2020.11.22 Sunday

to the very end of the age

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    文明の発達に伴って、宗教というものの位置付けが変わっていくこと。

     

    宗教が発生する根本である、”実存に対する驚き”というものは、21世紀の現代でも未だ人間から失われていない(それはセンスオブワンダーとか、摩訶不思議とか、ヌミノース体験とか、ハードプロブレムとか、色々な言葉で呼ぶことができる)。

     

    これらを上手く説明して、私たちを納得、安心させてくれるような何かを”真理”と呼ぶのだとしよう。

     

    真理というのは、これまでの人類の歴史の中では、特定の組織や集団を通して得るものだった(〜教とかそういうところへ行って、教えてもらうもの)。

     

    けれど文明の発達に伴って、事情は変わっていく。

     

    主な理由の一つは、人権意識の高まり。私たちは国家とか会社とか、ある「集団」の構成員として一生を生きることから離れ、より多様な個人の人生を生きるようになった。組織宗教の中で真理を学ぶというのは、その組織にとても深いレベルで帰属して、奉仕し、その組織と一体になるということをも意味するのだけれど、そういう考え方を私達はもう受け入れられなくなってきた。

     

    もう一つの理由は、情報通信の発達。今よりもっと昔は、情報というのは物理的に制約されているものだった。本は重くて貴重だから、調べ物は図書室に行ってしなければいけない。知識は学校の教授から直接会って教わる必要があった。宗教的な真理、奥義、ドグマのようなものはそれこそ門外不出で、だからこそ人が真理を学びたければ宗教集団に入門しなければならなかった。

     

    現代では違う。情報は羽根のように軽くなった。インターネットの匿名性は、昔なら隠されていたような情報もあっという間に暴露してしまう。玉石混淆の”真理”らしき説明を、あらゆる所で見つけることができる。

     

    そういうわけで現代、宗教は組織や集団の中からだんだんと離れてきた。

     

    これから先の時代も、多分そういう流れは加速していくだろう。

     

    宗教は個人化され、「集団の中で教わる」ものから「自分で探求する」ものに変容していく。教祖とか宗教集団といった装置は、徐々に立ち位置を狭めていくことになる(変わりにアイドルとかカリスマとか、憧れの対象みたいな感じの人が持ち上げられていくのか?)。

     

    宗教界にもそういう変化の潮流がある。

     

    面白いのは、カルト宗教の層だ。彼らも個人化される。インターネット上の曖昧な神秘クラスターがそれを吸収して、モヤモヤとした何か宗教らしいような、一見現実めいた不思議な情報の森を作り出すだろう。

     

    人と人との緩やかで秘密めいた繋がり。「同士」とか「隊員」、「姉妹」などといったはっきりしない序列。こっそりと語られる出所不明の陰謀論。仲間内だけの合図。散漫な「お茶会」や「集団瞑想」。これら新しくしつらえ直された、当世風の美しい精神上のたしなみ。

     

    その中では相変わらず、カルト宗教の最も悪い側面である終末論などが思い出したように鎌首をもたげ、物憂げにあくびをするみたいに、小さな飛沫的なグループを異常状態に陥らせる。その気まぐれさと、底の抜けたのどかさ。

     

    宗教は失われない。実存の脅威が解体されるまで――それはつまり、この世界が最終的に崩壊に至るまでは。

     

    だが形を変えることはある。遥か昔、数千年も前の、我が祖国の姿を想う。深い山の奥、焚かれた火の周りで、巫女の語る言葉と祭祀の食べ物。神は身近で、私達は小さく、世界は恐ろしかった。宗教は人生の全てだった。いや宗教は、一人ひとりの人生よりも遥かに大きく、重要な何かだった。

     

    今だって、窓を開ければ同じ空が見える。その頃と大体同じ空だ、多分。だが何かが決定的に違う。神について想うが、想うだけ無駄だという、その退屈さだけが確信になる。形をかえていくものは、あるのだ。

     

     

     

     

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

    2020.11.07 Saturday

    分断と対立のこと

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      世界では、アメリカの大統領選挙が大詰めである。この記事の投稿時点では決着が付いておらず、泥沼化の様相を呈しているようだ。

       

      こうしたイベントや限界の状況を通して、社会の問題は顕著に浮かびあがってくる。

       

      対立と分断について。

       

