2019.02.25 Monday

納棺と言葉

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    納棺のこと・・・は、もう大体語り尽くしてしまった。これと、あともう1エピソードぐらいだろうか。

     

    どの現場も人間一人の何十年が終わる時のことであって、それは本来、到底語り尽くせるものではないだろうけれど、私の小さな頭に刻み込んできたものはもう底を突きそうだ。

     

    さて、納棺師にとって、葬儀担当者というのは無視できない存在である。納棺師がご遺族から直接仕事を請け負うということは通常有り得ないことで、それらは全て窓口として、葬儀全体を取り仕切る葬儀社の担当営業スタッフを介して依頼されることになる。だからこの意味では、納棺師の直接の”お客様”というのは、ご遺族ではなく葬儀担当者である。

     

    この葬儀担当というのも実に様々な方がおられて、皆様それぞれの信念があったり、思想があったりして面白い。会社側からの色々なルールや指示の中で出来ること出来ないことを手探りしながら、自分なりに最良の答えを出そうと各自で模索しておられる。

     

    そういうお一人ずつの考え方の違いを汲み取る努力をしながら、元請けの意向に沿って一番良いサービスをご遺族と故人様に提供させていただくというのが、専門業者としての納棺師の立ち位置だ。

     

    ある葬儀担当の方は、印象深かったのだが、良くご遺体に話しかけておられた。それは確か、ちょうど年の瀬に亡くなった女性の葬儀の件だった。

     

    年末年始を挟むと流石に、お坊様もすぐ飛んできてお経を上げ、明日にでもお葬式を上げましょうということにはなりにくい。他にお盆なども同様で、檀家を回っておられ約束も多々ある中で、お経を上げていただく方が居なくてしばし故人様にお待ちいただくということにはなってしまう。

     

    その女性の場合も、ちょうどそんな運の悪い時期にはまり込んでしまって、ご葬儀がご逝去から一週間以上も後、というパターンであった。

     

    葬儀社の担当社員の方はそれを余程申し訳ないと思っているらしく、こちらが納棺後も化粧直しに立ち寄った際には、

     

    『お母さん、ごめんなさいね、こんなに時間が空いちゃって・・・』

     

    とひとしきりお声がけした後、しばらくご遺体に手を合わせておられた。

     

    人目もはばからずそうやって自然にやっているのを見て、ああこの人はいつもこんな風にしているのか、と私は奇妙な気持ちでそれを眺めていたものだった。

     

    私個人は、ご遺体に対して言葉をかけるという習慣はない。死体は動かないし、痛みを感じないし、声も聞いていないということを直に触れて理解しているからだ。

     

    或いは、ご遺体以外の所で何かが私たちの声を聞いているということも無いとは言い切れないだろうが(死後の世界など誰にも分からないのだから)、職業人としての私はあくまでご遺体に向かい合うために現場に赴くのであって、ご遺体以外というか、以上の所を気にするのは出過ぎたことだとも思う。

     

    けれど葬儀担当の方であれば、ご家族と綿密な相談をする中で故人をより”人”として見る視点も多くなるだろう。それはそれで、職責と立ち位置が違えば、こちらで意に介さないものがあちらではサービスを根底から左右する重要な視点にもなるのだろうというのは理解できる。

     

    何にせよ真心というのは必要なものではあるだろう。それは良い仕事をしようと思えば、絶対に必要なものだとも思う。

     

    私は確かにご遺体に話しかけたりはしなかったが、それはただ単に、私がご家族や逝かれた方に向ける真心というのが、語りかける類いのものではなくてひたすらその語るところに耳を傾けるような種類のものだった、ということなのかもしれない。

     

    職業人としての私は、ご遺体に話しかけない。だからこそ最後の最後、柩の中の逝く方を囲んだご家族に御蓋をお預けして、後は部外者として此岸と彼岸のお別れを静かに見守ろうというとき、その時には、人が生きるということへの耐えきれない寂しさがあふれて、いつもこう胸の中で同じ台詞を呟いていたのかも知れない。

