2019.02.19 Tuesday

終末がやってくる

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    麻原 彰晃。きっと誰でも知っている有名人のこと。

     

    (心理というものをテーマに学ぶ一人の個人として、私は人間である一人ひとりの犯罪者を、単純に『頭がおかしい』とか『人間失格』とかいう安易な切り捨てで蓋して良いものだとは思わない。むしろ私たちには、犯罪者が犯罪に至る心理的過程を詳細に理解分析し、その同じ状況が社会に再現されないよう予防を行う義務があるのだと思う。だから私は、タブーとされるものを敢えて取りあげて暴き立てはするが、それによって反社会的な思想を先導するつもりはないし、誤った危険な考えを社会に解き放とうとするのでもない。)

     

    平成の始まりから終わりにかけて、振り返ればちょうどこの一時代を象徴するが如く、オウム真理教は社会の人々のアンビバレントな関心を一点に集めてきた。

     

    それは生きる意味、神秘主義、閉鎖的コミュニティ、信仰、洗脳などなどの観念が混ざり合い柔らかく引きつった、集団全体の怖い物みたさのようなものであったと思う。

     

    宗教というものの本質をいくらかは理解する者として、私は信仰や神秘主義を『そんなのを信じるのは馬鹿なヤツだけ』という風に簡単には考えていない。

     

    原始的な神的感覚、ヌミノースは人の人生の特徴的な出来事の折々に触れて喚起され、社会への不満や集団からの冷遇という補助剤を得て人間の感性を急激に変化させもする。

     

    一方で私たちが信奉する自然科学は、検証を基礎とするが故に再現性のない出来事を扱えないという致命的な欠点を抱えており、複雑な現代社会に生きる私たちの”個人の、この人生”という一回性のものへの明確な答えを提示してはくれない。(良い宇宙と悪い宇宙の違いは、宇宙発生から何億年後にはっきりと区別できるのだろうか?)

     

    そしてその科学の盲目且つ暴力的なまでの有効性の故に、バウンダリーにおける一回性の現実感覚を抑圧された現代人類の心は、実存的な脆弱性を痛いほど確かに抱えている。感性を揺すればすぐにでも転げてしまう人々の、世に何と多いことだろう。

     

    だから私は、確か宗教研究者の島田裕巳さんがそう記録していたように、オウム真理教教祖としての麻原彰晃の才能が確かなものであったと告げられても疑いを抱かないし、むしろかなり納得もする。

     

    実際、麻原彰晃は優れたヨガ行者だったかもしれなかった。だが多分、ニッチな分野で競争もせず急成長できてしまった、過大評価された人物であったとも思う。(言わずもがなのこととして、彼の周りで起きたことの結末それ自体が、彼が完成されたグルではなかったことを如実に示している。)

     

    なぜ麻原彰晃は、あれだけの組織をまとめ上げ、あれだけ多くの支持者の崇敬を一身に受けながらも、それでもグルとして良い場所に立つことができなかったのか。

     

    そのことを私なりに考える時に、二人の人物が連想される。一人は、マーシャル・アップルホワイト。もう一人は、チャールズ・マンソン。いずれもカルト教団の指導者だ。

     

    これらの人物が起こしたいずれも大きすぎる事件の詳述は避けるとしても、集団組織における極限的な自傷他傷行為を誘発したという点では彼ら三人には共通点があり、短い紙幅のために結論を急ぐが、その根本的な歪みは彼ら自身のエゴイズムにあると分析する。

     

    神秘主義や、信仰におけるエゴイズム。それは、”この自分の目で”真理の実現を見ようと望むことである。

     

    逆の良い例として、ウマル・ハイヤームは知的な人の親愛を集める古典の四行詩集の中で、人の身は土塊のようなものに過ぎず、ディオニュソス的な奔放な陶酔の中で暮らすこと以上に、できることなどないという洗練された受容の態度を披露している。

     

