2019.04.22 Monday

根も葉もなくて満ち足りる

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    宗教的なところを少し突きつめていくと大抵、「主体」というもので躓くようになっている。

     

    例えば「執着しない」とかいうことを考えると、じゃあ執着しない人間は息もしないのかとか、ご飯食べないのか、襲われても逃げないのかなどという批判の手があがるのは当然だろう。

     

    完結に答えだけ言えば、執着がなくても息はするし、ご飯は食べるし襲われれば逃げる。そんなもんである。

     

    それでは理屈が通らん、執着しておるじゃないかと思う方も居るかも知れないが、そういう訳でもない。

     

    こう考えてみれば良い。

     

    『どうして自分の五感だけは特別視するのだ?』

     

    他人が腹が減るのは良い。それで怒って襲ってくるのも良い。それはそれ執着しなければ良い。世の中はそんなもんなのだから。

     

    それでまた、自分の腹が減るのも良い。自分という一匹の猿が、飯を食べたい怖いものから逃げたいというのも良い。

     

    それはそれ執着しなければ、全部道理が通るじゃないか。

     

    どうして自分の五感だけは特別視して、ああしちゃいけないこうしちゃいけないと偏屈をするのか。

     

    私たちは「主体」というものを何か絶対不可侵の聖域のように考えて、しかもそれを制御せねばならんという堅い信念を抱いている。

     

    そんなもの、執着しなければ良いのだ。主体など畢竟幻想だ。

     

    手の上のものを、水に流すような感覚ではまだ浅い。

     

    『その手ごと、その身ごと、丸のまま水に流されていきなさい。』

     

    良寛和尚の声が聞こえるようである。

     

     

     

     

     

     

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    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

     

     

    2019.04.20 Saturday

    創造の血液

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      安楽や快感だけを追求するような思想は間違っていると思う。

       

      けれど世の中には実に、そういった考えや理論というものが多い。

       

      これは正しいとか、これは間違っているとか、ひとつひとつをあげつらうつもりはない。そんなことはただただ不毛なだけだ。

       

      だがもし、これからの世界の人々がいるならば、是非考えてみてほしい。

       

      それは、私たちは熱すぎもせず、寒すぎもしない場所で生きなければならない、ということである。

       

      熱さ寒さ、我々の感性。その根源とは何か。

       

      熱さ寒さは、一見すると、例えば砂漠や凍土などの環境に由来するもののようにも思える。

       

      しかし真実そうではない。

       

      熱さ寒さは、我々のこのタンパク質の肉体が生命活動を維持するための、至適温度を基準にして決められている。

       

      もしも私たちが絶対零度の宇宙空間で生きる生物だったなら、或いは超高温の恒星近縁で生じた生命であったならば、その肉体における至適温度は大きく変わるだろう。

       

      そしてまた、熱さ寒さの基準もそれに準じて変動する。言わば、-40℃を暑いと思うか寒いと思うかは、その生命の生存意図によって規定されるのであって、純粋に環境それ自体が、我々の暑さ寒さのクオリアを決定しているわけではない、ということなのだ。

       

      10℃と50℃の液体の間の、ほんの僅かな温度の違い。どうして私たちはこれを選り分けて、そこから冷暖の感覚を得ることが出来るのだろう。

       

      それは我々の生命設計において、まさにその中間の20数度から30数度という温度が種族維持のためのハビタブルゾーンを成しているからだ。

       

      そこからこう言うことができる。「熱さ寒さの感覚は、環境の物理的状況に由来するのではなく、我々自身の、生命の維持存続の欲求に由来する」。

       

      私たちは、暑すぎもせず、寒すぎもしない場所に生きなければならない。

       

      感性とは、そういう道理によって私たちに備わっているものなのだ。

       

      それがわかるのであれば、さらにこう考えてみてほしい。

       

      私たちは、快感だけを求めすぎず、また苦痛ばかりが生じないように注意して、生きていかなければならない。

       

