はなかなか素人には仕組みがわからず、結局ご家族などに教えていただいて着付けをすることにもなる。

     

    普通の着物くらいであれば戸惑いはしないものだが、そう言えば印象深い仕事がひとつ。

     

    お布団の上の故人、ご家族はお気持ちが深く、とても悲しまれているご様子だった。「最後にこれを」と出てきたお召し物は、振り袖・・・。

     

    一口に着物、と言えど、基本的に、振り袖は若い方のお召し物である。若い方が亡くなることは当然まれであり、そうすると納棺師が振り袖というものを扱う機会も少なくなる。だから、同じ着物のくくりではあっても、こういうものは少し緊張する。

     

    晴れ着の振り袖はただ単に袖丈が違うとかいうことだけではなく、寸法も小さめだし、帯も豪華なものが多い。単純に、同じやり方で着付けるわけにも行かないのが辛いところだ。

     

    苦心しつつ、色々手を尽くして、何とか見栄え良くその振り袖をお着せした。ご家族に面会していただくと、故人のお母様はしんみりとそれを喜ばれた。

     

    聞けば、記念の日に一度着たきりのお召し物であったという。故人のその装いを通して、ご家族が過ぎ去った日の出来事の光景を、ありありと思い出されているのが傍目にも感じられた。

     

    たかが、服。されど服なのだ。それらは私たちの人生を一時彩って、そしていずれはどこかに消え去らねばならない。消え去らねばならないとしたら、どんな風に・・・。

     

    ――ああ、思えばあの振り袖は、良い消え方をしたのだな。

     

    衣替え、服を捨てる、ゴミ捨て場と、リサイクルと。燃やされたら、もったいないか。死んでしまったら、何もかも無意味だったろうか。

     

    様々な思いが一瞬頭をよぎって、その思いの行き場でも求めるように、『ありがとう』と胸の中で一言、古布の入った袋ひとつをゴミ捨て場に、ポン、と置いてきたのだった。

     

     

     

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    2018.10.07 Sunday

    納棺と青アザ

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      久々に、納棺のこと。

       

      「ほら見て、手が真っ青でしょう。どこかでぶつけたのね。」

       

      『そうねぇ。最後まで病院のスタッフさんが色々頑張ってくれたからね。そりゃあ色々、仕方ないこともあるわね。』

       

      化粧着替えを終え、面会の折。畳の部屋、布団の上には故人が横たわり、それを囲むようにご家族が集まる。

       

      「あら、ここも・・・首の後ろ。真っ赤で痛そうねぇ・・・。」

       

      そう言ってしげしげと眺めておられるお顔にはかすかに笑みが浮かび、それは一見悲しみというよりも、好奇心に満ちた表情のようにも見える。

       

      だがその眼差しの奥で不安げに揺れる瞳の動きは明らかに、心中の動揺、混乱、猜疑心などを表している。

       

      不安、不満、疑い、怒り、悲しみ、空想、失望、焦燥、そして見捨てられ感。

       

      『死』に対する人間の無知は、瞬時にこれだけのものを生み出す。臨終という非日常の中で生み出されたその虚妄は、すぐさま日常を侵蝕しはじめ、何か悪しきものをまき散らして、私たちの精神を歪ませてしまう。

       

      そうしたものを防ぐためある時は盾となって、道となって、あの世この世の安らかな橋渡しをすることも納棺師に期待される役割である、と言ったら格好を付けすぎるだろうか。

       

      並んだお二人の、強ばったぎこちない笑顔にやおら向かいなおし、お声をかける。

       

      「本当に、痛そうなお色ですね。ただ、故人様がご生前に、これで苦しまれたということはないと思いますよ。このアザは死斑(しはん)と言って、人が無くなるとどなたも同じように浮き出てくるものです。血液の中の色素が、だんだん、沈んでくるからです。お手元の変色も、そのように。指先から始まっておられるので、打ち身ということもないと思います。」

       

      お伝えしたところで、こういう心情というものは、頭ではわかってもすぐさま晴れないこともある。お二人ともそれを聞いて、『うーん』という表情でまだしばらくは故人のお身体を確かめていたりする。