     

    『お疲れ様でした。生きてくれて、ありがとう。』

     

     

     

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    2019.01.31 Thursday

    納棺と肌

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      納棺のこと。

       

      今日はとても寒い日だった。昼頃、少し雑巾で拭き掃除などして、水洗いで冷えた手を日向でこすり合わせていたのだが、そんなことで不意に、ご遺体の肌の感触を思い出したりした。

       

      冷たいご遺体は、何とも言えず悲しい感じがするものだ。

       

      それも浴場や雨降る屋外など、水気の多い低温環境で亡くなられた方の場合は特にそのように思う。

       

      そうした環境では、亡くなった直後から急激に体温が下がり始める。普通、死後の体温低下は緩やかに進むものなのだが、状況次第では脂肪細胞の余熱を上回って、一気に死冷は進む。

       

      そういうご状況で亡くなられたご遺体は、触った瞬間に何となくわかるような気がする(気のせい、かもしれないけれど)。それは多分、体温の低さと皮膚の乾燥の具合はある程度比例するものだということを、皮膚感覚的に覚えているからではないか。

       

      時間を経てゆっくりと冷却されたご遺体は、乾燥してさらっとしているのだ。だが、死亡直後から体温が下がりきった場合は、皮膚がまだ水分をまとっているのに、すでに触れれば凍りそうな冷たさが肉体を満たしている。

       

      乾燥した肌の冷たさは、何となく砂を思わせる。それは、ああ、人が本当に死んだんだな、という納得を私たちに抱かせもする(だからこそ、死化粧後の旅支度を通して家族が故人の肌に触れる瞬間が必要なのだ)

       

      けれど、湿った肌の冷たさは何というか、もっと、悲しい。悲しい感じがするものである。それはまだ此岸から彼岸へと渡りきっていない人の、生の苦しみとは無縁の所に旅立った人々とは別の、何かまだこの世の片隅で凍えているような共感的な寂しさを感じさせるものなのだ。

       

      個人的には、現実を言えば料金的な兼ね合いもあって、お湯で遺体を洗い流す湯灌というのはあまり時代にそぐわない過剰なサービスだと思っている。しかし、そうだ、こんな寒い日には、思わず『最後にお風呂ぐらいは』と口をついて出てきてしまうご家族の、その気持ちは何とも言えずしんみりと理解できるものである。

       

       

       

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      2018.12.28 Friday

      納棺とあちら、こちら

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        納棺という仕事をしていて、一番良い時間というのはどこか。

         

        前にも書いたけれど、ご遺族から故人の生前の話を聞いている時間は、私にとっては、何か救いを見出す時間だ。

         

        それと並んで良い時があるとしたら、化粧のお加減などを見に行く時だろうか。

         

        下請け業者としてではなく、葬儀社の自社納棺の納棺師としての私のキャリアはかなり短いのだけれど、それでも何件かのご遺体のお世話をさせていただき、自社納棺という手厚い形態の良い部分を経験することができた。

         

        朝、出社して最初にすることは、ご遺体のご状況を確認しにいくことである。

         

        着替え、死化粧、ご納棺はすでに終わっている。処置や化粧の方針が正確であれば、表情やお顔色の一切変わらぬ故人が、まだ木の匂いのする棺の中に横たわっておられる。

         

        部屋は大抵寒く、薄暗い。故人の死に顔はいかにも安らかで、静かな不動の時間がその上に覆い被さり、その光景はより一層、人間の魂の永続性を象徴するかのようである。

         

        お身体に異常が無ければ、当日のスケジュールに合わせて、ご遺族の雰囲気なども考慮しつつ、消臭の処置やお顔色の調節など細々と行う。

         

        静かな空間で粛々とそれを行う時、ふと私は、自分がまるで”死”そのものになったようにも感じた。

         