      私はこれまで、21世紀のちょうど始まり頃から目に見えて激化してきた世界の分裂を、「集団主義と個人主義」の枠組みの中から見ていた。継続する観察の中で、付随するこういう見方も生じてきた。

       

      それは、この対立が「団結主義と理知主義」の対立であり、同時に社会的な「本能と理性」の対立であるという観点だ。

       

      集団の団結に依拠する人は、個としては弱いものである。集団が自分の弱さやずるさ、ささやかな悪などを上手く内包し、許してくれることを期待する。このポジションに適合する人はより本能に忠実で、素朴、調和的であり支配−従属という関係に良くなじむ。集団への帰属意識と貢献度合いの程度は、自らの現在そして将来の立ち位置に影響しそれを左右する。集団を構成する人員一人ひとりのポテンシャルが低くとも、集団全体としては極めて大きな力を持つので、その弱さは内包して余り有る。

       

      個人の理知や技術に依拠する人は、個として強い力を持つ。集団の中にあっては、帰属意識が低く、迎合せず、勝手な行動を取り輪を乱すため相互支援的な力の増大に欠ける。公明正大な見解を持ち出しては自分の帰属する集団それ自体を破壊し変容させようと試みるが、その不調和な熱意は時に、腐敗し停滞していく集団の病理に対する優れた自浄作用である。労力の多くは組織の成長よりもむしろ個人的な自己研鑽の為につぎ込まれ、強い自律意識と倫理感を自ずから発揮する。

       

       

       

      これら2つのタイプの人々がなぜ分断されたのかという考察。

       

      主には情報通信の発達と、それに伴い人間個々の生き方がより個人的な、多様性のあるものに変わってきたということに原因があるだろう。

       

      数十年前は許された態度、思想、言説があっという間に駆逐され、新たなポリティカルコレクトネスに埋め尽くされたのは単純に、そうしたささやかな、昔は許されていた悪がSNSなどを通して公になる機会が増えたからだろう。

       

      以前なら「取るに足りない存在」だった、例えば一中小企業の「しがないサラリーマン」が理不尽な職場環境を糾弾するような声でさえ、こうしたネットメディアを通して、今では大きな影響力を持つようになった。

       

      ただのサラリーマンが、労働組合を通して企業と闘争するならまだしも、個人として何かを述べそれが影響力を持つ。現代の私達はここに何の理不尽も感じないが、それは社会の中で「個人」が尊重されるようになってきた結果であって、それ以前の社会ならばあり得ないこと、だったのではないか。

       

      ネットメディアは、集団の中の悪、隠されていた理不尽、不都合な真実を曝いた。それによって諸々の集団は、自分たちが思ったより綺麗でもないし真っ当でもないということに気付いてしまった。

       

      ここまでは良いとして、ここからが問題であった。

       

      知恵の実を食べ、唐突に、自分が裸である、と気付いてしまったこの「現代社会」には、まだそうした大人びた現実を受け入れるだけの心づもりが無かった。

       

      一方では必死に自分の獣らしい粗野な有り様を忌避し、極端に理想主義的に潔癖症になり、挙げ句に自分の住む家や村まで焼き捨て焼き払おうというような凶行を生み出し、

       

      また他方では、自分が裸で居たことは間違いではない、裸で居たって良いのではないか、という苦しい開き直りの中で、その為の最もらしい理由を探し始め、その努力は右傾化、仮想的の強化、集団主義、権威主義などの様々な虚妄となって結実した。

       

      急激に思春期を迎えた人間の文明社会は、このようにして神経症的な麻痺と混乱の中に座礁したのである。

       

       

       

      こうした奇妙に停滞した状況の中で、私達、そして次の世代の人々がどうあるべきか。

       

      当然、この2つのどちらかだけを選ぼうとする選択は社会の分断をより強化し破滅をもたらすだろう。

       

      そうではなくて、この2つのタイプ双方の長所を共に併せ持った、より優れたシステムが希求されるだろう。

       

      それは端的に言えば、「強い個の団結した姿」である。我々が集団の団結を取り戻し、さらにその過程で個の力が上手く集団の中に再配置され、より柔軟で壊れにくい強靱さの性質が獲得され得るような。

       

      それを実現する為に我々がすべきことは、人々の新たな「繋がり」をデザインし直すことである。これまでとは違う、何かの繋がりだ。それは多分、「実生活的な利害の共有」と「大きな自己成長」を伴う、必然性のある「非集団の団結」のようなものになるのではないだろうか。

       