       

      やがてぱっと表情が戻って「なんだ、気にして損した。」というように気持ちを切り替えていただけたら・・・それでもうこちらとしては安心だ。少なからず自分の使命を果たせた、そういう満足感をもってご納棺を終えることができるだろう。

       

      −ー”先ず臨終のことを習うて、後に他事を習うべし”

       

      これは日蓮聖人のお言葉。仏教の言葉なので、もちろん身体ではなく心の問題について言われたのだろう。しかし納棺師がその同じお言葉を見れば、それは違う意味にも見える。

       

      納棺師は、他のどの職種の人々よりも、死体現象に詳しくなくてはならない。例え今はそうでなくとも、少なくとも、いつかはそうなろうという志を持つべきだ。

       

      死という現実、朽ちいく身体。それを前にして、人間にはできることとできないことがある。技術のあるなし以前に、先ずはその、できることできぬことを見極める目を持ち、その目をご遺族にお貸しすることこそ、納棺師の必須の要件なのだと言えるだろう。

       

       

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      JUGEMテーマ:葬儀

       

       

      2018.09.25 Tuesday

      納棺とひとんち

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        引き続き納棺のこと。

         

        納棺師というのは、色んな家を見る。

         

        お身内を亡くされて、慌ただしく、部屋の片付けなどとても、という状況でご自宅に上がりこんで仕事をする。

         

        色んな家がある。広い家、狭い家、片付いた家、荷物の多い家、人気のない家、暖かみのある家、デザインのある家、機能重視の家。

         

        家は、その人その家族の人生を反映して、表情も表現も実に豊かなバリエーションに富んでいる。

         

        いつも思うのだが、家の中、プライベートな空間にお邪魔するということは、相手の無意識の中に足を踏み入れるようなものだ。

         

        ユングは「夢は無意識の王道」と言ったそうだが、家もまた、人間の心理的な状況や構造をこれでもかというほど如実に表す。

         

        似た職業の人は似た家、似た状況であることも多い。家の構えを見た瞬間に、農家か漁師か医者か建築関係か。その職業がわかったりもする。

         

        諸々の家に足を踏み入れ、しんみりと思うこと。喜ばしいことでもあり、同時に切なく悲しいことでもあるのだが。

         

        『 一口に”人”と言っても、人生は、斯くも違う。なるほど人間同士は、分かり合えないはずである。 』

         

         

         

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        2018.09.24 Monday

        納棺と誰だ?

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          「あぁ、この家かぁ・・・。」

           

          納棺の現場に到着して一言。

           

          その家のことは知っている。玄関まで行けば、家の大体の間取りくらいも思い出せる。

           

          身近な知り合いの家とかってわけではない。訪れたのは一度だけ。前回の、納棺の際。

           

          同じお家に何度も訪問することはある。多ければ3回、4回とお伺いすることもある。切ないが生きるとはそういうことだ。

           

          それでも「もういいや」とならずに毎回納棺の仕事を依頼していただけるのは、前回の仕事ぶりを認めてもらえたようでありがたい。その期待に応えなければと、自然身も引き締まる。

           

          故人は時には、知ったお顔である。前回の仕事が1、2年以内くらいなら、別の方の納棺の際にお会いしていて、こちらの記憶に残っている可能性も高い。

           

          とは言えほんの数十分の面識で、ご印象は曖昧だ。(どんな人だったかなぁ)と記憶を辿ったりしつつ、着替えとお化粧を終わらせる。

           

          納棺式ということになって、ご家族が集まる。皆様すでに経験をされているので話が早い。時にはご家族同士で、前回はあれをした、棺にはこれを入れたと思い出話をされる。

           

          「おじいちゃんはあの時一緒に居たんだっけ?」

           

          『居たじゃない。〜〜を学校に迎えに行ったから、遅くなったのよ。』

           

          瞬間、その一場面をありありと思い出す。お孫様を伴われて、故人が玄関から入ってくる。ご家族に急かされて、お孫様と一緒に急いで靴を脱ぐ。

           

          記憶は一瞬。その一瞬だけ。

           

