2019.03.26 Tuesday

超越と自己形

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    昨日の記事の補足です。

     

    私たちの”自己”というものは様々な形を取り得るもの。

     

    様々な形を取りうるのは、”自己”というものは誰にでも共通の絶対的な構造ではないからです。

     

    本質としては、あらゆる”自己”は私たちの言語的な認識作用が見せる幻想、存在しない空想上の観念なのです。

     

    (このことは宗教的な文脈では、シンプルに『”私”はない』などと表現される)

     

    そしてこの『”自己”は幻想である』ということへの気付きこそ、宗教的な精神修養における明確な目標、目指すべき到達地点、ある特別なゴールであると言えるでしょう。

     

    ではそうした状態に至った精神の場合、『自己形』はどんな形を取るでしょうか。図で表すとこのようになります。

     

     

     

    統合失調者においてそうであるように、中心的な線の周囲にいくつもの分離した部分が浮かびます。これは何かというと、実は”他者”の意識です。

     

    中心にある少し濃い色合いの精神が、一般に私たちが”これが自己である”と考えている部分。自意識から解放された人、自他境界を抜け出た人からすると、この部分は空間的に強調されている(偶然身近にある)意識なのであって、”私の”意識と言えるものではありません。

     

    空間的に離れている部分にも、同じように”私の”とは言えない意識が遍在していて、そのどれに”自己”が宿るわけでもなく、意識世界は自分/他人という分別無く全体としてただ”在る”という実感を生じます。

     

    ですから上の図は図全体が”意識世界”です。それは”誰の”意識ということはできません。またこの場合、”自己”はこの部分にある、と指し示すこともできません。

     

    想像しにくいかもしれませんが、重ねて言うように、『解放された人は自己を持たない』ということなのです。

     

     

     

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    2019.03.25 Monday

    精神疾患と『自己形』

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      以下は簡略化された着想のようなものなので、ご承知のほどを。

       

      仏教やヨーガの思想を学ぶ中で、私は、『自己からの解放』という現象が精神の健康や成長に深く関与しているという実感を持っています。

       

      『自己』とは私たちが生まれた頃から少しずつ心の中に形作っていく『砂の城』、”私”という限定された視点、主体の根拠です。

       

      誰もが同じように持っているはずの『自己』というコンセプトは、根本的に言えば社会的な幻想であり、実際は私たちの精神はもっと様々な精神形態を成し得るものです。

       

      そうした『自己』の本来的な様々な形を、今、便宜的に『自己形』と呼ぶことにしましょう。

       

      そして試みとして、様々な精神疾患の類型を通して、『自己形』がどれだけ豊かに存在し得るのかということを示していきたいと思います。

       

       

       

      始めに、定型発達の健常人。心理的な揺らぎはあっても、一貫して”自己”というコンセプトを中心に精神活動が行われる。

       

       

       

       

      次に、発達特性の歪みがある場合。一般に自閉傾向と呼ばれるもの。精神活動は場当たり的で、一貫性がなく、気まぐれ。自己は希薄であるか、場合によっては存在しないようにさえ見える。「大事なこともすぐに忘れる。」「頭ではわかるのに、やるべきときに実行できない。」

       

       

       

       

      統合失調傾向の場合。ストレスが高じた時など、場合により精神の一部が自己から離脱し、精神内界に自分以外の”異物”となって浮遊する。

       

      この異物的感覚はそれ自体、精神が分断されることによる不安や苦痛を伴うので、自然に増幅していき、脳の論理回路に苦痛の原因を探すよう強く働きかける。活動を強いられた論理回路は、幻視、幻聴などの仮解釈を通して、精神を意味ある回避的方向へ導こうとする。だからこの際生じる幻覚的解釈は、独特の奇妙な誘因力を持って本人の注意を引きつけたり、苦痛の原因を”ついに見つけた!”という微少なアハ体験などを伴う。

       

      自分の心の一部が自己の中から分離してしまうというのは、例えば「自分自身が感じている他者への羞恥心」が、あたかも「自分以外の誰かが脳の中に誹謗中傷の言葉を電波で流してくる」などと感じられるようなことである。

       

       

       

       

      解離性人格。特に、解離性同一性障害。過度な適応などによって、その場その場で自分の一貫性すら失ってしまう。患者にとって自己というのは、自分がそこに居る『場所』を意味している。『場所』が同一でありさえすれば、その場所の中では人格の一貫性は維持され得る。反対に、社会的な居場所や環境が変わることは、ただちに人格が変容してしまうことを意味するだろう。