      その具体的な形を描く作業は、まだまだこれからのことだ。しかし少なくとも、分断と対立との果てに何が待つのかということの答えを、私達はすでにわかり初めており、手をこまねいてそれを待つ訳にはいかないのである。

       

       

      追記:

      「綺麗な水には魚は住まない」と、顔にそう書いてあるのかと言うくらい、幾度も私は聞かされ、指摘を受けてきた。確かに潔癖であろうとすればするほど、他者の至らぬ点、不完全な点を受け入れることはできず、団結や協調などという言葉は遠いものになってしまうのだろう。

       

      だがそれとて、相互監視の時代への適応という意味では、あながち間違いだけと言うことはできまい。重要なのは、個々がそうした理想への執着を涵養しながらも、緩やかにこの「不完全な集団」の中に加わり、繋がれていくことである。

       

      時代は前へ進む。社会や人間も進化する。単純な後戻りをする道など、やはり用意されてはいないのだ、と思う。

       

       

       

      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

      2020.09.05 Saturday

      使い捨てのヒーロー

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        どうやらこの社会はいまだ、新しい時代へ舵を切らないらしい。

         

        より力のある人と結託する、という単純な集団主義の力学と、明るい展望だけをひたすら視界に収めようとする割り切った態度が世を覆っている。

         

        それはそれで良い。その上で、私のような社会思想的な宗教者が考えるのは、この日本の適応スタイルの負の側面をどう吸収していくかということである。

         

        簡単に言えば、前述のような適応態度は革新や改善のない低成長の世界を招く。更に悲劇的なのは、こうした社会では優秀な人間が真っ先に排除されていくということである。

         

        人に優しく、自分で考える力を持ち、賢くて逞しい人間。大抵の親が子に望むそうした性質の全てが毒になる。賢い子供は社会の不条理に気付いてしまう。弱者を助けようとし、自分の心技体に自信を持ち、声を上げていつも何かを良い方向へ変えようと努力する。

         

        そういう者を社会は求めない。むしろ多少愚鈍でも従順で意志が弱く、それでいて我慢強い子供が良い。こういう人々は今の社会にすんなりと適応できるだろう。

         

        問題は社会不適合者――比較的高い資質を持って生まれてきた人間に、破綻せず生きるための道を与えることである。

         

        資質の高い人間は自己実現に問題を抱えやすい。社会の隅に追い詰められた彼らが、自分の中の誇大妄想と結びつけてどのような凶行に及び得るかということは想像に難くない。

         

        奪われた「無敵の人」は、確信犯的な私刑を遂行する「ヒーロー」に変わる。彼らは匿名のコメントの世界で大いに賞賛を得るだろう。それは、自分の手だけは決して汚さないくせに、心の奥底ではいつも世の中に不満を抱えて自分以外の”誰か”がそれを裁いてくれれば良いと考えている、醜い私達の心の要求にいかにも呼応する娯楽だからである。

         

        人の心に蓋はできず、抑圧すれば必ず怪物が生まれる。彼らは犯罪を犯してヒーローになる。一回きりの正義。使い捨ての英雄。顔も見えない暗闇の中で誰かがこっそりと拍手をする。身元不明の万歳の合唱。

         

         

         

        しかし、全く別の道を示すことができるはずだ。より実存的な領域、より創造的な領域でこそ、彼らは自分がこの世界に生まれてきたことの真の意味を知ることができる。この宇宙で、孤独と不条理にまみれて生きている私達一人ひとりの現実。その現実を直視できるような存在の居場所と模索の装置を、私達は持っていなければならない。

         

        使い捨てのヒーローなんてつまらない。じりじりと僅かずつしか進めなくとも、地に足を付けて現実を開拓する方が面白い。高い資質に揺るぎない強靱な倫理を併せ持てば、どれほどの奇跡を私達は成し得るだろう。

         

        私はもう一度見る。この眼で。次の時代に、月の光の中で燦然と輝くあの宝石の谷を。

         

         

         

         

         

         

        JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

        2020.08.26 Wednesday

        手紙

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          Eli、私は本心では理解している。短い人生だけれど、様々な場所で生活をして、沢山のものを見た。

           

          悪い人なんて居なかったよ。ただの一人も。ただ誰も彼もが、少しずつ病的で、少しずつ歪んでいて、そして大抵呆れるほど愚かだった。

           

          でも悪い人なんて居なかった。

           

          君は権力者が腐敗すると言った。それはそうだ。それは遥か昔から言われている。

           