          人間の記憶というのは都合の良いもので、過去の出来事は現在の気分や体調にさえ影響され色彩を変える。またある記憶が別の記憶と重なり混ざり合うこともあり、その正確さはと言えば疑わしい。

           

          けれど少なくとも、思い出せた。記憶は私の中では、ささやかな確信となって故人との縁を確かに結んでくれた。それで十分だ。目の前に横たわる人は、もう他人ではない。私の知っている誰かである。

           

          ( ずいぶん、ご挨拶が遅くなりましたが・・・ )

           

          その時の胸の内の印象、背筋の自然にシャンと整う感じは、あえて言葉にすればこんな風だ。

           

          ( またお目にかかれましたね。この度は、拙いながら精一杯旅立ちをお手伝いさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします・・・ )

           

           

           

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          2018.09.09 Sunday

          納棺と長生き

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            『こういう仕事をしてると、あんた長生きするよ』と、故人の奥様がおっしゃった。

             

            ご自宅にてすでに亡き人の納棺を終え、しばし雑談をしている最中のこと。

             

            「そうでしょうか?」と返すと、『そうよ。そういうもんよ。』と白髪の女性は屈託なく笑っておられた。

             

            毎日を、己の生業として『死』に触れている納棺師たち。彼らは長生きするだろうか。

             

            個人的には、その仕事を通して私の価値観は変わった。財布の中には、名刺用紙に印刷した「死亡時の手はず書き」を入れたりなどしている。いつ死んでも苦労がかからないように。

             

            私は仕事柄、死を良く受け入れている方だとは思う。が、それは「長生き」とは正反対のような気もする。

             

            けれど案外、そういうことなのかもしれない。

             

            死を恐れなければかえって、長生きもするものなのかもしれない。

             

            「ありそうな話ですね」と、今ならあの人に、笑って調子を合わせられそうなものだ。

             

             

             

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            2018.09.01 Saturday

            納棺と、今昔 家物語

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              縁側は死の匂いがする。現代の家は、そんなものまるで縁が無いとばかりに、素知らぬ顔で取り澄ましているのだ。

               

              と、まあ詩的な書き出しをしてみましたが、ひどく現実的な話です。納棺のこと。

               

              納棺師は、割合にして半分くらいは葬儀会館で仕事をします。もう半分くらいは、ご自宅を訪問して湯灌(お風呂)やご納棺をするわけです。

               

              ご自宅訪問の場合、お家に着いた瞬間に、その現場の難しさが結構わかるものです。家の作りが現代的かどうかで。

               

              伝統的な間取りで縁側があったりすると、「あぁここは大丈夫、やり易そう」と感じます。そういうお家はどちらかと言えば古い家に多いです。

               

              新しいお家も場合によりけりですが、別荘地とか、街中のデザイナーズハウスを見ると、ちょっと「うっ!」と思いますね。

               

              というのは、古い作り、縁側が居間や客間に繋がっているお家であれば、故人様のご帰宅、浴槽や棺の出し入れ、枕経(お坊様の最初のお経)の準備などがある程度余裕を持って行える、それだけの広さがあるのです。

               

              場合によってはそこに祭壇を組んで、受付を設けてそのまま葬儀のセッティングまでできることもあります。

               

              逆に、とても新しい綺麗なお家であると、間取りの考え方などがそういう日本古来の伝統的な使い方に対応していないこともあります。棺を入れるスペースが無い、人が集まれない、故人様がお柩に移られたら、とてもそれを数人で抱えて家から運び出す導線が見当たらない、など。

               

              だから、古いお家はちょっと安心するんですよね。

               

              多分、代々その家を使ってきて、間取りなんかも予めルールがあって、「死ぬ」ってことを昔の人は・・・何というか今に比べたらずっと「おっかなびっくり」だったのかもしれないけど、一応もうちょっと直視するというか、ありのまま「そういうもんだ」と受け入れている部分があったんじゃないかなぁ・・・。

               

              さて皆さんも、お暇なときにちょっと考えてみると良いですよ。今住んでいるお家、安心して「死」を迎えられる間取りになっているかどうか。棺は入りますか・・・霊柩車は近くに停められますか、広間をひとつ取れますか、など。

