2019.06.22 Saturday

Tears in Rein 

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    「変性意識」状態を実現するための、神秘体験とかそれに類する精神状態を誘発する手法について。

     

    「人格の統御作用を一時的に停止させる」という大きな視点から見れば、諸々の宗教やトランスフォーメーション理論における修行や手法の中に、そのまま活用できるものが多く見出せる。

     

    例えば、伝統的にサンテ・ダイミ教団が用いるアヤワスカは確実な効果を持って私たちの精神を境界から離脱させるだろう。これはビートニクムーブメントの中で精神の拡大という方向性を支えたLSDや、或いはネイティブアメリカンが用いるメスカリンであっても同じことで、単純に幻覚剤としての作用による。薬効成分についての十分な知識と準備がなければ脳組織を永久に損傷するリスクがある点も変わらない。

     

    同様に危険を伴う手法としては、オウム真理教がヨーガから取り入れたという止息法や過換気法なども神秘体験を誘発する。意図的な酸欠状態を用いる脳に負担の多い修行法で、統合失調症様の状態から復帰できなくなるクンダリーニ症候群を引き起こすこともあると言われる。

     

    仏教の密教的な修行や、ヨーガの苦行、神道における禊ぎなども、生体にある程度ダメージをもたらすことで通常の神経機能を破綻させ変性意識に導く作用があるという点では、共通しているかもしれない。

     

    このように大抵、変性意識を作り出すということは肉体の健康についての負の作用があるものだが、その中でも比較的安全と思われるものは以下の二つである。

     

    一つは心理療法としての感覚遮断法。五感の知覚を隔絶する専用の個室や、液体式のアイソレーションタンクなどを用いるやり方で、使用者は短時間で物理的な負担なく変性意識へと導かれる。が物理的な負担が無いからと言って、心理的な負担もまた無いのだとは言い切れない。

     

    (例えば準備のできていない人が強制的に自意識を解体されると、躁的な明るさを伴った神経症様の葛藤がパーソナリティの中に突然浮かびあがり、社会関係に不適応が生じはじめることがある。それと同じ事で、私たちがより高い次元の視点を獲得しようとする時には、その視点を支えるに足るだけの十分な知識、人生経験、思想や世界観などを構築しているのでなければ危険である。)

     

    もう一つの方法は、最も手軽でまた最も安全に思えるのだが、瞑想を通して変性意識に到達する方法である。その場合瞑想法はサマタなのかヴィパッサナーなのかというような問題があるが、個人的には、ただ単に変性意識を目的にするのであればどのような瞑想方法も十分用をなし得るものだと考える。

     

    問題になるのはただ、十分な熟達と集中を通して意識を通常とは異なる深い状態へ導くことだけだろう。その先にあるものがサマディーであろうと、精妙な般若の具現化であろうと或いはサイケデリックなトリップ体験であろうと、超実存の理論の中で境界を脱するためのものとしてのみ考えるのであれば、変性意識の「内容」そのものは重視されないからである。

     

     

     

    ※追記

    純粋意識の経験を持つための方法を模索する中で、多少見解が変わってきた。それは誰でも経験可能であるという普遍性や、繰り返しの再現性、経験の自覚(記憶)可能性という点を考慮すれば、瞑想や苦行などの方法は、幻覚剤を慎重に用いる場合に比べれば全く効率が悪いであろうということについてである。(これらの方法は訓練すれば効果があるが、世の中の誰もが、十分な修行のための時間を持っているわけではない。)

     

    とはいえ当然、これらの麻薬物質を私たちが扱うことは法律的に禁忌だから、別の方法を探ることになるが。

     

    海外ではLSDによる精神変容(認知の変容)の治療的側面についての研究があり、もしかしたらパーキンソン病に特別な効果を及ぼすという医療大麻などと同様、次の時代には麻薬から精神薬としてリヴァイバルされるのかもしれない。何にせよそれは私の興味と材料から多少離れる話である。

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

    2019.06.22 Saturday

    Tears in Rein 

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      さてでは神秘体験と境界解体にどのような繋がりがあるかということだが、すでに大分述べたように、境界は中枢神経に由来する知覚信号の統御能力によって形づくられている。

       

      裏を返せば、この統御能力を失うとき私たちの精神は一つの生命個体として意図された正常なラインを逸脱し、半ば生命を離れて、生命から自由になって活動し得るということである。

       