          『富者が天の国に入るのは、針穴にロープを通すより難しい。』

           

          恵まれた環境で生まれ育った人は、本当の意味で智慧を得るということはない。それは大変に残念なことだ。ルドルフ・シュタイナーは、地獄の業火が人間の罪を浄化するのだと言った。有り難いことではあるけれど、それでは私達人間一人ひとりが、果たしてその業火の中に進んで足を踏み入れるだろうか、ということを考えてみれば良い。

           

          ほら、ヤスパースもフランクルも言っているだろう。人間が自分で選択して選び取れるような困難は、本当の困難ではないし、本当の限界状況ではない。本当の困難は、強いられ縛り付けられ逃がしてもらえないものだ。そういう苦難だけが魂を変容させる。

           

          だから、それを強いられない環境というのは難しいものだ。逃げ道があれば人は楽な方へ行こうとする。明るい方へ。楽しい方へ。自然なことじゃないか。叶うものなら、この世の悪い部分なんて見たくない。誰だってそうだ。私達だって、立場が違えばそうだっただろう。それを悪とは言えないよ。

           

          そこに、権力の問題が加わる。

           

          従順な人たち、素直な人たち。一歩間違えば、この人々もなんという毒になり得るだろう。無知な指導者が無知な指示を出して、従順な人たちは違和感を覚えつつもそれに従ってしまう。

           

          権力というのは集約されていくものだ。一度その恩恵に預かったら、中々抜け出すのは難しい。皆、自分や家族の生活がかかっているからね。人は魂を欠いてまで飽きもせず労苦する。借金で自分の身の回りに囲いを立ててしまったりすると、もうそこから抜け出す道はない。どんな間違った指示も聞かずにはいられない。むしろ、間違っていないと自分に言い聞かせることの方が忙しい。間違っているぞと、こちらの安定した生活を脅かすようなことを言い出す連中を叩き回ることの方が、ずっと忙しい。

           

          シモーヌ・ヴェイユが言うように、指示命令には大きな力がある。「上のもの」から言われると、人間は本当に弱い。そうした人間の心の機微を読み取れない指導者は、知らず知らず、自分が思っている以上に大変な力を振るって狂気を招いてしまうものだ。

           

          でも、彼らも大変だと思うよ。何かの拍子で不意に世間の不満に晒されたりすると、突然、見たことも聞いたこともないような自分の罪や醜聞がこれでもかというほどあげつらわれて、「違う、こんなの間違いだ!私ははめられたんだ!」と叫びたくなる気持ちも分かる。慎重な人なら言われる前に解りそうなものだけれど、生憎、富める者の足かせという奴が邪魔をするのだろう。

           

          そんな風に、人間の自浄作用というものには限界がある。誰かが特別悪いわけじゃない。それは自然で、避けがたい。必然で、残酷だ。

           

          だから社会構造というのは、時折リセットされなければならない。それを引き延ばすことも出来るけれど、結局は問題がより増大して、破綻する時のショックが大きくなってしまう。どの道最後はそうなる。それである程度ガス抜きされると、また人間の自浄作用だけでしばらくは何とかなる。

           

          とても不都合なことだな。破綻する時には、社会の中で一番弱い人たちが、真っ先に犠牲になるのだから。そしてそれを回避する方法は無いよ。

           

          回避する方法は無い。Eli、何故だと思う? それは、人間が賢くなれないからだ。賢さは理知だけでは成り立たない。智慧は愛によって支えられる。そして愛は、決して、社会全体に行き渡ることが無いからだ。

           

          とても悲しい話をしよう。愛情の本質とは何なのか。それは絶望だよ。

           

          この世界に絶望して、その絶望の中で窒息して、黒いドロドロが身体を満たして、それがなおも湧き続けて、この身一つに収まらずに、遂には自分の外の人間にまで影響を及ぼすようになる。

           

          イエス・キリストの受難も、マザー・テレサの奉仕も、全て絶望の底から湧き上がった抑えようのない衝動だ。

           

          そういう他者にまで及ぶ深い深いこの世界への絶望だけが、愛情の本当の色調を示す。それは絶望で、祈りで、救いを求める声で、救わずにはいられない狂気だ。それは論理的解釈を超えている。それは意味の地平線を押し開く。その深い絶望を私達は愛と呼ぶ。

           

          もしも人間の全てがこの愛を持てたならば、世界は救われるだろう。けれど良く考えてみてほしい。苦しんでいる人が救われたなら、巡り合うはずの苦難を誰かが事前に押しとどめてくれたとしたら、その時はもうそれ以上、絶望は生まれないんじゃないか?