       

      本人の思い込みや、ペルソナでしかないものへの”名付け”による積極的な人格特定によって、個々の細分化された人格の発達と個性化は促され、症状は深刻化していく。

       

       

      典型的なものをいくつか例示してみました。繰り返しになりますが、これはただ個人的な着想に過ぎないものですので、悪しからず参考までにご覧下さい。

       

       

       

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      2019.03.24 Sunday

      プロトコル42

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        世界を進化させるための1ステップは、実に簡単なことだと常々思う。

         

        ただ単に人間達が、『自分の頭の中の”現実認識”は現実そのものではない』ということを理解するだけで良い。

         

        しかし私が試みた限りでは、この観念は現代の人間社会には獲得できないようだ。

         

        こうした単純な事実がわからないというのは不思議なことだが、もしかしたら、種の多様化や軍拡競争における都合上、現生人類の精神能力には何かしらリミッターのようなものが働いているのかもしれない。

         

        だとしたらそれは、文化の発達レベルがある特異点を超える時に入るスイッチのようなものを備えていて、ちょうど飢えたイナゴが一斉に相変異を起こすように、時が来れば人類も足並みを合わせて進化していくのだろう。

         

        私は先に進んだ。才能があったわけでも努力したわけでもない。ただ単に有機的な環境調整の結果として、間引きされる枝のように、選別されそこへ追いやられただけだということが今はわかる。

         

        今日、散歩途中に、まだつぼみも付けないチューリップが並ぶ花壇の中、一輪だけ大きく背伸びした早咲きのものがあるのを見た。

         

        時節を間違えるのは愚か者のすることだ。だがそれも天の定めによる。自分で選ぶものではない。

         

         

         

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        2019.03.23 Saturday

        知性を鍛えること

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          思考法のことなど。

           

          知性というものは、大まかに分けて二つあると思うのです。

           

          量的な知性と、質的な知性。

           

          量的な知性というのは、経験の豊かさや肉体感覚の鋭さに由来するもの。全体を俯瞰し、物事の中に関連を見出すような性質のもの。

           

          質的な知性というのは、思考する、という機能それ自体の技術的な洗練、集中、巧妙さのこと。

           

          肉体のトレーニングに例えてみると、量的知性は筋出力、質的知性は筋持久力にあたります。

           

          経験を豊かにする、という量的な問題については、多様な時と場所、そして人に出会って世界を見るということが単純な訓練になります。

           

          では質的な知性はどうか。世にあふれている様々な思考ツールを使ってみる、というのも一つの手ですが、より本質的で大事な訓練があります。

           

          それは、考え続けること。

           

          一般に私たち人間は、人生の中であまり多くの時間を『考える』ということには費やしません。それよりも素早く決断したり、行動したりすることを好むものです。

           

          例えば私たちがフルマラソンのトレーニングをしようと思ったときに、先ず真っ先に何をすべきでしょう。正しいランニング・フォームを勉強して、負担の少ない走り方を覚えることでしょうか。

           

          きっとそうではないと思います。マラソンのトレーニングをしようと思ったら、先ず何を置いても、走ってみることです。それも相当な距離を走り込んでみることではないでしょうか。

           

          思考も同じことで、いくら様々な思考法を身に付けてみたところで、『考える』というクセを持っていない人はそれを使う機会がないのだから、当然思考力が育つはずがありません。

           

          何でも良いのですが、社会の中の複雑な問題や、自分がしている仕事の本質的使命は何なのかなど、複雑な問題を考えて、考え続けてみるクセを持つことが必要だと思います。

           

          頭の中で、あるテーマに沿って、とにかく文字やイメージを線的に継続していくことです。

           

          そういう基礎鍛錬がなければ、思考法もまた無意味だと思います。

           

           

           

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          2019.03.11 Monday

          異常回復

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            精神疾患からの回復の一パターンとして、ユングは「個性化」という概念を提示している。

             

            彼は最初の内、患者が医者の予想を超えたやり方で環境に適応していく様子を見て、その現象に「過大成長」という名前を付けた。

             

            つまりそれは単に精神状態の回復の余波、反動のようなものなのだと彼には思われたのだ。

             

            しかし後になって彼はこの考えを取り消し、患者が「意識の新しい水準」へ進むことで、問題のより根本的な克服を実現したのだということを了承するに至った。

             

            人間の精神は、我々が考えるよりも遥かに高い柔軟さと、隠された無数の能力を内に秘めている。

             