    前述した三人の思想はこれとは真逆である。彼らは自分の前に世界の究極の状態が実現することを望み、何となれば自分自身の手を動かして(それ故に真理ならざる何かの)望むままの理想を起こそうと焦り、結果として死と破滅をもたらすアルコンを作り上げてしまった。

     

    真理は、人の手には余るものだし、そもそもがそれは私たちを常に取り巻き、内包し完全に共にある性質のものなのであって、人がそれを敢えて自らの周りに歪めて実現しようと画策すべきものでもない(ただ宗教家の振りをした生粋の道化職人だけが、この仕事を自らの下らない遊戯として如実にこなし得るだろう)。

     

    優れた宗教者は、真理を実現しようとはしない。そう思う前に、そこに潜む自らのエゴイズムに気付くはずだからだ。

     

    彼ら三人がそうならなかったのは、そうできなかったのは、純粋に文化の時代的な背景もあるところではあろう。だが少なくとも、宗教指導者が教義の中にエゴイズムを持ち込むと何が起こるかということを、前時代からの痛ましい教訓として私たちは理解し受け入れていかなければならない。

     

     

     

     

     

     

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    2019.02.12 Tuesday

    女に生まれたせいで

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      宗教の世界では、長らく、女性というものは一段下の存在として考えられてきました。

       

      それはもはや古い考えになってきているとは思いますが、それでも『女性は悟らない』というのは未だ根強い誤解です。

       

      悟りの定義を何とするかという問題にはなりますが、それをもし”無分別智”という所に持ってくるとしたら、確かに女性というのは奇妙なもので、生まれつき悟った状態にあるために、永遠に悟り得ないという宿命を持っています。

       

      しかし私が思うに、女性と男性の精神進化の課題は別々にあるのです。

       

      仮にですが、悟りというものの要諦を”不動心”という所に持ってくるとしたらどうなるでしょうか。それでいくらか別のものが見えてくるような気がします。

       

      悟りというのは何か圧倒的に頑迷で、動かしようがなく、それ故に明るく透明で、説明不要である理知を得た状態です。

       

      一つには無分別智というものが、そのような知性の当直性を確かに我々に与えてくれると思います。(「おい」と言われれば「はい」と応える。それで大笑いして終わり。野原に花が咲く。それで何かを問う隙間もない。真の知性とはこのようなもの)

       

      そしてもう一つ、こういう透明さを可能にする別のものがあると思います。こういう透明さのために、必要不可欠なもの、と言っても良いかもしれません。

       

      それは無邪気さというものです。

       

      無邪気さは自分を許すところから生まれます。男性の場合、彼らは大抵自分を客観視して外から眺めているので、そもそも自分を嫌悪するということが割合少ないのです。自己嫌悪は自己変容の意志、野心や権力欲になって外へと拡散していきます。

       

      だから生まれつき女性が無分別であるのと同じように、生まれつき男性は、自己嫌悪というものにかなり無縁です。無力感を持ちはしても、自分を憎む割合は少ないのです。

       

      女性はというと、この嫌悪感をかなりの割合で腕に抱えたまま生きています。目の前に山と積まれた憎しみや憎悪が横たわっているためにそれが色眼鏡になって、自分を憎んだり他人を憎んだり、そういうことで忙しいのです。

       

      それで、この自己嫌悪の憎しみを克服するということが女性にとっては重要だと思います。

       

      無分別智ということがあって、自己嫌悪ということがほどけて、それでようやく男女とも精神の完成に至る。異論は諸々あるでしょうが、少なくとも私はそう考えます。

       

      では女性はどうしたら自分の自己嫌悪をほどけるか。これはまた深刻で長いテーマになりますので、ここで全部を言うのは控えておきますが、ありがたいことに”無邪気さ”とは何であるかについて先人が良い例を残してくれているので、取りあげておきましょう。

       

      それは有名な金子みすゞさんの詩の一節です。

       

       

      『 草の名 』 金子みすゞ

       

      人の知ってる草の名は、

      わたしはちっとも知らないの。

       