           

          そうだ。救済された人は絶望に出会わない。絶望がないとしたら、愛ももう生まれてこない。だからそこから、世界はもう一度破綻していくだろう。

           

          愛は行き渡らない。それは満たされることがない。愛は常に、社会のごく一部に存在するだけ。だから人間は、永遠に、救われることはない。

           

          だからどうしろってことを、私は今、君に言えないな。「こうするんだ」っていう答えや道筋が大事なわけでも、ないだろうから。

           

          Eli、私には、君の苦しみがわかって恐ろしい。この真実、この絶望、君が歩いてきた道。大きな絶望があったから君はここに居て、それなのに尚こうして私達は、お互いの心を傷付けるような真実を、もっと強く胸に抱こうとする。

           

          Eli、何ができるだろう。せめて君のために。

           

          無理をしないようにね。あまり自分を、傷付けてはいけないよ。

           

           

           

           

           

           

          JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

          2020.08.25 Tuesday

          上品な処世術

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            生真面目な奴は本当にダメだな、と思う。

             

            昔、介護施設の職員をしている人間が施設を利用する高齢者のことを「あんな奴ら、部屋の中に閉じ込められてわーわー喚いてるだけ」と言っていた。

             

            私は(こいつ、馬鹿だけど良い奴だな)と思った。

             

            彼の嘲笑の顔の中に僅かな怒りが見えたからだ。

             

            生真面目な奴は良くない。時々そういう、真心がありすぎるせいで、自分のやってることを自分で汚さずにはいられない人間がいるのだ。

             

            彼は多分、自分が仕事としてやっているそのサービスのあり方とか高齢利用者の扱い方に、深く傷付いていたのだろう。ただの冷血な馬鹿なら「それが普通だから」と考える。賢い人間ならやっぱり「これが普通ですよ」と言うだろう。普通じゃないと解っていながら。

             

            馬鹿な良い奴は、自分自身の優しさと無責任な冷たい指示の間で板挟みになって、結局自分がやっていることに納得できないから、わざと自分を汚して、悪者にして、それで自分自身の真心を守るのだ。

             

            悪人が他者を馬鹿にしながらサービスをしているなら、劣悪な状況もさもありなんで傷付かない。でも必死に一生懸命やっているはずなのに、その結果が劣悪な状況だったら、底無し沼に沈められるような無力感を感じるだろう。彼はその無力感から身を守りたくて、悪人顔をして笑ったのだ。

             

            そういう奴らは、何かにつけて”自分の手で”決着を付けようとする。子供と無理心中する親とかもそうだ。愛しているからこそ、放棄できない。

             

            悪なんて他人に任せておけば良い。悪いのはそいつらだ。社会が悪いのだ。誰か他の責任者に責任を取らせろ。不具合が起きても自業自得だ。そうやって自分の手だけは汚さずに、自分の悪だけは上手いこと他人に転嫁してしまえる人間が、この世の中では成功者と言われるんじゃないか。

             

            思い違いだよ。「彼らは社会から必要とされていないのだと思った」なんて。自分の手で決着を付けようとするから、周囲の人間の無知や冷たさや無責任さや、そういう悪意まで自分事にするから、一人で悪魔みたいに笑うはめになる。そんなの空回りだ。社会がそう思うなら、無責任な奴らが好き勝手言うのなら、そいつらにずっとそう言わせておけ。肩代わりして自分の手を汚す必要なんてない。

             

            私は社会の様々な領域を見てきた。腐った人間がたくさん居た。

             

            そいつらは大抵、自分では手を汚さなかった。

             

             

             

             

             

             

            JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

            2020.08.24 Monday

            根源的暴力

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              革命について話したいわけではない。何をせよとか、こうすべきである、ということを語りたいのではない。

               

              私が言っているのは、錯誤と、間違った対応と、その修正の話だ。

               

              私は未来について言いたい。子供達に何を教えれば良いのか、目上のものに媚びへつらう方法を教えれば良いのか、中身の無い学問と、ブランドだけの学歴のために勉学に励めと教えるのか。

               

              権力者はなぜ腐敗するのか、貧民はなぜ凶行に走るのか。人間に救いはあるか。世界はまた良くなることがあるのだろうか。

               