      これは多少大げさな言い方かもしれないが少なくとも、境界というものの意義を考えれば中心化のための統御を脱した意識内容はもはや境界本来の役割を成してはおらず、何か特別な設計外の活動状態にあると考えて良いだろう。

       

      私は便宜的に、こうした境界の形が乱れた意識の状態を「変性意識」と呼ぶことにする。(神秘主義の歴史の中で様々に用いられてきたこの語を、ここでまた新たな定義によって使うことには異議も多くあろう。がしかし、私はそうした多面的な意味合いの全体を含めて、超実存の理論を通して、この変性意識というものにエッセンシャルな骨格を与えられはしないかという意図を持つものである)

       

      重ねて言うようではあるが、私は神秘体験における光とか声とかの知覚内容それ自体に興味は無いし、それが所謂「現実」と呼びうるものの範疇かどうかなどという議論に加わる気も無い。

       

      この見解は今も変わらないが、更に一歩進んで、神秘体験における”変性意識の状態そのもの”は、それを「経験することによって境界の精神閉塞機能を緩和させ得る」ものではないかと考える。

       

      つまり私が考えているのは、何であれ神経系の正常動作を阻害/湾曲させ、知覚内容の統御能力が一時的に破綻した状態を経験していくことによって、その時私たちは徐々に境界外の意識(純粋意識)についての実感を得ていくであろうこと、そしてまたそうした経験は私たちの通常状態の精神の在りようにも影響し、より解放された精神の諸々の特質を発揮できるようにもなるだろう、ということである。

       

       

       

      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

      2019.06.22 Saturday

      Tears in Rein 

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        宗教的な神秘体験の必要性について再考している。

         

        これまで私は主に心理的な立場から、各宗教教義や神秘思想における啓示や幻、預言、神秘体験などについて純粋に(意味のある)脳の誤作動という程度の見方をしてきた。

         

        私自身精神修養に併せて神秘体験を経験したことはあるが、それとても長年の心理的抑圧が解体されたショックによる興奮物質の過剰分泌程度のことであろうと考えていた。

         

        キリスト教教義に良く見られるような啓示などは、例えそれが幻であったとしても、恐らくは無意識の高度な倫理的判断を示し、私たちに驚嘆や感動を与えてくれる意味深いものであることは心得ている。

         

        それでも尚私には、神秘体験の知覚内容そのもの、何を見たとか聞いたとかいう内容はあくまで「象徴」としての役割を持つだけであって、重要なのはその根底にある無意識の内容、それさえ分かれば表層にある現象部分は特に見るものはない、と考えられてきたのである。

         

        さてしかし、全く別の事柄を検討するにあたってこのような神秘体験の有用さ如何について思う。

         

        その別の事柄というのは、即ちバウンダリーの解体である。

         

        超実存的に見ると私たち人間の精神構造には、二段階の特徴的な自己中心化プロセスがある。

         

        一つは言語的観念を通して作られる”私”という自意識構造。もう一つは中枢神経に由来する知覚の統御能力を通してもたらされるバウンダリー(境界)。

         

        自意識の解体については、禅やジニャーナヨーガなどの知見を通してすでに相当語り尽くされているところでもあり、ここでは触れない。

         

        今回着目したいのはバウンダリーの、解体、そして精神をそこから解放する技法としての、神秘体験の構造的利用についてである。

         

         

         

        JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

        2019.06.19 Wednesday

        Roots to Branches

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          現段階で私が思う限りでは、バウンダリー/境界は、純粋意識の過密な衝突によって作り上げられるある個別の次元である。

           

          つまりそれは、基底的に見ればそれ自体高いポテンシャルを持つ素粒子同士が、相互に衝突しあうことによって場の新たなベクトルを開き、そこを起点としてちょうどビッグバンのように生じさせる、ひとつの新しい宇宙なのだ。

           

          仮にこのような考えが正しいとしたら、通常我々が「主観」として受け取っている私のこの境界であるとか、あなたのその境界などは、言い換えれば魂の器であるゼーレは、人体の機能から推察すれば脳幹〜大脳基底核あたりに存在するのではないだろうか。

           

          恐らくこのあたりに私たちの身体から生じるあらゆる神経信号を、選択的に抑制したり強調させたりする何らかの器官があるはずだ。そしてその場所こそ、人間の肉体の中で最も神経信号が過密に集積される「中央議会」ではないだろうか。