      禍福は糾える縄の如し。快楽だけを求める思想は必ず破綻してしまう。

       

      働くのは、後で笑うためだ。助けるのは、自分が助けてもらうためだ。

       

      苦しみのない世界なんてない。苦しみの滅却された理想郷などを想像するのは、間違っている。

       

      そう言って自ら進んで苦しみを受ける人を人は愚かと言うかも知れないが、例え一見して無駄に思えるとしても、その苦しみの供物はこの世界の秩序法典の中に刻み込まれる。

       

      その人々が世界のバランスを取り、創造を継続させ、宇宙を続けていく。創造に荷担するひとつのエネルギーとして。

       

      二重らせんの中に潜んでいる力は、目には見えず、触れることもできない。

       

      だが目には見えないその”アストラル的な”システムの中に、この世界を維持構築するための神秘の力は宿っている。

       

       

       

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      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

       

       

      2019.04.11 Thursday

      精神修養と生理

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        C・G・ユングは、統合失調症者にみられる弄便(ろうべん:自分の大便をいじったり、塗りつけたりする)行為に遭遇して、大便というものが人間にとってどのような心理的価値を持つものなのかを真剣に論じている。

         

        彼はロマンチストなので、そこに人間の創造性の原初の形を見出したりもした。私などが思う限りでは、弄便というのはもっと動物的な本能に由来するものでないかとも思うのだけれど、便についての論理如何はさておき、何であれ馬鹿にせず、研究対象に実直に向き合おうとする彼の姿勢は、いかにも研究者らしく尊敬できる。

         

        だから私も、そういう姿勢に習ってこの記事を書いておこうと思う。

         

        女性の、生理周期に関する気分変調について。

         

        精神的な修養システムにおいて、メンターが男性、後輩が女性、というパターンになることがある。

         

        この時必ずと言っていいほど躓きの種になるのが、女性と男性の気分変調の特性の違いだ。

         

        女性は肉体の性質上、生理周期に関連してホルモンバランスが変動し、特にストーリーのない直接的な不快感や憎悪、抑うつ症状を抱くことがある。

         

        身体的な苦痛の症状も含めて、軽度のものをPMS(月経前症候群)、より重度となるものをPMDD(月経前不快気分症)と呼ぶ。

         

        ホルモンバランスの変動は肉体の自然な機能に由来するのであって、これ自体は健全な人にも普遍的に見られる習性だと言える。

         

        だが問題は、‥事者である女性自身がPMSについての知識を持たない場合、それから▲瓮鵐拭爾箸覆訝棒が、そうした女性の気分変調についての知識を持たない場合、の二つの状況において起こる。

         

        特に△両豺腓法非常に静かで安定したパーソナリティを持つ聖者的志向の男性指導者が、女性の突発的な気分変調を理解しきれず極端に厳しい評価や、場合によってはありもしない妄想から来る憎悪を募らせてしまうことがある。

         

        コヘレト7:26 ”わたしの見いだしたところでは死よりも、罠よりも、苦い女がある。その心は網、その手は枷。神に善人と認められた人は彼女を免れるが一歩誤れば、そのとりことなる。” しかし私に言わせれば、こうしたキリスト教の聖者的男性は女性という対存在を通して、自身の生命のカオティックな本性を唾棄しているだけである。)

         

        一方で、当事者の女性がPMSについての知識を持たない場合も、彼女は自分が時々、頭では分かっていてもどうしても感情に振り回されてしまうことがある、という現実に直面して、必要以上に自分を嫌悪したり、自分に失望したり、混乱したりということを起こすので、良くない。

         

        ホルモンバランスとかバイオリズムの変調というのは、男性であれ女性であれ、どちらもある。ただその程度が違うだけなのだ。

         

        そういうことをちゃんと理解して、無意味な争いやありもしない”子供の頃のトラウマ探し”をしたりする徒労は、是非とも避けていただきたいと思う。

         

         

         

         

         

         

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        JUGEMテーマ:心理学

         

         