        それは人を苦しめ、奪い、破壊する一方で、人に奉仕し、労り、苦痛を取り除いて、生き生きとした有限の中の華やかさを、死せる永遠の静かな輝きに変えてしまう。

         

        蝋燭を取り替え、お棺周りを整えてその暗い部屋の中から抜け出すと、あたりはまた雑然とした日常の、日の光の中に生き返っていく。

         

        ちょうど映画館から出てきた後のような。ついさっきまで、深い瞑想の中で何もかも忘れてしまっていた、不意にそれを頭の中に取り戻した時のような。

         

        そういう静かな、この世の外、の仕事である。

         

         

         

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        2018.12.06 Thursday

        納棺と獣

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          納棺(?)のこと。

           

          当時私が納棺師として働いていました営業所、近所に野良猫がいくらかおりまして。

           

          人間、変な話ですが、自分が苦しい生活をしている人ほど、野良の動物を大事にしたりするものですね。

           

          情というのは不可思議なもので、そうそう論理の是非で捉えきれぬところがあるのでしょう。福井県には、沢山の猫が住み着いているというので有名な『猫寺』なんていうのもあり、本なども出ているそうですね。

           

          それはそう、あんまり高級な住宅地でもないそういう場所に事業所があったもので、野良猫もおり、増えたの減ったの、どこそこでエサを貰ってるのを見ただとか、そんな風に時々の話題にものぼりつつ、まあごたごたと共生をしておったのです。

           

          ある日私、車の拭き掃除でもと外に出ると、道路の真ん中にぽつんと座っている茶猫の姿を見つけました。

           

          その足下には、茶色いボロ切れみたいなものがひとつ。

           

          生まれてすぐ、車にひかれたのでしょう。小さい子猫でした。

           

          見るとすでに息絶えており、相当の異臭を放ってもいるのですが、親猫はそのすぐ横に居座って、首のあたりの毛を舐めたり、動く気配もありません。

           

          いくらか迷ったあとで、これだけ小さければそう問題にもなるまいということで、子猫の亡骸は葬儀用の綿に包んで、その側の用水路の堤、雑草だらけの誰も通らぬあたりの地面に埋め(”生ゴミ”を勝手に地面に埋めるのは、法律的には良くないことだけれど)、上に石をひとつおいてやりました。

           

          子猫を包んでいる間、親猫は慌てる風もなくとことこ離れていって、遠くから私のやることを眺めておりました。

           

          しばらく後、数時間後でしょうか。またそこを通りがかると、親猫は子猫の埋まっているあたりの匂いを嗅ぎながら、その辺をウロウロしているのが見えました。

           

          ( 猫にも悲しみはあるのだろうか )

           

          眺めつつ、そんなことを少し考えたのですが、結局答えは見つかりませんでした。

           

           

           

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          2018.11.20 Tuesday

          納棺と怒り

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            納棺のこと。

             

            グリーフ(悲嘆)ケアという言葉がある。疑いようもなく、人間がもっとも悲嘆に暮れる瞬間は、身近の大切な誰かを失ってしまう瞬間だろう。

             

            悲しみには、濃淡があり、人と人との関係、思い入れ、好き嫌いとか、利害関係の問題などによって、遺される人の悲しみも違う。

             

            個人的な経験から言って、取り分け死別の悲しみの濃淡を最も深く左右する要素は、故人が亡くなられた時のご状況と、遺される側の覚悟・・・つまり心の準備のあるなしであるとか、死別が突然のものでなかったかどうか、という二つの点にあるように思われる。

             

            本当に深い悲嘆は、突然のむごたらしい死別によってもたらされる。この突然というのはもちろん、事故とか急性の病気であるとかの、事実としての突然ということもあるけれど、遺される側が「まさかあの人が死ぬなんて思ってもみなかった」という状況で不意に訪れる場合にも言えることであって、主観的な意味での”突然”であると言ってよい。

             

            本当に深い悲嘆は、その人の周囲のあらゆる人間を、絶望させるような重さを持っている。

             

            壮健な立派な人物が、立ち上がることもできなくなり、子供のようにうずくまって泣いているのを見るとき、一体私たちは、その側で何を感じれば良いというのだろう?