              それとも、このままただ腐り落ちていくだけか。一部の極端に歪んだパーソナリティの人間だけが、そこでのうのうと私腹を肥やし、最後には自分の血肉まで囓りとって愚かにも滅びるのか。

               

              私は未来について知りたい。そこが明るいのかどうかを知りたい。真実と、間違いと、その修正の方法を知りたい。だから目を閉じるわけにはいかない。

               

              75年前の人類たちが国際連合というシステムを設立した時、恐らくその時に、人々が捧げた平和と安定の祈りには少なからぬ嘘が混じっていた。

               

              彼らは確かに正義と平和を信じたかもしれないが、その一方で辟易し、また恐怖も抱いたのだ。核武装した大国の武力と、戦時に見せる人間の狂暴な本性に。

               

              (戦争を否定するのは簡単だ。だが略奪ほど甘いものがあるか? 他人の存在を抹消して、その持ち物全てを堂々と自分のものにできるとしたら・・・事実そうやって、西欧諸国や私達のこの国は歴史の中で肥え太ったのだろう。)

               

              だが戦いに疲れ切った当時の人類は、その心中に恐怖と軽蔑があることを押し隠して、武力支配への嫌悪感に「平和、正義、秩序」などの聞こえの良い衣を着せておくことにした。

               

              平和や正義など後付けの虚構だ。だが私達はそれを信じた。その方が都合が良かったのだ。自分たちは正しい選択をしたと感じられたから。本当は自分たちの何がどう間違っていたのかを、それ以上考えなくて済んだから。

               

              国際連合、平和、自由、正義、秩序、公平。全てはまやかしだ。私達は洗脳されている。自分で自分を洗脳したのだ。その幻想に身を委ねる方が、遥かに楽だったからだ。答えの無い世界を生きるよりも、大きな嘘に縋り付く方が、遥かに。

               

              私は何をせよとは言えない。何をしたら良いかもわからない。ただ目を覚ますべきだと思う。

               

              私達の国に核爆弾を落としたアメリカ、私達の祖先が鬼畜と呼んで銃殺したアメリカ人の核の傘の下で、今日私達は”お天道様”の顔色を窺いながら生きている。

               

              一方で世界では、覇権主義を抱き武力と経済力によって着々と周辺諸国を侵略する、中国のような国家が台頭する。(経済力。これもまた抗いようのない致命的な力だ。)

               

              既存の国際秩序を意にも介さない次世界の大国を前にして、「正義」や「公平」を声高に叫んで何になる? 子供銀行の銀行券で借金を払うと言い張るようなもの。ただ失笑を買った後、叩き潰されるだけだ。

               

              私達は時代の岐路にいる。世界平和という嘘はすでに崩れ去った後だ。世界は暴力に基づくパワーゲームになった。正義とか公平とか、死んだ神の像に、崩れ落ちた瓦礫の山に縋り付いて泣いているわけにはいかない。

               

              直視し、徒党を組み、血の中を歩いて、自身の望む価値観を勝ち取るのだ。

               

               

               

               

               

               

              JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

              2020.08.20 Thursday

              根源的暴力

              0

                 

                だが私自身は、果たして理想を固持するために暴力的な革命さえ志向するのだろうか。単純にそうはならない。

                 

                誰かは言う。「やり遂げねばならない。理想と希望こそ、人が苦難を生き抜くためのよすがなのだ。どのような犠牲を投じても、守るべきものがあるとしたらそれだ。無視され見捨てられた人々が堪え忍んできたのは何故だったか。全てはそのわずかな希望、より良い未来への選択肢が残っていたためだ。どうして私たちは今それを放棄して、犠牲にされた人々の上で安住できるのだ。」

                 

                また誰かは言うだろう。「そこまでして理想や正義を主張する必要があるのか? 君は元々、誰かが苦しんでいるこの現実をどうにかしたかっただけだ。それなのに今度は、君自身が他人を傷付け苦しめようとする。そこまでする意味があるか? そんなことをするくらいなら、手の中を空っぽにして無力なまま流されてしまえば良い。君自身も不正に目をつむって、手を汚して生きる方がましじゃないか。」

                 

                諦めきったしわがれ声が聞こえる。「君は人間の秩序について論じる。無駄なことだ。人間そのものが歪んでいるのだから、彼らの秩序も必然歪んでいる。正しいのは神だけだ。真理は揺るがない。それは人間の幸福とは関係ない。理想を掲げるとか掲げないとか、そんなことは全く、問題の本質ではない。」

