2023.04.26 Wednesday

電子書籍の更新:個人のための精神修養

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    電子書籍の更新。以前から公開している「個人のための精神修養」に内容を追加し、他の部分も所々修正した。

     

    追加した修養メニューは「チェックイン瞑想/数息観瞑想/深層意識受容法/逆説志向/小さな死の練習」の5つ。

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

    2022.10.27 Thursday

    反復と秩序

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      反復が秩序をもたらす。

       

      形態と手順の反復が、文化や個々人の人格を形作る。

       

      またある要素が繰り返し再現されればされるほど、私たちは、

       

      その要素に正しさ、確からしさ、必要性などを、感じるようになる。

       

       

       

      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

       

      2021.09.29 Wednesday

      個人のための精神修養

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        本体のWebサイトの、電子書籍の項目に一冊追加した。

         

         

         

        これはもうずっと以前のサイトでブログ記事として公開していたもので、それを発掘して、内容はほとんど手を入れないまま、ひとつのファイルとしてまとめた。

         

        当時、これからの宗教は集団宗教から個人宗教に移り変わっていくだろうと考え、そのささやかな受け皿にでもなればと思って作ったものだった。

         

        変わった内容としては、一人カラオケの作法的なものが書いてあったりすることだろうか。 縁あって、カラオケ店には精神疾患の兆候を示した人が多く来店することを私は知っており、メンタルヘルス的なカラオケ店の必要性などについて考えていたのだと思う。

         

        読み返すと今さら、という感じもするが、こんなものでも誰かの役に立てるなら儲けものだ。念のため公開しておくか、と思った。

         

         

         

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        2021.01.02 Saturday

        布留威

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          私達の世界は、宇津流霊(ウツルヒ)という海の中で生きる一匹の生物である。

           

          この生物の名を、私は布留威(フルイ)と呼んでいる。

           

          フルイは、ヤハウェと呼ばれるものに近い存在である。ウツルヒとの関係で見れば、永遠の流転という宿命に抗うサタンであり、堕天した天使ルシフェルのようなイメージを重ねることもできる。(プランクトンは海に抗い、海と戦っている、と言えなくもない。守られ育まれているとも。何とでも言えるだろうが。)

           

          フルイの特徴は、流転の海の中に”継続”という概念を持ち込んだことだ。偶然その宿命に縛られてしまったとも言える。彼はウツルヒの中で発生し、成長し、今日もまだ”継続”している。私達風に言えば、生きている。

           

          堕天、堕ちるという言葉を使ったが、彼は正に重力の中心である。例えるなら二次元の海に深さという三次元目の方向性を加えて、落ち続けている。それによってウツルヒの変化の力を吸収し、代謝し、永らえている。

           

          代謝。変化を代謝すること。それがウツルヒの中で継続するための絶対条件だ。変化を拒めば波に飲まれてしまう。そうならないように波を飲み込み、乗りこなし、自らの内側に増し加えていくのだ。重さとして。重力として。

           

          ウツルヒもフルイも、私達人間から見ればどちらも神であるが、その二つが別の宿命に依って成っているというのは重要である。

           

          それによって、私達は二段階の神意を考慮せねばならない。

           

          一段階目は、より私達に身近なフルイから受け継ぐ宿命であり、それは”在り続けること”だ。私達は諸々の存在を維持し、存続し、保たねばならない。

           

          二段階目は、フルイを内包するウツルヒが規定する宿命であり、それは”変わり続けること”だ。

           

          無限の変化の中で、在り続ける。この矛盾した課題を克服する方策はすでにフルイ自らが示している。変化を代謝すること。

           

          その為の仕組みは無数に考えられるだろうが、私達のこの”生命”というものも、そうした仕組みの内のひとつの傑作だろう。

           

          ”生命”の中に更に”私”という自意識が組み込まれる。魂の重みを増し加えるためである。

           

           

           

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          2020.11.22 Sunday

          to the very end of the age

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            文明の発達に伴って、宗教というものの位置付けが変わっていくこと。

             

            宗教が発生する根本である、”実存に対する驚き”というものは、21世紀の現代でも未だ人間から失われていない(それはセンスオブワンダーとか、摩訶不思議とか、ヌミノース体験とか、ハードプロブレムとか、色々な言葉で呼ぶことができる)。

             

            これらを上手く説明して、私たちを納得、安心させてくれるような何かを”真理”と呼ぶのだとしよう。

             

            真理というのは、これまでの人類の歴史の中では、特定の組織や集団を通して得るものだった(〜教とかそういうところへ行って、教えてもらうもの)。

             