               

              そうそう、変わった方が居ましてね。元大工さん、ある日大病を患って、療養しながら家に着いた時に気付いてしまった。

               

              その家、棺がどこからも入らない。

               

              それでどうしたかっていうとですけど、玄関の一部を四角く切り取って、「俺が死んだらここから運んでくれ」と。わざわざそこまでの生前のご希望ですからね、しっかりその見慣れない四角の隙間を使わせてもらって、お家から出棺させていただいたんでしたっけ。

               

              死生観、色々ですね。暗いことだけじゃない。そういう部分にこそ、「人柄」ってやつが光るんだなぁ・・・。

               

               

               

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              2018.08.27 Monday

              納棺と夢

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                どんな仕事にだってストレスはある。けれど納棺の場合は、そのストレスは泥のように拭いがたい実感を伴って、心の深い部分にまとわりついてくる。

                 

                だから納棺師は、時々印象深い夢を見る。きっと私だけではないはずだ。変わった仕事の後、矢継ぎ早に現場を終わらせて心身共に疲れきっている日、失敗した時、驚かされた時、などなど。

                 

                そうしたストレスを整理して心を回復させるために、深いリアルな夢を見るのだ。

                 

                例えば私は、『こんな夢を見た』。

                 

                一人での仕事で、大きな屋敷に人影は少ない。ご家族は他の仕事で忙しいのか、ちょっと顔を合わせた後すぐどこかへ行ってしまう。

                 

                どこそこの部屋にご遺体が、と説明を受けた私は、知らない他人の家の畳部屋をいくつも歩き回り、ようやくご遺体を見つける。

                 

                仕事がはじまり、順調に進む。何も異常はない、いつもどおりだ。ピンセットを使って口と鼻の奥に綿を詰める・・・上手くアゴが上がり、口が閉じた。

                 

                その時、ふと、ご遺体の足下に黒い大きめのバッグがあることに気付き、妙な違和感を覚える。そういえばこの部屋には、普段使いの荷物が多すぎる。スーツや旅行カバン、たたんだままの布団など。ご遺体を安置するような雰囲気ではない。

                 

                胸のざわつきが高まる。私は立ち上がって、隣の部屋に続いているであろう襖を開ける。するとそこには、介護ベッドの上に横たわり顔に白布をかけた「別のご遺体」が安置されている。

                 

                でも−−だとしたら−−さっきまで私が処置していた「ご遺体」は何なのか・・・?

                 

                焦りは最高潮になり、私の頭は夢の中でパニック状態になりながら、高速に回り始める。そうだ、私は生きた人間に死後処置を施したのだ。生きているのか?殺したのか?怪我を負ったことには間違いない。何と言い訳できよう。先ず家族を探すか。病院に電話を?いやいや、それよりも怪我の状態を見定めなければ。もしかしたら、もしかしたら・・・案外何ともなっていないかもしれない!

                 

                そんなことを考えている内に、夢は覚める。汗をかいている。心臓が激しく打っている。ため息をつく。脱力して、ぼうっとした頭で心底「よかった」と思う。

                 

                「夢は無意識の王道」。この言葉も、最近ではもうあまり意味を持たないかもしれないが。私自身は、当事者として私の無意識の心理内容を、その訴えをはっきりと受け取ることができる。

                 

                そしてこの象徴的な夢を見た後で、こう思うのだ。「良かった・・・自分はまだ、納棺師をやっていて良いみたいだ。」

                 

                 

                 

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                2018.08.19 Sunday

                納棺と一人

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                  たった一人、故人と共に住み慣れた家。何を思うのだろうか、胸の内では・・・

                   

                  納棺といえばだいたい、身近な親族が集まって、時にはまだ小さな孫から親戚、近所の方までも一室に集い、故人を偲びながらお棺までのおみおくりをするものである。

                   

                  布団に寝ているという日常の延長線上から、棺の中に安置されるという非日常の中へと、この世あの世の一線を越えて旅立っていかれる。

                   