        2019.04.04 Thursday

        絶望と救済

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          遠くインドの地で、貧困と病苦にあえぐ人々に寄り添い、その支えとなったマザー・テレサ。

           

          偉大なるテレサ。神に愛されたテレサ。

           

          彼女の宗教的特異性には、主に二つの面があると思います。

           

          一つは言うまでもなく、その活動全体における途方もない努力とそれを支えた不屈の精神。

           

          そしてもう一つは、宗教者としてはむしろこちらの方に関心が向くけれど、その信仰の裏側に隠された底なしの『神への失望』。

           

          彼女の死後、公開された他の聖職者との書簡の中には、彼女が信仰において本当は、全くというほど神に見放され、救いを得られずにもがいているその苦悩の様子が、赤裸々に綴られていたのでした。

           

          この事実を取り上げて、マザー・テレサは嘘つきだったとか、詐欺師だったと言う人も居ます。

           

          がしかし、それは信仰というものを良くわかっていない人の短慮でしかありません。

           

          むしろマザー・テレサの偉大な資質というのは、この神への失望、見捨てられているという気持ち、彼女なりの言葉で言えば『渇き』の中にこそ、宿っているものなのだから。

           

          神に見放され、どれだけ足掻いても報われず、それでも救いを求め、また絶望の淵へと投げ込まれる。

           

          この深い失望の中で彼女の信仰は研ぎ澄まされ、やがて『自分は神に見捨てられているのだ』という真の『渇き』に到達したとき・・・

           

          まさにその時にその段階で、彼女の信仰は、何者かから”与えられる”のを待つという次元を超えて、”自ら癒やす”という領域へと精神の大いなる転回を果たしたのでした。

           

          キリストが最後に経験したという『渇き』、死にかけた貧者の訴える『渇き』、そしてテレサ本人の心を蝕んだ、切実な途方もない『渇き』。

           

          これらが彼女の心中で重なり合ったとき、その瞬間から、全ては逆転し、見る者は見られる者になり、祈る者は祈られる者と曖昧になって、そうして彼女は、精神の創造的領域に参入していったのだと思います。

           

          『渇く者』は即ち、『渇きを癒やす者』に。煩悩は即菩提、信仰の完成とは、信仰を超えて祈る者と祈られる者の境界線を超えていくことだとも言えるでしょう。

           

          本願名号正定業。阿弥陀仏に祈る我々と、我々を見守っておられる阿弥陀仏とが、祈りを通してその主体客体を超えた繋がりを持つと言うように、この場合、つまりマザー・テレサの信仰心においては、『渇き』こそがその偉大なる奇跡の心柱だったことは、何とも耐え難く我々の胸を打つものがありはしないでしょうか。

           

           

           

           

           

           

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          2019.03.30 Saturday

          幸福のファクター

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            人類が未だに気付いていない幸福の必須条件。

             

            ひとつ挙げるとすれば、それは”変化”。

             

            変化のない”存在”は有り得ない。永遠の不変の中に”在る”という感覚は産まれない。

             

            だから天に、この世界の法則に準じたければ、私たちは”変化”を捧げなければならない。

             

            ”変化”をやめてしまったものは空しい。それは疲れて、乱れ、放埒になって、いずれはこの世界の理を離れて滅び去ってしまう。

             

            だからこそ命は、更新され続けなければならない。

             

            年を取ると物事が上手くいかなくなるのはそのせいだ。

             

            賢明になり、落ち着いて、リスクを取らなくなる。新しい文化や視点を前向きに取り入れているつもりでも、段々と、その程度というものが卑小になっていく。要は人は年を取ると、変化する力を失うのだ。

             

            しかし、それを心得て変容を、お為ごかしではない真の偉大なる変容を捧げる者は、与えられたものを最大限輝かせ、最後までその中に鮮やかであり続ける。

             

            だがしかし、それはとても難しいことなのだ。

             

             

             

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            2019.03.16 Saturday

            Enemy Within

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              『だから宗教は悪なのだと、人々はこぞって言うだろう。滑稽なことだ。本当は自らその悪に手を染めているとも思わずに。

               

              良く考えてみろ。人類が今までに一度だって、神や真理のために戦ったことが本当にあると思うのか?