            個性化によってその能力のいくつかが独特の形で組み合わさり、発揮されて、その人の精神を新しい段階へと導いていく。

             

            個性を完成すること。その意識の水準。

             

            個性とは、自らの心の内からひとりでに湧き出てくるもの、ではない。

             

            それは、与えられた素材を通して形作られるものだ。完成された個性は、その人の来歴や生育環境、人生経験、過去の人間関係などを色濃く内包する。内包すると言うよりも、それら経験によって、個性は作られている。

             

            だから、人は過去を捨て去る努力をするよりも、過去を受け入れ、その祝福と呪いの延長線上に、自らの存在を”改めて”(与えられた因習によってではなく、自らの思う新たな形で)表現しなければならない。

             

            こうした『超越と回復』にまつわる考え方を、私は思想上に根深く受け継いでいる。

             

            幾人かの人々、縁あって出会うことのできたいくらかの人々が、私の前で確かに、そうした個性化の偉大な経過を示してくれた。

             

            想像を超える能力の開花、予想だにしなかった環境への適応。そういうものを目の当たりにして、その人々が新たな水準の意識存在として進んでいく背中を眺めること・・・そのこと以上に、この世界に生きたことを楽しいと思える瞬間はない。

             

            根本の所を言えば、個性化とか、現象の名前などどうでも良いのだ。私は、人間の精神の中に隠された偉大な力の輝きを見ていたい。人という生き物の可能性を信じて、そこに希望を抱いて死んでいくことさえできれば、自分は満足だ。

             

            人間は強く、美しい生き物だ。それは身体だけではなく、その内に宿っている何ものかについても、同じように。私にとって人生とは、そんな人々に出会い、その人々の側で生きるための、物語なのだ。

             

             

             

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            2019.03.10 Sunday

            劣等感

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              自己不全感は、一般に、男性においては闘争本能として、女性においては自己嫌悪として現れます。

               

              ”劣等感”というものを『社会相対的な自己不全感』だと考えてみるならば、男性の劣等感は誰かに負けていることを、女性の劣等感は誰かより醜いとか浅ましいことを、それぞれ意味するでしょう。

               

              さてしかし、性を問わず、智慧を完成した人、個性化された人、意味を超越した人、禅の定まった人、欲求の第六段階に至った人、信仰の中に身を投げた人、この人々は劣等感を感じることがありません。

               

              何故なら彼らは、論理的判断を超越した段階で、人間という典型の中の存在であるよりもむしろ一人ひとりが一つの新たな門を開いた個別の生物種になるのであって、そのような意味で自分と他の何かを比較することもできないし、それ故に自分を相対的な価値で推し量ることもやめてしまうからです。

               

              自己超越した人間は、その瞬間から常に完全な存在として自己を表現していきます。これが不全感を抱かない理由です。

               

              自己超越した人間は、他人というものを基準に自分を考えることがありません。これが劣等感を抱かない理由です。

               

              このように、彼らは二重の意味で、劣等感を感じることがないのです。

               

               

               

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              2019.02.15 Friday

              不誠実な優しさ

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                今日は縁あって、他の方に「らくだと馬」のたとえ話をしました。

                 

                昔から良くする話で、私の”刮目”の思想とも相通じて影響を受けているところがあります。

                 

                この話は、ベストセラーになったパウロ・コエーリョの小説『アルケミスト』の一節から。

                 

                 

                明日、おまえのらくだを売って、馬を買いなさい。らくだは裏切る動物だ。彼らは何千歩も歩いても疲れを見せない。そして突然ひざまずくと、死んでしまう。しかし、馬は少しずつ疲れていく。だからおまえはいつも、どれだけ歩かせてよいか、いつ馬が死ぬ時かわかるのだ。

                 

                 

                中々感慨深いお話し。死ぬまで素直に従ってくれるらくだより、疲れたら勝手に休みはじめる不誠実な馬の方が、実はありがたいパートナーだということ。

                 

                砂漠の真ん中で足が折れてしまったらくだは、乗っている人をその場に突然置き去りにする。それは残酷で、悲しいことです。

                 

                人生経験のある地点で、私は似たようなことを人をから教わりました。暗闇の中でさ迷う人を助けられるのは、暗闇の外に居る人だけだと。

                 

                また、ある精神疾患者についての話として、彼はどうしても時間の約束を守れず色々な人に迷惑を掛けてしまう。それを知ったカウンセラーは、患者がカウンセリングの時間に遅れてきたときに必死に乞われても頑として譲らず、その日のカウンセリングを受けさせなかった。