      人の知らない草の名を、

      わたしはいくつも知ってるの。

       

      それはわたしがつけたのよ、

      すきな草にはすきな名を。

       

      人の知ってる草の名も、

      どうせだれかがつけたのよ。

       

      <以下略>

       

       

      完全に純化された知性や生命は、結局は戯れという所に行き着きます。それは逃避的な戯れではなく、没頭的な戯れ、不快な現実から逃れ去ろうというものではなくむしろもっともっと深く純粋にこの世の中に沈み込んでいこう、というような方向性の戯れです。

       

      ヨーガの文脈では、そういう『神の視点の戯れ』を”リーラ”と呼んだりします。より厳めしく、”義務”と言っても良いかもしれません。結果を想う心にとらわれず、ただ与えられたところで十全に自分の魂を表現せよということです。

       

      そういう次元で自分の愚かさや不完全さというものに完全に身を委ねきったときに、私たちは心底から自分自身を許し、馬鹿みたいに無邪気になって、それでもはや自分や世界を憎むことなどやめてしまうのだと思います。

       

       

       

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      2019.02.09 Saturday

      聖者vs蚊

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        ワンネスとかのこと。

         

        ニューエイジ系の、基本的にはヒンズー教、アドヴァイタ哲学を基礎とした『”私”はない』とかの思想についてですね。

         

        これを説明すると良く出てくるのが、『じゃあ蚊に刺されたらどうするんですか』の話。

         

        ”私”はない、或いはこの世の全ては私である。だから自分と他人、敵と味方なんて線引きをして、お互いに争う必要なんか無いんだ、世界をありのまま受け入れましょう、と。

         

        そういう話の延長として、こういう質問(というよりは批判)が出てきます。

         

        『じゃあ、蚊にさされたら黙って血を吸わせるんですか』

         

        『刃物を持った男が襲いかかってきたら、それも受け入れるんですか』

         

        これらの質問は、先ずもって妥当な指摘だとは言えるでしょう。常識的に考えればそういうことが気になります。

         

        しかし生憎、ワンネスとか梵我一如とか、そういう思想は全く常識的な領域をはるかに超えたところにあるものなので、こういう理解のすれ違いが起きてしまうのですね。

         

        さて、では果たして、ワンネスに到達した”聖者”(私としてはスカヴェンジャーとでも呼ぶべきだと思うけれど)は、誰もがみな蚊も殺さぬ慈悲の人なのかどうか。

         

        ――そうはなりません。ワンネスだろうと何だろうと、蚊が来たらはたき潰すし、暴漢に襲われたら助走を付けて殴り返すのです。

         

        いやいやじゃあそれは全然”私”がなくなってないじゃん、という指摘は感情的にはごもっともだけれど、論理的には、実はそうとも言えないと思います。

         

        ”私”がない、というと、私たち人間はすぐに、『じゃあ他人だけがあるのか』と考えます。これがそもそも論理エラーなのです。

         

        "私"がない、それはつまり、"私"と言えるようなものが何一つないということです。だから、名前では呼びようのない世界全体、という一つのモノだけがある(これがワンネス)のであって、私とか、他人とか、そういう線引きはないということです。

         

        それで試しにこう考えてみてほしいのですが、『"私"が蚊をはたき潰す』ように見えているその事象全体から、"私"というコンセプトを差し引いたらどうなるか。

         

        "私"は石のようにじっとなって、黙って蚊に血を吸われるのを耐えている。そうでしょうか? 誰が耐えているのでしょう? もちろん私です。私が意志を持って、蚊との関係を頭で考え、身体で行っています。これでは私が消えているとは言えません。

         

        私が蚊に血を吸われる所から"私"を消し去ると、どうなるか。正解はこうです。

         

        『一匹の霊長類の生き物が、血を吸いに来た蚊をはたき潰している』・・・これでようやく"私"は消え去りました。

         

        "私"がない、ということを理屈としては納得しておきながら、なかなか私たち人間というものは、"私"の主体性の視点を物事に無条件に適用するクセから、自由になれないものです。