             

            一度ならず、そういうとき、納棺師としての私が抱くのは、紛れもなく神への憎しみの感情だった。剥き出しの残酷な真実への、わき上がる敵意だった。

             

            『例え地獄に落とされようとも、せめて生きた人間の尊厳と面影を、神や仏から奪い返してみせよう。』

             

            その気持ちは、ある時小さな火のように私の心の中に芽吹き、忘れて消え去られるわけでもなく、ひとつひとつの仕事を繰り返すたびに、だんだんと大きくなっていった。

             

             

             

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            2018.11.05 Monday

            納棺と着るもの

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              ちょうど季節でもあり、衣替え。整理して不要と思われる洋服を、今朝ゴミに出した。ゴミの出し方の説明書きを見るに、この洋服はどうやら集積されてリサイクル品としてどこぞへ持って行かれるようだ。

               

              使わない服。もう誰も着ない服。残される服。久々に、納棺のこと。

               

              ご家族から、故人の最後のお召し物を指定されるのは良くあることである。

               

              一般的にはスーツやお気に入りの着物など。少し変わったところでは、生前のご趣味でされていたフラメンコや日本舞踊のご衣装、祭りの法被、鉄道関係などの仕事の制服、職人の仕事着、などなど。

               

              よく悩まされるのは、宗教的な風習・慣習にまつわるご衣装で、例えば仕事を離れられたご住職が、亡くなった際にまた袈裟をお召しになる場合など、本格的なご衣装はなかなか素人には仕組みがわからず、結局ご家族などに教えていただいて着付けをすることにもなる。

               

              普通の着物くらいであれば戸惑いはしないものだが、そう言えば印象深い仕事がひとつ。

               

              お布団の上の故人、ご家族はお気持ちが深く、とても悲しまれているご様子だった。「最後にこれを」と出てきたお召し物は、振り袖・・・。

               

              一口に着物、と言えど、基本的に、振り袖は若い方のお召し物である。若い方が亡くなることは当然まれであり、そうすると納棺師が振り袖というものを扱う機会も少なくなる。だから、同じ着物のくくりではあっても、こういうものは少し緊張する。

               

              晴れ着の振り袖はただ単に袖丈が違うとかいうことだけではなく、寸法も小さめだし、帯も豪華なものが多い。単純に、同じやり方で着付けるわけにも行かないのが辛いところだ。

               

              苦心しつつ、色々手を尽くして、何とか見栄え良くその振り袖をお着せした。ご家族に面会していただくと、故人のお母様はしんみりとそれを喜ばれた。

               

              聞けば、記念の日に一度着たきりのお召し物であったという。故人のその装いを通して、ご家族が過ぎ去った日の出来事の光景を、ありありと思い出されているのが傍目にも感じられた。

               

              たかが、服。されど服なのだ。それらは私たちの人生を一時彩って、そしていずれはどこかに消え去らねばならない。消え去らねばならないとしたら、どんな風に・・・。

               

              ――ああ、思えばあの振り袖は、良い消え方をしたのだな。

               

              衣替え、服を捨てる、ゴミ捨て場と、リサイクルと。燃やされたら、もったいないか。死んでしまったら、何もかも無意味だったろうか。

               

              様々な思いが一瞬頭をよぎって、その思いの行き場でも求めるように、『ありがとう』と胸の中で一言、古布の入った袋ひとつをゴミ捨て場に、ポン、と置いてきたのだった。

               

               

               

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              2018.10.07 Sunday

              納棺と青アザ

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                久々に、納棺のこと。

                 

                「ほら見て、手が真っ青でしょう。どこかでぶつけたのね。」

                 

                『そうねぇ。最後まで病院のスタッフさんが色々頑張ってくれたからね。そりゃあ色々、仕方ないこともあるわね。』

                 