               

              私に言わせれば、そんな考えを抱くのは行き過ぎた美化というものだ。人はある思想のために自分の命を掛けたりするほど、高尚な生き物じゃない。

               

              人間は、神の為に戦ったりしない。人間はただ、飢え、貧困、格差、そこから生み出されるあらゆるエゴイスティックな憎悪と強欲のためにだけ、争い、命さえ奪い合ってきたのだ。

               

              人間は、憎悪と欲望のために戦う。自分の欲のために戦うのだ。宗教のせいなんかじゃない。彼らはただ理由を求めているだけだ。今まさに銃を向けようとする相手が、どうして敵であるのかというもっともらしい理由を・・・』

               

               

               

               

               

               

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              2019.03.14 Thursday

              私は正しい

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                私は色々あって、誰も信じない人間に育ちました。

                 

                信じないし、信じられたくもない。

                 

                神や仏を信じていないし、自然科学も、人間たちの文明も信じていません。

                 

                それはまあ極端な主張であって、実際のところ何も信じないということはできませんが。

                 

                (理解とは、人間の悟性における信憑構造の、色合いの濃さでしかない。"信ずる"も"理解"も"わかる"という曖昧で根拠の無い感覚に身を委ねているだけ、という点では変わりが無い。何かひとつでも世の中の物事を理解する人間は、何かを盲目に信じこんでいるのと、哲学的に見れば五十歩百歩なのだ)

                 

                そういう中で一応は、私もできれば理性的な存在でありたいわけですから、思考能力の先天的欠陥というものに気を使ってはおります。

                 

                私には確信があるのです。(信じないと言ったばかりですが。)

                 

                私にはこういう確信があるのです。つまり、私の考え、今こうして書き連ねていること、現実の認識、こうではないかという予想、そういうものは『絶対に間違っているぞ』という確信が。

                 

                私は間違っています。私の発言の全てが誤りです。誇大妄想的に聞こえるかも知れませんが、宇宙全体に対する地球という惑星のこの小ささから考慮すれば、私という一匹の猿の脳裏に把握可能な事実など、砂粒一つ分にも満たない勝手な妄想であるということが、実感として感じられるのです。

                 

                私は間違っています。そういう思いを維持し続けるのは辛く、不快で、難しいことではありますが、それが出来てこそ、知性という下らない道具も多少はまともに働くようになるのではないでしょうか。

                 

                世の中を見渡してみれば、簡単にわかることです。人は、『自分は正しい』という感覚の中に安住していたいが為に、その快感に酔っていたいがために、愚かで知性の足りない生き物なのです。

                 

                『自分は正しい』。そう思うことの方が遥かに簡単でしょう。自分は正しくて、間違っているのは周りの誰かなのだ。例えそれが幻想でも、本人にとっては、それこそが心地の良い”真実”なのです。

                 

                もしも私たち人類がもう少し、あと少しだけ賢くなることができれば、その時は少なくとも、世の中には”間違い”などというものは存在しないことに気付くはずです。”間違い”ではなく、ただ単に私たち自身の、果てのない”無知”が広がっているだけなのだと。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                2019.03.08 Friday

                方便苦労

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                  「方便」というのは、思われているより難しいものだと思います。

                   

                  深いところを知っている人間が、浅いところを語る。そのこと自体は、そう難しくありません。すでに通った道を案内するようなもので。

                   

                  難しいのは、その浅いところに留まる、ということなのです。

                   

                  どうしても人は、あることの矛盾を尋ねられればその問題のより深遠微妙なところを説明してやりたくなるもの。

                   

                  しかし準備の出来ていない人に深いところの話をすれば、それは惑わせる、混乱させる、せっかく築き上げてきた理解をうやむやにしてしまう。

                   