         

        ワンネスの理論の中では、"私"はないのです。だからそもそも、"私"が何かをすることなどあり得ません。猿が虫をやっつけただけのことを見て、どうしても『私が』という考えがまとわりついて出てきてしまう。そういうことがこの点で足かせになるのだと思います。

         

         

         

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        2019.02.08 Friday

        愛にとらわれる

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          『愛』という概念は、元来、キリスト教文化の中で生まれたもの。仏教圏に生きる私たち日本人にとっては、中々わかりにくい部分があります。

           

          私たちがあえてこの『愛』というものを理解しようと思うなら、先ずそもそも、愛とは単純に人や物に対する執着とか、欲望などではないことを強く断言しなければならないでしょう。

           

          私はいつもこう説明しています。

           

          『愛とは存在を肯定するエネルギーである』

           

          感情の問題ではなく、エネルギーの問題。

           

          それは、今日もこの世界を一秒一秒創造し続けている、神の心臓の、大いなる脈拍です。毛細血管の中を吹き荒れる素粒子の血煙です。

           

          創造する、存在させ続ける。それが神の意図。だからこそかのモノは「私は”在る”というものだ」と告げるのです。

           

          この神の意図について、私たちはどう考え、その力に対してどう向き合うのか。ここに来てはじめて、人間という小さな生き物における愛情の問題が生じるのだと言えるでしょう。

           

          私たちは世界を憎み、見かけ上では存在を否定していくこともできます。そういう在り方を神は私たちに許しているからです。

           

          しかしもし私たちが、本当に世界を憎むならば、憎しみの言葉を吐いてはいけないはずです。

           

          何故なら、言葉を発するということはすなわち、この世界に新たな内容を追加することを意味するからです。

           

          もしも私たちが本当に世界の存在を否定したければ、私たちは、次の瞬間に世界を終わらせるはずです。神を超越するということは、恐らくそういうことなのです。

           

          世界を終わらせることはできるでしょうか。変革すること、変化をもたらすことではなく、世界というシステム、時間や空間のシステムそのものを根本から消去することはできるのでしょうか。

           

          これは言い換えれば、一体私たちは、本当は世界を憎むことができるのかどうか、という問いでもあります。

           

          その答えは恐らく、私たち人間には、仮に見かけ上はそうではないとしても、本質的には、世界を憎む能力そのものが備わっていない、ということなのです。

           

          もしも私たちが憎む力を持たないのだとしたら、さらにこう言い換えることができるでしょう。

           

          私たちの本質は、愛である。ただただ、自らを表現したい、新たな世界を創造したい、誰かを存在させたい、この世界に存在し続けたいという『愛』の想いこそが、私たちの魂の真実なのだ、と。

           

           

           

           

           

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          2019.01.30 Wednesday

          自分を敬えない人のためのホ・オポノポノ

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            ホ・オポノポノというのが少し前に流行りました。今はもう下火なのかな。当時私もある程度勉強したものです。

             

            日本国内では、主にSITH(セルフ・アイデンティティ・スルー・ホオポノポノ)という理論体系として有名になりました。

             

            ホ・オポノポノというのは元々はハワイの言葉で、心の浄化、とかそんな意味だそうです。

             

            そのハワイの土着文化が色々な人に改良されたり引き継がれたりして、元々の文化とはかなり異なった形でSITHという技法にまとめられ、日本に輸入されてきました。

             

            SITHは現代の精神文化がどれも軒並みそうであるのと同様に、「自分の意識を変えれば人生は変わる」という前提に基づいており、徹底して自己反省的なニュアンスを持っています。

             

            曰く、「物事の結果が悪くなるのは、自分の心に悪い固定観念のようなものが滞留しているから。だから私たちは、外の世界を変えようとするのではなく、自分自身のその悪い固定観念を解消することだけを考えていくべきである。悪い固定観念を解消すれば、結果は自然に良くなっていくだろう。」

             