                化粧着替えを終え、面会の折。畳の部屋、布団の上には故人が横たわり、それを囲むようにご家族が集まる。

                 

                「あら、ここも・・・首の後ろ。真っ赤で痛そうねぇ・・・。」

                 

                そう言ってしげしげと眺めておられるお顔にはかすかに笑みが浮かび、それは一見悲しみというよりも、好奇心に満ちた表情のようにも見える。

                 

                だがその眼差しの奥で不安げに揺れる瞳の動きは明らかに、心中の動揺、混乱、猜疑心などを表している。

                 

                不安、不満、疑い、怒り、悲しみ、空想、失望、焦燥、そして見捨てられ感。

                 

                『死』に対する人間の無知は、瞬時にこれだけのものを生み出す。臨終という非日常の中で生み出されたその虚妄は、すぐさま日常を侵蝕しはじめ、何か悪しきものをまき散らして、私たちの精神を歪ませてしまう。

                 

                そうしたものを防ぐためある時は盾となって、道となって、あの世この世の安らかな橋渡しをすることも納棺師に期待される役割である、と言ったら格好を付けすぎるだろうか。

                 

                並んだお二人の、強ばったぎこちない笑顔にやおら向かいなおし、お声をかける。

                 

                「本当に、痛そうなお色ですね。ただ、故人様がご生前に、これで苦しまれたということはないと思いますよ。このアザは死斑(しはん)と言って、人が無くなるとどなたも同じように浮き出てくるものです。血液の中の色素が、だんだん、沈んでくるからです。お手元の変色も、そのように。指先から始まっておられるので、打ち身ということもないと思います。」

                 

                お伝えしたところで、こういう心情というものは、頭ではわかってもすぐさま晴れないこともある。お二人ともそれを聞いて、『うーん』という表情でまだしばらくは故人のお身体を確かめていたりする。

                 

                やがてぱっと表情が戻って「なんだ、気にして損した。」というように気持ちを切り替えていただけたら・・・それでもうこちらとしては安心だ。少なからず自分の使命を果たせた、そういう満足感をもってご納棺を終えることができるだろう。

                 

                −ー”先ず臨終のことを習うて、後に他事を習うべし”

                 

                これは日蓮聖人のお言葉。仏教の言葉なので、もちろん身体ではなく心の問題について言われたのだろう。しかし納棺師がその同じお言葉を見れば、それは違う意味にも見える。

                 

                納棺師は、他のどの職種の人々よりも、死体現象に詳しくなくてはならない。例え今はそうでなくとも、少なくとも、いつかはそうなろうという志を持つべきだ。

                 

                死という現実、朽ちいく身体。それを前にして、人間にはできることとできないことがある。技術のあるなし以前に、先ずはその、できることできぬことを見極める目を持ち、その目をご遺族にお貸しすることこそ、納棺師の必須の要件なのだと言えるだろう。

                 

                 

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                2018.09.25 Tuesday

                納棺とひとんち

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                  引き続き納棺のこと。

                   

                  納棺師というのは、色んな家を見る。

                   

                  お身内を亡くされて、慌ただしく、部屋の片付けなどとても、という状況でご自宅に上がりこんで仕事をする。

                   

                  色んな家がある。広い家、狭い家、片付いた家、荷物の多い家、人気のない家、暖かみのある家、デザインのある家、機能重視の家。

                   

                  家は、その人その家族の人生を反映して、表情も表現も実に豊かなバリエーションに富んでいる。

                   

                  いつも思うのだが、家の中、プライベートな空間にお邪魔するということは、相手の無意識の中に足を踏み入れるようなものだ。

                   

                  ユングは「夢は無意識の王道」と言ったそうだが、家もまた、人間の心理的な状況や構造をこれでもかというほど如実に表す。

                   

                  似た職業の人は似た家、似た状況であることも多い。家の構えを見た瞬間に、農家か漁師か医者か建築関係か。その職業がわかったりもする。

                   

                  諸々の家に足を踏み入れ、しんみりと思うこと。喜ばしいことでもあり、同時に切なく悲しいことでもあるのだが。

                   

                  『 一口に”人”と言っても、人生は、斯くも違う。なるほど人間同士は、分かり合えないはずである。 』

                   

                   

                   

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                  2018.09.24 Monday

                  納棺と誰だ?