                  そうやって故人がまたひとつ、はっきりと遠くへ行ってしまう節目であるし、同時に我々生者が生前において「死」の現実を学ぶ貴重な時間でもあるから、身近な人間はなるべく集まるように、というのが習わしではある。

                   

                  とは言え、必ずしもそうではない。親族は皆さまそろって遠方に在住、すぐには集まれないが火葬の都合上、納棺は済ませておきたい。そんなことはざらにある。

                   

                  だから納棺の折、ご参集のご家族が多いか少ないか。それは全くもってその場次第、ということになる。

                   

                  どういう事情であれ、ご遺体がお家にあれば誰か一人は付き添いでおられることにはなるが、故人一人、ご家族一人。そういう状況でのご納棺は、家族集まっての納棺とはずいぶん空気が違う。

                   

                  人数が少なければ少ないほど、その場の儀式的/形式的な意味合いは薄れていき、付き添いの方の故人に対する個人的な想いだとか、「こうしてあげたい」「これも、あれも」という好み、そんなものが前面に出てくるのだ。

                   

                  そんな時は、ご家族からよく昔話などを聞かせていただける。私はこの時間がとても好きである。「この人はこんな仕事をしていて、もう何十年も同じところで勤めた」とか、「どこそこの施設に飾ってあるあの剥製は、この人が捕まえたもの」とか。

                   

                  「厳しい人だった」

                   

                  「頑固で、生きている間はみんなを困らせたね」

                   

                  「若いときはヨーロッパへ留学していて・・・」

                   

                  「海女さんをしていて、そのせいで指の形が変わったっていつも言ってたな」

                   

                  「本当に優しい人でね」

                   

                  「早くにお母さんが亡くなったけど、再婚はせずにずっと仏壇にご飯を供えて・・・」

                   

                  「近所のお祭り。もうずっと欠かさずに」

                   

                  「学校の先生で、音楽を教えてました。入院の時に、昔の生徒からの寄せ書きが・・・」

                   

                  「家の中では全然しゃべらない親父だった。たまに話をすると・・・」

                   

                  「働き者だったねぇ」

                   

                  「その時大ゲンカをして。今じゃ仲直りしたけど、あの頃は本当に・・・」

                   

                  「私にとっては、本当に神様仏様みたいな、ね」

                   

                  −−死は、善悪の全てを流し去ってくれる。死は、もはや誰も裁かない。こういう身の上話を聞いているときには、それは一種の安楽の地であるようにさえ私には思える。もう誰も傷付く必要はないのだ、全ては終わってしまったのだから。

                   

                  納棺を終え、柩の蓋をお閉じする。その中で安らかに眠っている方は、もう私たちに、何の恐れも感じさせない。小さな箱の中にただ人間性の輝きだけが沈殿し、その船は永遠の闇の中へゆっくりと漕ぎ出そうとしている。

                   

                  そこには一種の神性が宿りうる。ただ滅び去る物質に過ぎないものにそうした輝きが宿りうるのは、ただひとえに、私たちが去って行くその人のことを知っているから、その人を尊敬するから、その人を深く愛していたからだろう。

                   

                  部外者である私でさえ、故人の生前を知らされれば、お蓋閉じのときには思わず胸の内でこう呟く。

                   

                  『お休みなさい、お疲れ様でした。この世界に生きてくれて、ありがとう。』

                   

                   

                   

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                  2018.08.17 Friday

                  納棺と塩

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                    「塩まいておけ!」なんて、テレビドラマの中だけかと思っていた。

                     

                    納棺の仕事をしていて、たった1回だけ、実際にこう言われたことがある。言った本人が塩をまくわけでもなし、その方の奥さんがいかにもバツが悪そうに、玄関先に塩を振りまいて「もう、これで気が済んだでしょ!」と嫌々ながらやっておられた。

                     

                    50代くらいの男性で、気難しそうな方。あまり喋らなかった。(後にして思えば、納棺師だとかの"影"の仕事をしている人間とは、あまり気さくに打ち解けるものでもないと考えて、あえてそうしていたのかもしれない。)

                     

                    その方の母親にあたる年配の女性の納棺を終え、お家から退席しようという折りのこと。

                     