            けれど文明の発達に伴って、事情は変わっていく。

             

            主な理由の一つは、人権意識の高まり。私たちは国家とか会社とか、ある「集団」の構成員として一生を生きることから離れ、より多様な個人の人生を生きるようになった。組織宗教の中で真理を学ぶというのは、その組織にとても深いレベルで帰属して、奉仕し、その組織と一体になるということをも意味するのだけれど、そういう考え方を私達はもう受け入れられなくなってきた。

             

            もう一つの理由は、情報通信の発達。今よりもっと昔は、情報というのは物理的に制約されているものだった。本は重くて貴重だから、調べ物は図書室に行ってしなければいけない。知識は学校の教授から直接会って教わる必要があった。宗教的な真理、奥義、ドグマのようなものはそれこそ門外不出で、だからこそ人が真理を学びたければ宗教集団に入門しなければならなかった。

             

            現代では違う。情報は羽根のように軽くなった。インターネットの匿名性は、昔なら隠されていたような情報もあっという間に暴露してしまう。玉石混淆の”真理”らしき説明を、あらゆる所で見つけることができる。

             

            そういうわけで現代、宗教は組織や集団の中からだんだんと離れてきた。

             

            これから先の時代も、多分そういう流れは加速していくだろう。

             

            宗教は個人化され、「集団の中で教わる」ものから「自分で探求する」ものに変容していく。教祖とか宗教集団といった装置は、徐々に立ち位置を狭めていくことになる(変わりにアイドルとかカリスマとか、憧れの対象みたいな感じの人が持ち上げられていくのか?)。

             

            宗教界にもそういう変化の潮流がある。

             

            面白いのは、カルト宗教の層だ。彼らも個人化される。インターネット上の曖昧な神秘クラスターがそれを吸収して、モヤモヤとした何か宗教らしいような、一見現実めいた不思議な情報の森を作り出すだろう。

             

            人と人との緩やかで秘密めいた繋がり。「同士」とか「隊員」、「姉妹」などといったはっきりしない序列。こっそりと語られる出所不明の陰謀論。仲間内だけの合図。散漫な「お茶会」や「集団瞑想」。これら新しくしつらえ直された、当世風の美しい精神上のたしなみ。

             

            その中では相変わらず、カルト宗教の最も悪い側面である終末論などが思い出したように鎌首をもたげ、物憂げにあくびをするみたいに、小さな飛沫的なグループを異常状態に陥らせる。その気まぐれさと、底の抜けたのどかさ。

             

            宗教は失われない。実存の脅威が解体されるまで――それはつまり、この世界が最終的に崩壊に至るまでは。

             

            だが形を変えることはある。遥か昔、数千年も前の、我が祖国の姿を想う。深い山の奥、焚かれた火の周りで、巫女の語る言葉と祭祀の食べ物。神は身近で、私達は小さく、世界は恐ろしかった。宗教は人生の全てだった。いや宗教は、一人ひとりの人生よりも遥かに大きく、重要な何かだった。

             

            今だって、窓を開ければ同じ空が見える。その頃と大体同じ空だ、多分。だが何かが決定的に違う。神について想うが、想うだけ無駄だという、その退屈さだけが確信になる。形をかえていくものは、あるのだ。

             

             

             

             

             

             

             

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            2019.07.28 Sunday

            悟りと見立て

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              もしも私たちが精神修養を指導すべき立場にあるなら、修養者一人ひとりの精神をどのように成長させていけば良いか、その見立てを持たねばならない。

               

              自分が教わったこと一つ、これ一つやっておれば何とかなるだろうと、そんな粗雑な理解ではいけない。指導者は、修養を通して自らの精神に起きた変容の本質を良く分析理解し、そこから逆算して、まだそうでない人が先に行くためにはどのようなピースが必要なのかを考えねばならない。

               

              自己形成の課題を持っていたり、特別な環境下にある人についてはそれ相応の工夫が必要である。そうした個別の工夫を上げていけば人類70億通りのものがあり一口に言えないが、参考までに基本となる典型を次のように考えて良い。

               

              悟りの課題には、頭と心、この2つがある。

               

              頭とは論理や教学、賢さに関わること。

               

              心とは人間性や奉仕、心の豊かさに関わること。

               

              二つの課題の両方が整って始めて、悟りの段階は姿形が整う。頭だけ良くしても冷え切った哲学になり、心だけ良くしてもほとんど狂気に近い。

               