                  だから方便の巧みな人というのは、ある一定の知識範囲や理解レベルの中に留まり、終始一貫した破綻のない話をして、良い所まで人を導くのです。

                   

                  これは中々、上手でなければ出来ることではない。

                   

                  仏教なんか特に、修養の段階は序列的に深まっていく性格があって、上に行った人は下の方の教義を馬鹿にする傾向があると思います。

                   

                  そういう場合、上の方のことと言うのは、一度分かってしまえば人に教えるのも容易いのだけれど、下の方のこととなると、一度上の方を見た人にとっては、案外他者には伝えづらくていたずらに惑わせてしまうということが起こる。

                   

                  その中に留まれないのです。浅いところに、我慢強く。

                   

                  知っている真実を隠して方便のみを語るというのは、立派なことだと私は思います。

                   

                   

                   

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                  2019.03.07 Thursday

                  たった一つの正しいやり方

                  0

                     

                    『タクティクスオウガ』のこと。

                     

                    スーパーファミコンのゲームで、政治的なシリアスなストーリーと緻密な戦略システム、異常なまでに豊富なやりこみ要素などで伝説となった作品です。その後も別のゲーム機でリメイクされています。

                     

                    これをはじめてプレイしたのは多分小学校5年生くらい・・・このゲームも、私の短い人生の中でかなりの時間を費やしてプレイしたゲームでした。

                     

                    さて、そのゲーム全編通して素晴らしいシナリオの中でも、私が一番好きなのはこの場面です。

                     

                     

                     

                     

                    同名の紛らわしい二人の騎士が議論をする場面。主に悪役が彼の主張を語るのですが、その論理のラディカルな感じや謎の迫力みたいなものは、良くわからないけれど子供の私に衝撃を与えたのでした。

                     

                    大人になって、この二人の内のどちらがより正しいか、ということを今更考えるに、こんなことを思います。

                     

                    それは、論理としては、実は悪役である黒騎士の方が正しいということ。白騎士は何の根拠もない期待を抱いているだけ。種としての人間はその進化の系統から考えて、普通は支配者や管理者の配下に置かれて生きることを、心のどこかでは求めるものです。

                     

                    そして、世の中のほとんどの人は自分の考えで生きるのではない、というのもまた事実。私たちは社会に依存して生まれ育ち、社会のしつけ糸を通して自己形成をするのですから。

                     

                    人間には支配者が必要です。誰かに管理された人生を送ることが必ずしも間違いとは限らない、というのも真実だと思います。

                     

                    ですが、その論理的正しさというものを踏まえた上で、じゃあこの白と黒のどちらにつくか、と言われれば、私は白い方の肩を持つと思います。

                     

                    なぜなら論理以前の問題として、黒い方は世界や人間のあり方に対して憎しみと怒りを抱いているからです。そしてどちらかと言えば、白い方は人間というものを愛して、上手くいかない部分もすぐには切り捨てず、そこに何とか納得のいく理由を見出そうと努力しているように見えます。

                     

                    論理ではなく、感情なのです。結果ではなく、動機が重要だからです。

                     

                    現実を否定するクセを身に付けた人間は、必ず事実を見失っていつかは狂気の中に落ちていきます。苦しくても、不都合でも、受け入れること、目を背けないこと、答えを焦らずに、ありのまま世界を共有すること。それが現実に適応していくための最初の一歩ではないでしょうか。

                     

                    だから、白い方がより愛があり、黒い方は憎んでいる。長い目で見れば、黒い方は必ずいつかは対応を見誤り、見限られ忘れ去られてしまう。

                     

                    愛か、憎しみか。それだけが問題です。愛だけが、たった一つの答えなのです。

                     

                    そうそう、黒い方の意見の方が、論理としては正しい、ということを言いました。動機さえ違えば、管理したりされたりすることが、直ちに悪いのではないかもしれない。

                     

                    そんなことを悩まされた近頃の映画が一つ。これもまた中々良い映画でしたね。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    2019.03.05 Tuesday

                    それは残酷か?