                 

                結局後になってその患者は、カウンセラーに感謝してこう言う。『私の周囲の時計はみな狂ってしまって私を混乱させた。ただあなた一人だけが、私にとって正確な時計だった。』(この話は確かH・スィーガル『メラニー・クライン入門』の中にあったと思う。)

                 

                人生のかなり早い段階で、私は、人を救いたければ残酷さが必要なのだということを悟ったのでした。

                 

                目の前で人が血を吐いていても、その人の片腕が取れていても、1ミリも眉を動かさずに見ていられる冷酷さ。例え心にナイフを突き立てられても、気にせずあくびをしていられる無関心さ。

                 

                そんな残酷さを自分に望んで、そんな風に無関心な人間になったことが果たして良かったかどうか。

                 

                それはもう、一長一短としか言いようがないのですが。少なくとも己の宿命ではあったのでしょう。

                 

                優しさなどというのは、まったく掴みどころのないものです。

                 

                 

                 

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                2019.02.14 Thursday

                Black as White

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                  心理学に、観念の『徹底操作』という言葉がありますが、あれ、どこまでやったら『徹底』なのでしょうね。何か基準のようなものがあるのでしょうか。ありそうな気もするのですが、浅学な私にはとんとわかりません。

                   

                  さて人の心を徹底操作する、などと言うと、何だか乱暴に押さえ付けるような印象がありますね。北風と太陽の昔話で考えたら、それは北風のやり方であって上手くはいかないという結論になるでしょう。(ちなみにあのお話しには本当は前段落があって、良く知られた二回目の勝負では太陽が勝つけれど、実は一回目の勝負ですでに北風は太陽に勝っているらしい。お話しが述べたい教訓は”適材適所”であって”相手を喜ばせることが大事”ではないのだという)

                   

                  しかし私は個人的には、北風のやり方が好きな人間です。頑固というか、ゴリ押しというか、そういう性分です。

                   

                  心理ということに対しても同様で、私の心理学における信念は『理解して制御する』こと。

                   

                  (私が)理解して(私が)制御する。

                   

                  そこには結局を言えば、自分の考えで、自分さえ良ければという基準で、自分自身の手で他人を変えてやるのだという強情な思惑が巣くっています。

                   

                  この強情さというものを個性の中に強力に抱き込んで、理解して、制御するのだ、という考えで私は生きてきたわけですが、不思議なことにこうも年を取るとその性根の悪さ、負けん気から出る意固地さが、別のものにも成長するみたいです。

                   

                  私は負けるのは嫌なのです。被害者になるより加害者でありたいのです。

                   

                  だから必死に、理解しようとするのです。わからぬままでは終わらせないぞ、絶対にこの手で現状を変えてやるぞ、と。

                   

                  それで何度も何度も仮説を立て、これも違うあれも違うというように理論を上書きし続け、人の心や世の中の実相に食らいついて放さず、必ず理解して、最後には私が制御するのだ、と執念を燃やし続けている内に・・・

                   

                  何のことはない、ただただ単純に、私は世の中の色々なものをあんまり積極的に眺めた結果として、ごくごく物わかりの良い、現実をわきまえた丸っこい性格の人間に落ち着いてしまったのです。

                   

                  いやはや、人間一人など変えるのは容易ではない。何なら自分さえ難しい。他人の生き方には自分の人生と同程度の重みがあって、見れば見るほど飽きもせぬ極彩色の現実味を備えている。地面から出た小石の頭が、掘ってみたらショベルカーでも動かせないような大岩だったと。日々そんなことばかりを思うのです。

                   

                  人は社会の繋がりの中から生まれる。個人を変えるということは、ともすればそこに繋がる社会全体を変えるということにもなりかねません。

                   

                  理解して制御する。そのシンプルな性悪の行き着く先が、もっともっと世の中を広く知って、もっともっと一つ一つを慎重に大切に扱わねばならないのだという丁寧さと寛容さの境地、なんてものだとしたら、ひとつ落語の一席でもやれそうなほど、滑稽な物語ではないでしょうか。

                   

                   

                   

                   

                  黒か白か。良くこのことを思うのだけれど、強い日の光の下では純粋な黒と白とは見分けがつかない。人間の心も同じように、邪悪さも突きつめれば最後には透明になる。完全な能動は完全な受容に等しい。

                   

                   

                   

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                  2019.02.05 Tuesday

                  簡単な話

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                    昨日の記事で、『洗脳』という言葉を使いました。

                     