           

          (ちなみに、人間の精神はこの部位を挟んで肉体的な外世界と脳内の内世界とに分断されている。正確な部位がどこであるかは判然としないが、なんにせよ神経系におけるこの内外のループバック構造の中心に、私たちの魂は備わっているように思える。

           

          そして魂が神経信号の抑圧や強調などを司る部位であるだろうということは、「境界においてはあらゆるものが主体的であり、基底においてはあらゆるものが機械的に作用しているように見える」という境界ー基底間の関係を精神ー肉体間の関係に比較して、その中心にあるものの役割を推測してみればある程度想像が付く。)

           

          また上記のような仮説を通して、私は別のひとつの推測を得る。

           

          それは、私の境界が宿るこの個体としての人体には、この境界以外にも別の境界が宿っているのではないだろうか、ということである。

           

          もちろんそれは私のこの境界ほどはっきりとした鮮明なまた複雑なものではないだろうが、神経の過密な集積と興奮(それが電気的なものか化学的なものかはさておきー)が境界形成の単純な条件だとしたら、脳幹周辺のみならず、例えばヨーガの伝統で言えばチャクラと呼ばれる部分、脊髄に沿って生じるいくつかの神経叢はどうか。

           

          そのような神経集積地で行われる神経信号の統合や修飾は、ある程度の規模の境界を形成するだけのエネルギーを生み出せるかもしれない。

           

          だとしたら私たちの肉体には、この境界の主観的視点以外にも別の複数の主観が備わっており、互いに意識せぬまま、互いの宇宙を基底を通して強固な相互干渉の立場に置かせている、ということがあるかもしれない。

           

           

           

          JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

          2019.06.09 Sunday

          死生観の更新

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            もしもある人が自己超越的な課題を乗り越え、境界よりも基底の側に自らの存在の本質を見出すとしたら、そのとき基底世界はどのようなものとして認識され得るか。

             

            結局のところ、すでに述べたように境界というものは、ある生物個体の感覚器官から生じる様々な知覚を通して構築されている。

             

            色、音、感触、匂い、味、そのような粗大な『感覚』プログラムを通して、間接的に『純粋意識』の存在を予感することはできるが、それとても直接に純粋意識を対象として観測や操作が行えるわけではない。

             

            つまり境界内容はあくまで、境界の中に閉塞されているのである。

             

            こうした条件下で猶も私たちが基底との繋がりを深化させ得るとしたら、それは影絵とか版画などの技術のように、消去法的なやり方で境界の中に基底の有り様を転写する場合のみであろう。

             

            単純なことだが、例えば睡眠を通して私たちはこの転写経験を行っている。通常、眠りに落ちればあらゆる知覚内容は主観世界から一旦完全に消失するが、目を覚ます時にはまた再起してくる。

             

            睡眠から覚醒の間に境界が消失していたとしても、基底は一定の間隔で時間を刻み、どうやらこの基底の側の肉体のありようが、境界の消失回復のリズムに影響しているようだという知識を私たちは得る。

             

            睡眠に限らず、そのような実体的経験から段々と、境界とは基底の側の物理作用に準じて生ずるものだということが本能的に理解されてこよう。

             

            とは言え素朴な認識としては物質が消えれば意識全体が消失するはず、という考えに陥りやすく、このような唯物論的世界観は私たちの主観的な実感と相容れない部分を持つ。

             

            さらに一歩進んで、意識ー物質の繋がりは細かく言えば自意識ー純粋意識ー物質という構造であることなどがわかれば、このような葛藤もまた次第に解消され、心と物との間、境界と基底との間には確かな相互関係があることが納得されてくる。

             

            心と物とが確かな相互関係を持つ、というのは言い換えれば、心は必ず物に即してあり、またそれに留まらず、物ある限り心はあり続けるということである。

             

            私たちが境界内に留まり、基底をより遠い無関係なものとして考えている限りは、基底における肉体の消滅は、境界という宇宙全体、世界全体の消失を意味することになる。

             

            だがもしも、私たちが境界内に閉塞されておらず、基底世界にまで自己の繋がりを広げていたとしたらその時は、個体の死は完全な世界消失ではなく、自らの一部が崩壊し、その形態を変えていくプロセスとして感じられる。

             

            そのような中で、ある物質の元素が複数の個体の生や死の循環の中に幾度も取り込まれていくとしたら、純粋意識のレベルにおいては、この元素はすでに幾度も生や死を経験してきたのだと言えるだろう。