                    0

                       

                      神は残酷なのかどうか。

                       

                      宗教の話題になると良く出る批判です。『もしも神が居るのなら、どうして世界を良くしようとしないのか?』

                       

                      結論から言うと、神はすでに、この世界を彼自身の考えで最良の状態に保っています。

                       

                      私たちがその完全な状態に不満を述べずにいられないのは、一言で言ってしまえば、スケールの問題です。

                       

                      例として、もしも私たちが衛生管理の一貫として布団を天日干しするときのことを考えてみましょう。それは良い行いだと思います。繊維がほぐれてホコリが落ちるし、殺菌されて、温かくふわっとした布団が復活するのですから。

                       

                      ですが、紫外線で焼き殺されてしまう細菌や、ダニなどの微小生物にとってはどうでしょうか。きっと彼らには、私たちにこう言う権利があるでしょう。

                       

                      『おお、偉大なるものよ、あなたに慈悲は無いのか?』

                       

                      さて、私たちは残酷なのでしょうか。私たちは邪悪な大量殺戮者であるとか、大事故の中で死んでいく人々を平気で傍観していられる冷たい存在なのでしょうか。

                       

                      もちろんそうではありません。私たちにとっては、ダニや細菌は小さすぎて意識できないだけです。そして彼らの視点からは私たちのやっていることが理解できないにしても、私たちは私たちなりに、最良の結果を目指して能動的に動いています。

                       

                      これと同じように、神は残酷なのではなく、ただ大きすぎるのです。私たちが小さすぎる、と言っても同じ事ですが。

                       

                      こういう話を聞くと、残念ながら、神はいかにも残酷で無神経な存在のように私たちには思えるでしょう。

                       

                      しかし、それもまた思い違いというものです。彼はその能力の性質上、あらゆるものの内の半分を喜びによって、もう半分を苦しみによって構成することでしか、この世界を維持創造できません。だからそれは本当に、私たちについて苦しんでもいるのです。まさしく世界のあらゆるものは彼の内なるものであり、その半分は喜び、もう半分は苦しみで出来ているからです。(この点が人と神との違い。まことに神は、一匹の虫の失望と感動のひとつに至るまで、我ら生類のあらゆる心中を常に知り尽くし給う)

                       

                      私たち人間は、私たちなりの基準で神を裁きます。それは冷酷であるとか、それは役に立たないとかのことを言いながら。彼はそれも知っているのですが、だとしても、そんなことは一向に構わないのです。

                       

                      それはもう何億年も、血で血を洗う人間達の争いの歴史を見てきました。卑怯な裏切り、浅ましい欲望、底の見えない愚かさ。その全てを彼は偽らず眼を開けて見てきました。絶望が何度も素粒子の振動を停止させそうになりましたが、その度に、彼女は動きを止めかけた心臓に拳を打ち下ろし、『生きろ!』と叫んで私たちの命を揺り動かしてきたのです。拳の隙間から飛び返る血飛沫の中で溺れながら、それは時に半狂乱になりながらも、ただこの世界に、この私たちに、ひたすら”在れ”という一心を念じてきたのです。例えどんな苦しみが代償でも、例えどんな残酷な過程が待ち受けているとしても。

                       

                      これは勿論、私個人の世界教義であり、私個人の頭の中にあるファンタジーの話です。だからそれをどう取るかは完全に皆様にお任せします。

                       

                      しかしもし、それが真実であって、その哀れな神の姿を一度でも私たちが目にすることがあるとしたら、きっとその時は、善とは何かということの意味が変わると思います。善とは、その子を悲しませないことなのです。それは例え一人でだって宇宙を統べるでしょうけれど、誰もそばについてやらず、一人っきりでその仕事をさせるのだとしたら、私たちは神に対して、あまりにも残酷なのではないでしょうか。

                       

                       

                       

                       

                      ターセム・シン監督『落下の王国』。"心臓を叩く神"のイメージはここから。

                       

                       

                       

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