                    実際、私は良く他人を洗脳します。相変わらずこういうきな臭い物言いが好きな私です。

                     

                    言葉だけ聞くと、洗脳なんて本当に悪いことのように感じますよね。でも実はそうじゃない。

                     

                    自分の意見を他人に刷り込んだり、知識を教え込もうとしたりすること。これって実は、世の中の大半の人がやっているし、やられた経験がある。

                     

                    洗脳って、ちょっとマイルドな言い方をすれば『教育』です。教育は洗脳です。余所の国と自分の国とをちょっと客観的に比べればわかりますが、どの国でも自分の国の子供達には、真っ先に自分の国だけの偏狭な考え方を刷り込み教育しているものですよね。

                     

                    でもそれは、悪いことでしょうか。私はそうは思わないです。何故ならそれは、子供達の幸せを願って、そうされていることだから。

                     

                    洗脳だって良いじゃないですか。相手を本当に幸せにできるなら、洗脳だって暴力だって何だっていい。そこに深い愛情があって、とにかく純粋に相手の幸せを願ってそうすることなら、間違っていないと思います。

                     

                    愛情があるかどうか・・・。私は、これがこの世界の根本原理だと思っています。

                     

                    愛というのは、この世界を創造し続けているシステムです。それほど大きなエネルギーなのです。

                     

                    その愛というものに同調するか、反発するか。愛するか、憎むか。これだけ。道徳の根本原則というのは、実はこんなにシンプルなのです。

                     

                    愛から出たことは、間違っていない。それは必ず未来に繋がっている。

                     

                    憎しみから出たことは、絶対に上手くいかない。必ず滅亡へと突き進んでいく。

                     

                    愛か、憎しみか。それだけです。

                     

                    でも中々、純粋な愛というのも難しいものですね。それは阿弥陀仏的な慈悲心であって、温かくはあるけれど血まみれで、何でもできる賢さというよりは救えないと分かっていながら人を見捨てられない愚かさに近いものです。それは実にもどかしい情熱でもあると思います。

                     

                    親が子を思うとき、例えば体罰として頬を張るとき、その手に込められた想いはどれだけ純粋な愛情なのでしょうか。

                     

                    或いは、自分や世の中に対する不満かもしれない。自分自身が自分の親にされたことへの復讐や、コンプレックスを正当化するための弱い者いじめの気持ちがあるのかもしれない。

                     

                    どれだけ純粋な愛情がそこにあるでしょうか。どれだけ純粋な愛情を、私たちは自分や他人、この世界全体に注げるのでしょうか。

                     

                    愛は、言葉ほど簡単ではない。愛は、血を流す。それは十字架の上に捧げられている。その十字架の上から見下ろしたなら、私たち人間はどんな風に見えるのだろう。

                     

                    十字架の上から見つめる瞳と、その瞳に映る自分自身を思うとき、私たちはそこに何か、確かに仏性の我が身間近に臨在する感覚を得る。

                     

                    愛か。憎しみか。私たちは、日々自らを試している。

                     

                     

                     

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                    2019.02.04 Monday

                    出版のご案内 『和法』

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                      先般(というか昨日)、また一冊amazonへ電子書籍を登録いたしました。

                       

                      ↓こちらです。

                       

                      『和法』

                       

                      かわいらしいカタツムリですね。それはさておき、内容としては対人関係に関する本になっています。

                       

                      簡単に言えば、人と人とが仲良くなるための方法、ということですが浮ついた「優しくしよう」とかそんな類いのものではありません。仏教とヨーガを下敷きにした独特の方法論を展開したもので、どちらかというと、うーん、洗脳とか。そういうものに近い内容かもしれませんね。

                       

                      実はこれ、ちょっと前にネット上で公開していたepubファイルをそのままamazonに登録してみたのです。以前すでにどこかでお目に掛かったという方が・・・もしかしたら。いるかもしれませんね(多分居ないでしょう、余程マイナーでしたので。ですが、あれこれは読んだかも?と思った方がもしもいらっしゃったとしたら。それです、改めて買う必要はありません)。

                       

                      お値段は、今回は500円にしてみました(前回出したやつが、値段が高いせいかあまりにも売れなかった・・・なので今回は無難に。ついでに前のヤツも値段を大幅に下げてみましたので、良かったらご一読ください)。

                       

                      月並みなコミュニケーションの改善の本に飽き飽き、という方がおられたら、是非読んでいただいて、楽しんでいただけると自負する一冊です。どうぞよろしくお願いいたします。

                       

                       

                       

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