             

            まさに私たちは(私たちの肉体ー意識を構成する部品としてのこれら元素は)、純粋意識のレベルでは、すでに何万回何億回という数の生死を経験してきたのである。

             

            境界はあくまで、”個体の”生存欲求に調整された形で生じてくる。私たちは自分の存在が誕生の時点から継続していることの証拠として自らの記憶を辿るのだが、この”記憶”というものもまた、時間軸上のその時々で脳内に作り上げられる過去の”模倣物”としての知覚であることを忘れてはならない。

             

            記憶もまた知覚である以上、それは境界内容であって、境界の内側のことしか語り得ない。

             

            つまり記憶というものも、個体の生命を維持存続するための便宜なのだ。私たちの意識や存在が確かに継続しているかどうか、また継続していくのかどうかということを考えるにあたって、自らの記憶を主に頼りにするとしたら、私たちは境界内に閉塞した世界観を持つことになる。

             

            一方で、境界を越え基底世界にまで通底した”自己”を持つ場合には、境界内容に過ぎない”記憶”それのみに、自らの存在が継続してきた根拠を委ねることは最早できなくなるだろう。

             

            もしも私たちが記憶を越えて存在する純粋意識と物質の相互作用を確かに実感するならば、その時私たちは、敢えて荘重に言えば、純粋意識というものを通してこれまでも何度も死を経験してきたし、これからも何度も生まれ、また死んでいくだろうということすら理解するのである。

             

             

             

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            2019.06.09 Sunday

            超実存とトランスパーソナル 

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              境界と基底との葛藤が始まるとしても、生活形態や現実適応が健全であれば、必然的に境界はゆっくりとではあるが基底の法則性に染まっていくものである。

               

              それがいつ起こるか、どの年齢で、どのような経験を経て、ということは純粋に個人差のあることではあるが、こうした境界と基底の同化プロセスが相当高まってくると、否応なくトランスパーソナルな領域の課題がそこから掘り起こされてくる。

               

              超実存的に言えば、それはつまり自らの存在の根源を、境界の側に置くのかそれとも基底の側に置くのか、という課題である。

               

              もしも私たちが十分な経験を通して、自らの境界と基底を高度に同化する段階に来たのならば、その時私たちは自然に、あらゆる存在の根源は基底にあり、境界はそこに内包されつつも全体の一部として基底を支えている実体なのだということがわかるであろう。

               

              この段階では、パーソナリティの面では”自己”という観念の形骸化や、自己中心性の低下、現実適応力の向上、競争心や自己嫌悪感の減少、他者への寛容さなどが顕著な特徴として表れる。

               

              要するに、この課題を乗り越えた人はもはや自らの境界内容を、他者のそれと比較して特別重要なものとしては見ておらず、自己と他者をそれぞれ独立したものというよりは、基底というより大きな本質の中の対等な要素として見るようになるのである。

               

              一見するとそれは、自分を内包する集団を尊重するために、自らを犠牲にする自己卑下の精神のように見えるかもしれない。

               

              だが実際にはそうではなく、境界を乗り越えた人間は、自らの境界内容を他者と比べて”相対的に”特別視しないということであって、何も自らの境界を劣ったもののように考えたりすることはないし、むしろ境界ー基底間の葛藤に由来する否定的な考えを離れて、境界内容を純粋に受け入れ楽しみもするだろう。

               

              そうした人々は、仮に言葉を通して深く考えたことがないとしても提示されれば、『自らの境界内容も含めてあらゆる境界はそれ自体が基底の実体を形成する』『境界というこの自由な新しい宇宙を生み出し、最終的にまたそれを取り込む、という活動を通して、基底はその豊かさを増していくものである』というような見解にも同意できるはずである。

               

              こうした事情は若干、宇宙の生成観にまで関わることであるが、参考として暗示的に述べるならば、カオスの中に生じたロゴスは、カオスを代謝し続けることでしかその法則性の秩序を維持できない、ということが関連していよう。

               

               

               

              JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

              2019.06.09 Sunday

              超実存とトランスパーソナル 

              0

                 

                さて、境界と基底との同化が進んでいく過程とは、どのようなものだろうか。

                 

                まず、人間の”自己”を規定する要素は、境界の生成初期にはまだより多く基底の側に残されている。(この意味で幼児の精神は受動的であり、大した主体性を持たない)