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                    「あぁ、この家かぁ・・・。」

                     

                    納棺の現場に到着して一言。

                     

                    その家のことは知っている。玄関まで行けば、家の大体の間取りくらいも思い出せる。

                     

                    身近な知り合いの家とかってわけではない。訪れたのは一度だけ。前回の、納棺の際。

                     

                    同じお家に何度も訪問することはある。多ければ3回、4回とお伺いすることもある。切ないが生きるとはそういうことだ。

                     

                    それでも「もういいや」とならずに毎回納棺の仕事を依頼していただけるのは、前回の仕事ぶりを認めてもらえたようでありがたい。その期待に応えなければと、自然身も引き締まる。

                     

                    故人は時には、知ったお顔である。前回の仕事が1、2年以内くらいなら、別の方の納棺の際にお会いしていて、こちらの記憶に残っている可能性も高い。

                     

                    とは言えほんの数十分の面識で、ご印象は曖昧だ。(どんな人だったかなぁ)と記憶を辿ったりしつつ、着替えとお化粧を終わらせる。

                     

                    納棺式ということになって、ご家族が集まる。皆様すでに経験をされているので話が早い。時にはご家族同士で、前回はあれをした、棺にはこれを入れたと思い出話をされる。

                     

                    「おじいちゃんはあの時一緒に居たんだっけ?」

                     

                    『居たじゃない。〜〜を学校に迎えに行ったから、遅くなったのよ。』

                     

                    瞬間、その一場面をありありと思い出す。お孫様を伴われて、故人が玄関から入ってくる。ご家族に急かされて、お孫様と一緒に急いで靴を脱ぐ。

                     

                    記憶は一瞬。その一瞬だけ。

                     

                    人間の記憶というのは都合の良いもので、過去の出来事は現在の気分や体調にさえ影響され色彩を変える。またある記憶が別の記憶と重なり混ざり合うこともあり、その正確さはと言えば疑わしい。

                     

                    けれど少なくとも、思い出せた。記憶は私の中では、ささやかな確信となって故人との縁を確かに結んでくれた。それで十分だ。目の前に横たわる人は、もう他人ではない。私の知っている誰かである。

                     

                    ( ずいぶん、ご挨拶が遅くなりましたが・・・ )

                     

                    その時の胸の内の印象、背筋の自然にシャンと整う感じは、あえて言葉にすればこんな風だ。

                     

                    ( またお目にかかれましたね。この度は、拙いながら精一杯旅立ちをお手伝いさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします・・・ )

                     

                     

                     

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                    2018.09.09 Sunday

                    納棺と長生き

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                      『こういう仕事をしてると、あんた長生きするよ』と、故人の奥様がおっしゃった。

                       

                      ご自宅にてすでに亡き人の納棺を終え、しばし雑談をしている最中のこと。

                       

                      「そうでしょうか?」と返すと、『そうよ。そういうもんよ。』と白髪の女性は屈託なく笑っておられた。

                       

                      毎日を、己の生業として『死』に触れている納棺師たち。彼らは長生きするだろうか。

                       

                      個人的には、その仕事を通して私の価値観は変わった。財布の中には、名刺用紙に印刷した「死亡時の手はず書き」を入れたりなどしている。いつ死んでも苦労がかからないように。

                       

                      私は仕事柄、死を良く受け入れている方だとは思う。が、それは「長生き」とは正反対のような気もする。

                       

                      けれど案外、そういうことなのかもしれない。

                       

                      死を恐れなければかえって、長生きもするものなのかもしれない。

                       

                      「ありそうな話ですね」と、今ならあの人に、笑って調子を合わせられそうなものだ。

                       

                       

                       

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