            近現代の精神修養とかの文化は、これまで隠されていた世界の複雑さや理不尽が日々着々と暴かれ、もはや手を付けられないような状態に変貌しつつあるこの情報化社会を目の当たりにして「皆の力で世の中を変えよう!」なんて言わなくなっているのが共通の前提です。

             

            変わりに「自分一人を変えればそれで良い」という考えが台頭してくるのですが、SITHもまさにそうした潮流のど真ん中を通っていると言えるでしょう。

             

            SITHでは、嫌なこと苦しいことなどに直面した時に、その不快感や恐れに向かって――嫌いな対象に向かって、ではない。嫌だな、という自分自身の気持ちに向かって――『ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています』という典型的なキーワードを発して、その悪い固定観念を"クリーニング"しようとします。

             

            論理的には、上座部仏教のヴィパッサナー瞑想の前に行う”慈悲の瞑想”という短い祈りを更にコンパクトにして、頻繁に繰り返すようなものだと言えるかもしれません。

             

            それらの要諦は、脳の連想機能の中に潜む強力な”警戒バイアス”を停止して、目の前のまっさらな現実に向き合える状態とすること。つまり空想を終わらせて現実検討能力を向上させるということです。

             

            SITHには確かに、ある程度このような効果を見込める部分があり私も技法として用いてはいるのですが、何分海外から来ているものなので、キーワードの選定や翻訳に難ありという感じがします(愛するという言葉や、許してください、と自分に対して敬語を使うあたり)。

             

            ですので私は、SITHのキーワードを次のように作り変えて使うことにしました。

             

            『ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています』 ⇒ 『ありがとう、ごめんね、もう大丈夫』

             

            この言葉は、自分自身の潜在的な苦痛の記憶(SITHではウニヒピリという)に向けて言う言葉です。ウニヒピリは盾を構えた子供のようなもので、私たちが傷付かないように、自分自身を防御壁として外の世界に警戒心をまき散らしています。(=無意識の防衛)

             

            この無意識の防衛機能を解除して、問題を自分の意識の中に取り戻す、という意味合いとして、『ありがとう、ごめんね、もう大丈夫』というキーワードは嫌みなく適当なもののように思えます。そうやってウニヒピリの肩を叩いて、血だらけになった身体を引き下がらせてあげるのです。

             

            こういうファンタジックな方法論、少々好みの別れるところかもしれませんが。

             

            ご興味があれば、折角ならどなたにも一度は試していただきたいやり方だと思います。感性が合えば、きっと終生使えるメンタルケアのテクニックとして十分良い相棒になってくれることでしょう。

             

             

             

             

             

             

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            2019.01.21 Monday

            無手で手放せ

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              例えば「自分自身を手放せ」と言えば、それはヒンズー教とかヨーガ的な考え方でしょうか。

               

              手放せ、と言われて勘違いをしやすいのは、「手放す= 何もしない」だと考えること。

               

              自分の心を手放すために食事を絶ち、断捨離をして、文明から遠ざかる。

               

              それは「手放す」ことではありません。それは「一切を避ける努力」というものです。

               

              手放す、というのは活動を止めよう止めようと「努力する」ことではなく、そこにある自分の心に「つけ加えようとしない」ということ。

               

              流れに身を任せ、結果を自分の理想どおりに誘導しようなどとはせず、与えられるものに完全に柔軟な応答をなし得るしなやかな心を持つこと。

               

              自分で始めたことでもない、自分で終わらせることでもない。ただただそれは、私たちが私たち自身のこの心でもって、流れてくる事象を受け止め、受け流していく、ということについての哲学なのです。

               

              だから、手放すことはある形式による修行に努めることを意味しているのではありません。

               

              むしろそれは私たちの、日常の些細な出来事のひとつひとつ。それに対する態度によるものなのです。

               

               

               

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              2019.01.19 Saturday

              自由を許すな

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                躓く石も縁の端(つまづくいしもえんのはし)。

                 

                四字熟語にしたら、躓石縁端。読みはチセキエンタン、かな?