                 

                境界が成長し、曖昧で拡散した宇宙空間に”中心”という感覚が実感されると、その感覚を元に意識世界がある一点(これはあくまで仮想の座標ではあるのだが)を目指し集約し始める。

                 

                無数の隕石が宇宙空間のある特定の座標を目指していっせいに飛来し、その場所で衝突しあっているような様子だと思えば良い。やがてその無数の隕石がぶつかり合ってできた巨大な塊は、惑星となって、今度は自らの引力によって、周囲の空間の物質をどんどん取り込み始めるだろう。

                 

                こうして自我前駆体に十分な経験や実感が蓄積されていくと、境界の”中心”という概念、つまり”自己”の概念が創発され、私たちの意識の主体性は大幅に強化されていくのである。(尚ここでは、精神の発達が非定型であるとか、精神の個別の特徴により、自己形成が正常にできない場合については除外して述べる)

                 

                この段階では、精神活動の大半がこの”自己”という中心地点を考慮して行われる。それを拡大したり、強化したり、満たして豊かにしたりすることが境界全体を通じた明確な活動目標となる。

                 

                だが皮肉なことに、”自己”という境界の中心地点を強化するための経験や知識を積めば積むほど、境界は基底からより多くの”現実”を取り込んでしまうために、その同化レベルが高まってしまう。

                 

                すると段々、”自己”という概念そのものが、基底からより多くのものを得ようとする境界の活動を阻害し始めるようになる。

                 

                簡単に言えば、人間一人ひとりに備わる自己中心性、言わば”わがまま”が、『この私一人だけを特別視してくれない』現実の公平性に干渉して、現実世界からの情報の取り込みを邪魔するのである。

                 

                ”自己”という境界中心のコンセプトを守る為に、基底からの情報取り込みが阻害され始めると、パーソナリティは誇大的な色彩を帯びてくる。それは場合によってはナルシスティックで攻撃的な性格を形成したり、また場合によっては魔術的な歪んだ万能感を秘めた性格を形づくったりもする。

                 

                一般にこのような、ややモラトリアムな境界と基底との葛藤の段階は、人間の精神史の青年期から壮年期までの、ほとんど全ての期間を通じて続くものである。

                 

                 

                 

                JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                2019.06.09 Sunday

                超実存とトランスパーソナル 

                0

                   

                  基底と境界との関係をフラクタルなものとして理解すると、境界が生成された初期の時期であればあるほど、それはより自由で多様な形態を取り得るものだと考えられる。

                   

                  幼児が抱くファンタジーや世界観などは、基底の側から検討すれば他愛のない錯誤にすぎないが、境界的に捉えればそれらの極端に主観に基づいて理解された世界観も、新たな領域により自由なやり方で描き出された宇宙のひとつの姿なのであって、間違いであるとか劣っているというようなことは言えない。

                   

                  こうした新たな宇宙としての境界もまた成長、拡大、発展しつつ姿を変えていくものであるが、それに伴って徐々に、境界の中に基底の側のマクロな法則が流れ込んでくる。

                   

                  境界は基底に包括される形で生み出され、基底の中で成長していくものだから、基底からのフィードバックというものが必ず紛れ込んでくるのだ。(子供は成長するにつれてファンタジーを失い、代わりに現実に関する様々な理屈を得る)

                   

                  このように境界は、その成長において必然的に、基底に同化していく性質を持つ。

                   

                  その個体の経験や倫理観宗教観などによって、境界と基底のどちらに重きを置いてパーソナリティを構築しているかということは異なるが、境界に重きを置けばより主観的でファンタジックな世界観を、基底に重きを置けばより客観的で現実的な世界観をパーソナリティの中に構築することになり、こうした心のバランスの違いもまた、人間個々の価値観の差を生む要素のひとつであると言えよう。

                   

                   

                   

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                  2019.06.08 Saturday

                  純粋意識と感覚および自意識の関係

                  0

                     

                    基底と境界の繋がりについて。

                     

                    境界は、生物の生存意図を通じて作られる。言うまでもなく、生物は基底的な世界から生まれ出てくるものである。

                     

                    だから境界もまた、基底から生まれ出てくるのだ、ということが単純に言える。

                     

                    私たちの主観世界である境界が、物質的な宇宙である基底の動きに準じて生じてくるというのは、考えてみれば奇妙なことかもしれない。

                     