              両方を良い状態に育てていくことが必要だが、精神修養の始まりの段階では、一般的に男性は頭の部分はすんなり起きてくるのでこちらに偏重する。女性は心の動きを通して学ぶことがはっきりとわかりやすいので、そちらに偏重する。

               

              だから男性は仏教とか哲学などに適応が良く、女性は神秘主義や、キリスト教浄土真宗などの物語の教えと、奉仕活動に適応が良い。(あくまで典型であり、あてはまらない人も多いが)

               

              そして大体、偏重したままである程度の段階まで進み、最後の最後でもう片方の問題に行き詰まる。

               

              行き詰まって、ぶち当たって、この最後の壁を崩壊させたら、そのあたりで本人自覚するところがあるだろう。

               

              例として言えば、頭だけでやってきた人は、何かしら大変ショックな出来事でそれまでの情動や世界観が揺さぶられた時に壁を乗り越えたりする。

               

              心だけ育ててきた人は、整った良い教学を少しずつ学んでいく中で、いずれ物事の整合性がかちりと絡み合う、そのような霊的ひらめきで不意に視界が開かれることもあるだろう。(根本的に重要なのは、理論や知性の全ては遊戯に過ぎないと見抜くことだ。しかし弁が立たねば人に説明もできず、それ故教学のない人は確信が遠のいてしまう)

               

               

               

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              2019.07.24 Wednesday

              悟りと男女

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                一部の仏教などでは、女性は悟らないということが言われる。指導者たちは経験的にそう感じていたのだろう。

                 

                男性も女性も、精神が成長すれば結局は悟りに進むという点では同じだ。

                 

                だがその悟りかたには確かに違いがある。

                 

                男性の脳内の言語世界、つまり論理的なものの考え方というのは、比較すればより緊密で強度が高く、それに伴って”私”概念も強い自立性、独立性を持つ。

                 

                女性の脳内では肉体的な感覚などがより優先され、言語は感覚と強く結びついて、言語自体の独立性は低い。

                 

                悪く言えば、脳機能的に見れば男は頭でっかちで、女は身体で考えるクセがある。

                 

                こういう事情があって、悟りの現象が言語世界の瓦解と再構築を促すとき、その衝撃は女性よりもむしろ男性において、強烈なショックを持って起きてくる。

                 

                (そもそも女性は、悟りの現象において言語世界の瓦解を必要としないことも多い。雨宮大慈曰く『女性は生まれつき悟っている』。だが言語世界に依存しないというその特徴が、女性の心とその修養過程をより捉え所のない曖昧なものにもしてしまうのだが。)

                 

                強い言語世界を持つ男性は、女性よりも悟りの段階における衝撃が強いのだ。比較して言えば、女性はその段階に進んでもそこまで激烈な変容体験を起こさないので、このことが男性指導者をして「女性は悟らない」という誤解を抱かせるのだろう。

                 

                だが見誤るべきでないのは、精神変容に伴って感ずる刺激や爽快感がどれほど強いか/浅いかなどという問題は、悟りの本質とは全く関係がないということだ。

                 

                悟りという現象の恩恵はあくまで、その過程を経て生まれてきた人々の優れた素質と精神性が、私たちの生きるこの世界に発散され影響を波及させていく部分にこそある。

                 

                そのような優れた性質を獲得しうるかどうかという点に着目して見比べてみれば、男女の性の違いは悟りの現象において根本的な問題ではないということがわかるだろう。

                 

                ※便宜上ここでは男女という概念を典型的に扱うが、悪しからず。

                 

                 

                 

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                2019.07.24 Wednesday

                悟りと病理

                0

                   

                  悟りという現象は、私たち人間が持つ言語的な能力に深く関連している。

                   

                  私たちの脳内にある言語世界は、人生を通して経験した肉体感覚が、言語というラベルと共に系統立てて保存された、一種の記憶データベースである。

                   

                  そのデータベースがある程度育つと”私”という概念が創発され、言語世界に中心性が生じてくる。

                   

                  その”私”概念がより成長し複雑化していくと、いずこかのタイミングでこの概念は引き裂かれ、崩壊し、もはやその強力な形や中心性を保てなくなる。

                   

                  これが悟りという現象の典型である。

                   

                  そこで私たちは気付かねばならないが、生まれて以来まだ”私”という概念を作り上げていない人がいるとしたら、その人は順当な経路に沿って悟ることはできない。

                   

                  その場合、まずその人の中に自然に”私”の概念が育つのを待つか、でなければ教学の深い所を教えて、自己形成の課題を迂回させてやる必要がある。

                   

                  後者の場合も、後々社会不適応を起こさないためには”私”という概念とは一体何か、それを持つこと持たないことで何が起こるのかを、理論的にだけでも理解させねばならない。