                    −−塩を撒かれる。いつか自分にもそういう日が来ようとは。

                     

                    傷付くとか、憤るというようなことはなかった。それよりも、不思議と(良かった)という思いの方が強かった。

                     

                    小さなおまじないから大きな祝祭に至るまで、儀式というものは、心のあいまいな混乱に形を与えるためのものである。形があれば、触れることができ、それを制御できるようになる。

                     

                    塩を撒くという他愛ないカタチを通して、その人は心の中にちょっとしたけじめをつけ、見慣れた自分の世界を少しだけ回復したのだ。

                     

                    そして私は、その行動を通じて、その人の「死生観」を少しだけ知ることができた。ほんの少しだけ、その人の心の真実に近付くことができたのだとも言える。

                     

                    それにもう一つ、納得する理由があった。訪問したお家は海の目の前、家の前には「釣船 〜〜丸」と書かれた看板。塩を撒け、と言ったのはそのお家のご亭主、ということは、その方は漁師さんというわけだ。

                     

                    古今東西、海の男は迷信深いものだとものの本に書いてある。それは海という、征服不可能な荒々しい自然に命を投げ打って挑んできた男たちの、不安と祈りの表れでもあるのだろう。そういう迷信に対して「何を失礼な」と怒る気にはならないものだ。

                     

                    とは言え、奥様には多少、悪いことになった。着付けとお化粧を終えたあと、「お母さん綺麗になった」とずいぶん喜んでもらったのだ。さっきまでお礼を言っていた相手に、今度は塩を撒けというのだから忙しい。

                     

                    その場で私にできることと言えば、せいぜい苦笑いで、気にしてない風に、こっそり会釈するぐらいのことであった。

                     

                     

                     

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                    2018.08.11 Saturday

                    納棺と爆発物

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                      納棺現場からの帰り道、軽バンを運転して慣れた道をゴトゴト走っていた。

                       

                      『ボン!』

                       

                      突然のこと。すぐ近くで何かが爆発したのだ。ちょっとパニックになる。車両の後部、荷物を積んでいるあたりからだった。

                       

                      クルマを停めて確かめてみると、音の正体はすぐにわかった。

                       

                      割れたビニール袋。そこからもうもうと立ち昇る白煙。燃えているわけじゃない。袋の周りに散らばって「チリチリ」と音を立てている白い欠片は−−ドライアイス。

                       

                      ドライアイスというのは、圧縮・冷却した二酸化炭素のパウダーに、少量の水を混ぜて固めたものである。固体の状態から気体へと昇華するときには、その体積は800倍にもなる。

                       

                      初歩的なことなのだが、使い差しの余ったドライアイスなどは、例え少量であっても密閉した容器に入れてはいけない。小指一本分でも大変なことになる。今回はそれを誤ってゴミと一緒にビニール袋に入れ、口を縛ってしまったというわけだ。

                       

                      ドライアイスは爆発も怖いが、もっと怖いのは、二酸化炭素中毒だ。つい先日もアメリカでアイスクリーム用のドライアイスを積んだ車に乗っていた女性が死亡する事故が起きた。同様の事件は日本でも起きており、昇華によって急激に二酸化炭素を充満させるドライアイスの危険性は、今ひとつ認知されていないのが実情だ。

                       

                      納棺の現場でも、棺というのはそれほど厳密に密閉性の高いものではないので余計な心配かもしれないが、お蓋をお閉じした後は念のため「中に二酸化炭素が充満しているので、開けるときは少し顔を背けて吸い込まないようにしてくださいね」と断りを入れたりする。

                       

                      ちょうどこの時期、お盆の親族の集まりでバーベキューや宴会などする人もいるだろう。スーパーで肉やケーキを買って、保冷用にドライアイスを多めにもらうこともあるかもしれない。

                       

                      くれぐれも事故には注意してほしいものだが、それと同時に、子供たちにも豆知識としてドライアイスの性質など教えてあげても良いと思う。その子が大人になって、何かの拍子でドライアイスをもらうことがある度に、きっとあなたの事を思い出してくれるはずだ。

                       

                       

                       

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