                 

                ということで新しい記事カテゴリーを作りました。こちらでは宗教教義や神秘思想など、精神世界のカルチャーにおける、理論のわかりづらい部分、つまづきの石となりやすい部分について、参考までに私なりの解釈を述べさせていただこうと思います。

                 

                最初のエントリーは『自由』について。

                 

                伝統宗教の精神修養の文脈では、自由というものは好まれるよりむしろ避けるべき性質としてとらえられます。

                 

                一方で神秘思想などの分野では、自由であれ、心のままに生きよ、というようなことが良く言われます。

                 

                この「自由であれ」の教えについて私たちが違和感を抱くとしたら、大体こんな風でしょう。

                 

                『欲望を好き勝手満たしていたら、周囲の人間は迷惑でたまらない。どうしてそんな無責任なことが許されるのだろう。こんな考え方は、人間を自堕落にして破滅させるだけだ。』

                 

                先ずまず無難な、健全な意見だと思います。しかし好奇心を抱いてもう一歩教義の中に踏み込んでいくと、大抵この「自由であれ」という教えは、実は次のような前提条件を持っていることがわかります。

                 

                曰く、『何もかも好きにしたら良い。食べたいだけ食べればいいし、寝たいだけ寝ればいい。怖ければ逃げればいいし、人に嫌われたくなければ、おべっかをつかって頭を下げていればいい。心でそうしたいと欲することも、頭でそうありたいと考えることも、どちらも君の本心から出ている望みなのだから。

                 

                自由、という言葉の中に放埒さや無責任、わがまま、動物的な卑しさなどを見る人は、実は暗黙の内に”理性(頭)ー本能(身体)”という少し古めかしい精神構造のイメージを持っています。

                 

                こういう二分割された精神イメージでは、心というのは、本能(欲求)を理性(規則)で制御し続けることで成り立っています。

                 

                だからこういう場合、何かを”望む”ということは心の半分だけであって、それは常に”ガマンする”というもう反面を伴わなければ健全では有り得ない、という考えになるのです。

                 

                そういう事情の所へ「自分の願いに完全に自由であれ」なんていうことが言われると、『とんでもない!それじゃ心の半分だけじゃないか!それは自動車のタイヤを、半分取り外して走り回るようなものだぞ、上手く行きっこない!』というような至極当然の反論が上がってくるでしょう。

                 

                さて、ですがこの”頭ー身体”という精神モデル、昨今の心理学や哲学、精神自由思想などの分野では、いささか時代遅れなものになっています。

                 

                現代では、「心」というものはより全体的なもの、少なくとも脳を含めた身体機能全部の微妙なからまりあいの中で生じているもの、と認識されていることの方が多いでしょう。

                 

                そういう視点で見ると、「自由であれ」ということもどうでしょうか。『頭で思うことも身体が欲することも、全部含めて君の望みだろう』ということになれば。

                 

                『あの店の食べ物を何でも好き勝手に食べて回りたいけど、怒られたり、捕まって牢屋に入れられたりするのは嫌なのか? なに、大丈夫だ。自由にしたら良いのさ。君がしたくないと思うことなら、しなくて良いんだよ。』

                 

                「自由であれ」。実は、これは結局『まあそう深く悩むなよ。なるようになるさ』ということを言っているのに過ぎません。何でもない、ただの無意味な挨拶みたいなものです。

                 

                むしろこの「自由であれ」という呼びかけの意義は、前述のような「古い精神イメージ」を抱えている人たちの認識にショックを与えて、揺さぶり変えていこう、というところにこそあるのかもしれませんね。

                 

                 

                「自由」についてもっと深い考察をしたい、という方がもしおられたら、ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』をお読みになることをおすすめします。難しく書いてある本ですが、私たちの「自由」についてのイメージを一新するような、鮮烈な明晰さで記された名著です。適性のある方なら、閉じていた眼をすっと開かれるような体験ができるかもしれません。

                 

                 

                 

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