                    それはシンプルに言えば、意識は物質から生まれてくる、ということだからである。

                     

                    科学的には了承しやすいであろうこの見方を、私たちが一見不自然に感じるのは、『意識』というものへの混同と誤解があるからではないか。

                     

                    その誤解とは、『意識』を最初から複雑な構造物として捉えてしまうことである。

                     

                    結論を言えば、私たちが『意識』と呼んでいるものは主に三層の領域から段階的に成り立っている。(この”層”としての区別はあくまで便宜的なもの。実際は意識の機能がスペクトラム的に異なった表れ方をしているに過ぎない)

                     

                    一つ目は、基底のあらゆる物質に遍在する、『純粋意識』の層。(この宇宙のあらゆる物質は、素粒子の段階からこの低次意識を持つ。それは色も音もなく、それでいてただ単に”在る”という感触だけを生じさせる)

                     

                    二つ目は、肉体の様々な感覚器官を通して作られる生体機能的な『感覚』の層。(凡そほとんどの生命らしい生命はこの感覚意識を持つ)

                     

                    そして三つ目は、生命の維持存続欲求を高度に洗練するために作り上げられる、統合された精神としての『私』概念を作り上げる『自意識』の層。(“私”観念は純粋に言語的なものであるように思われる。それ故に、自意識とは基本的には言語を扱う生命体である私たち人類のみが用いる機能だと考えて良いだろう)

                     

                    コンピュータに例えれば、『純粋意識』とは基礎となる電子信号の1ビットのこと。『感覚』とはそれを複雑に計算することで得られる個々のプログラム、『自意識』はそれらプログラムをまとめ上げひとつのコンピューターとして調和的な働きを産み出すオペレーティングシステムのことだと言える。

                     

                    このように考えれば、基底のあらゆる物質にはそもそも『純粋意識』が全き形で遍在しており、そのごく一部を、生命の存在意図が高密度に複雑化して私たちの『感覚』そして『自意識』を作り上げているのだという所まで、順番に記述できるだろう。(これに関する更なる記述:もう一匹の猫

                     

                    それはまた、通常、いち生命個体としての私たちの意識世界に現れるのは生命の設計意図に由来する意識機能としての感覚と自意識、というバウンダリーの内容物だけであること、そして『純粋意識』という精神世界の基質には直接触れる手段がないし、知覚することさえできない、ということを表してもいる。

                     

                    (”見る”という行為、その”視覚”それ自体がバウンダリーを形づくっている時に、どうしてバウンダリーの外側を”見る”ことができるだろうか? このように私たちの精神は、バウンダリーの中に完全に収納され、閉塞されているものなのである)

                     

                     

                     

                    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                    2019.06.08 Saturday

                    超実存による死の記述

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                      『死』という現象を、超実存的に描写するとどうなるか。

                       

                      バウンダリーを構成する素材というのは、私たちの生命設計の中から必然に生じる各種の知覚内容である。

                       

                      例えば色、音、感触、匂い、味、そして並行感などの身体情報の感覚、これらがつまりバウンダリーの正体であると言えよう。

                       

                      先に述べたとおり、これらは私たちの『生命設計の中から』生じる。

                       

                      換言すればバウンダリー/境界とは、自らを維持存続しようとし続ける『生命の生存欲求』、存続への意図によって作り上げられるものである。

                       

                      つまり無生物はバウンダリーを持たない。

                       

                      (とは言え、ここでは詳しく述べないが、彼らには彼らなりの純粋意識のレベルの世界がある、ということを付け加えておく)

                       

                      そして生物の設計が複雑に進化していればいるほどバウンダリーも複雑鮮明に、また肉体のサイズが大きければ大きいほど、バウンダリーも大きなものになる、という単純な仮定を持っていて良いだろう。

                       

                      だからベーシスにおいて肉体が死滅するとき、バウンダリーはそれ自体の構成要素である知覚信号を途絶され、消滅するに至る。全ての部品を取り外され破壊された一脚の椅子が、もはや椅子とは呼べなくなってしまうのと同じである。

                       

                      肉体の死は、バウンダリーという一つの精神宇宙の、消滅の現象なのだ。

                       

                      今こうして目の前にある、ひとつの宇宙が消えること。

                       

                      実存的な『死』の記述とは、そのようなものである。

                       

                       

                       

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