                   

                  さて、このように悟りは自己形成という課題と関連があり、”自己”概念は私たちが精神の成長のある時期だけ持っているべき一過性の幻想、という特徴を持つ。

                   

                  このような”自己”幻想を持てない顕著なパターンとは、現代で言えば特に神経発達症と診断される人々の場合である。

                   

                  発達障害、ADHD、アスペルガー症候群、言い方は何でも良いが、自己形成と悟りの間には、切っても切れない順序的な関わりがあることを知っておくと良い。

                   

                   

                   

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                  2019.07.24 Wednesday

                  悟りと人格

                  0

                     

                    悟った人、と言えば真っ先にブッダを想像するだろう。その慈愛や賢さなどの性質について考え、自分もそうなりたいと思うのは自然なことだろう。

                     

                    だが本当に、悟りに進むことは即、人格の洗練や向上を意味するのか?

                     

                    それは違う。

                     

                    悟りと人格の洗練にはもちろん関係があるが、絶対的な関係ではなく、間接的な関係にある。

                     

                    悟っていなくても洗練された人格の人はいるし、悟っていても洗練されていない人もいる。

                     

                    だが悟りに進まなければ、本当の意味で人格が洗練されることはない。

                     

                    また、悟りに進んでより高い視点の現実認識を得ることで、私たちは自然に自分の在り方を見直しはじめるようにもなる。

                     

                    (ルドルフ・シュタイナーは、健全な知性と思想を持つことによって私たちの持つ感情の構造全体が影響を受け、矯正されていくことについて述べている)

                     

                    悟りに至る/至らないの違いは、ちょうど泳ぐときに浮き輪を付けているかいないかの違いのようなものだ。

                     

                    浮き輪はある程度まで便利なものだが、ある時点からは泳ぎの邪魔になるので、より上達するためには取り外さなければならない。

                     

                    別の視点から言えば、悟ったからといって、即ちその人の人格が優れているということにはならない。

                     

                    悟りは天井を取り払うだけだ。人格の洗練は、生きている限り続く。

                     

                     

                     

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                    2019.07.23 Tuesday

                    悟りとは何か

                    0

                       

                      物語には尾ひれが付く。折々でその余分な所を落として、話を整理しておくことも大事だろう。

                       

                       

                       

                      「悟り」という現象の本質は何か。

                       

                      それは、言葉を通して考えるクセから脱することだ。

                       

                       

                       

                      それによって何が起きるか。

                       

                      ・この世界のありのままの現実(実存的領域)を認知し、洞察するようになる。

                       

                      ・意味の地平線を超えて、超意味的な世界観を得る(創造性の領域に足を踏み入れる)。

                       

                      ・心を束縛する競争心と憎悪(要するに自分への不満、自己否定)が解消される。

                       

                      ・彼我の境界線が消え、エゴを制御した調和的な振る舞いに慣れていく。

                       

                      ・より大きな原則(真理)に身を委ね、その中で安寧を感じるようになる(自分を手放す)。

                       

                      ・主観的視点から自由になることで、認知におけるゲシュタルトの組み替えを容易に行うようになる。

                       

                      ・より落ち着いた健康な精神を持つ。

                       

                       

                       

                      そこに至る手段は何か。

                       

                      根本的には、クリシュナムルティが述べるように「真理はそこへ行く道のない土地」ということで、定まった何かの方法をやっていれば必ずそれがわかる、というようなものはない。

                       

                      これは哲学として言えば「(私たちが)何かを求めて、これこれをやり、どこどこへ至る」というような線的な認識の仕方こそ言葉の思考法なのであって、真理はこのような線的な連続性が打破されてはじめて理解できるものだという事情による。(地と図の交代、コペルニクス的転回)

                       

                      それだからこそ、私たちが真理を理解したければ五感の全てを通してこの世界に良く触れ、教理を学び、考え、あらゆる方向性の精神修養に取り組んでいくのが良い。

                       

                      実情としては、精神的なショックで脈絡無く突然理解する人もいるだろうし、仏教で瞑想をしてわかる人もおり、信仰を通して理解していく人もおり、科学や論理の追求の果てにそれを見る人も、生まれつきの豊かな感性と優れた文化の交互作用によってそれと知らず身に付ける人も居るだろう。

                       

                      真理は兎に角無形であり、多様性がある。それは真理という一つの動かしがたい不変のものに対して、私たち一人ひとりがあまりにも無形で、且つ多様である、という事情による。

                       

                       

                       

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