                 

                誰が何を選択するのか? その先のことは見通せない。

                 

                だから今日、私はただ単に、理想は暴力に基づいているということを言いたい。

                 

                兵器の力であろうが数の力であろうが、何にせよ暴力を自覚しない理想は、虚ろで世間知らずで、無力だということだけを言いたい。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                2020.08.17 Monday

                根源的暴力

                0

                   

                  「公平・公正な社会」や「法の下の平等」といった理想を掲げる時、あるひとつのことを思う。

                   

                  理想は暴力を必要とする、ということである。

                   

                  公平とか平等という概念を各々が共有するためには、その考え方を受け入れない個体や集団を、先ず第一に排除しなければならない。(大昔の貴族は、貴族が平民より上の存在だというわがまますぎる考えを持っていたので、”大人しく”させられた。)

                   

                  相容れない価値観、不都合な主張などを基本的には武力の脅威で押し黙らせてようやく、私達は理想を実現させる。

                   

                  そうした暴力を通して出来上がった「社会」の中でだけ、「公平さ」や「法の秩序」は絶対的な力を持ち、正義と成り得る。

                   

                  だから本質的には、平和だとか人間の秩序というものは、暴力に基礎付いている。

                   

                  人間の、というより全ての生物の宿命として、そうした「我を通すための暴力」というものがあるのだろう。

                   

                  暴力なしに理想を実現することはできない。

                   

                  これは「暴力によって築かれたルールを根拠に、個人の権利を主張する」というような間接的な意味でもそうだし、多分、場合によっては、より直接的な意味でもそうなのだ。

                   

                   

                   

                   

                  神が人を裁く。その期待に寄り添えたなら、どれだけ楽でいられるだろう。だがそれはもの悲しい幻想だ。神は人間を特別に擁護したりはしない。その盛衰はただ単に、無数にある種の内のひとつの形、ひとつの記録にすぎない。

                   

                  私たち人間の幸福のために、という意味においては、人はただ、人が裁くのだ。

                   

                   

                   

                  JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                  2020.08.09 Sunday

                  プレイ・トゥ・ゴッド

                  0

                     

                    内向的な性格と、外向的な性格は両立しにくいものだ。

                     

                    文武両道も同じ。

                     

                    ネットゲームのステータスは極端に割り振る方が良いか。

                     

                    戦略というのは奇妙なものだ。

                     

                    希望は問題を長引かせる。その長引いた時間を人は安定とか平和と呼ぶ。

                     

                    腐敗は蓄積していく。

                     

                    個と集のどちらの力を取るべきか。それを保留にし続けて我々はどうなったか。

                     

                    優秀な人間はいっそう無力にされ、善良な人間はいっそう憎悪の的となった。その全てが平和のために払われた犠牲だ。

                     

                    まるで悪魔とゲームをしているようだ。この場合、悪魔というのは神のことだ。

                     

                    いや、悪魔というのは私達のことだ。つまり、物わかりの悪い怨念たちだ。

                     

                    理不尽に苦しむ人はいるではないか。不都合な邪魔者は視界に入れぬのが幸福への道か。

                     

                    老獪な賢者が口を開く。「それもまた必要なことだ。」

                     

                    苦しみが必要なことなら、それに足掻く闘争もまた必要なものだ。

                     

                    沸き上がる憎悪もまた、それを堪える忍耐と、屈辱と報復の連鎖もまた。

                     

                    手札を持ち上げ、その隙間から対戦者の表情を盗み見る。

                     

                    彼は冷静そのものだ。日なれた仕事をこなすように、正確にカードを繰っている。

                     

                    決められた手順のように口を開く。「全てのものには、定められた時がある。」

                     

                    『まことに。』ーこれが私の返す言葉だ。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                    2020.07.19 Sunday

                    オオカミとヤマネコ

                    0

                       

                      共助と自律。

                       

                      助け合うことと、責任を果たすこと。

                       

                      肉のような柔軟さと、骨のような硬さ。優しさと支え。流動性と堅牢性。

                       

                      内骨格、それとも外骨格か。

                       

                      それを支える腱。材質を調整すればコラーゲン、形態を調整すればアポデム。硬度と接着面積の問題。

                       

                       

                       

                      オオカミとヤマネコ。群れと単独生活。

                       

                      生存戦略。外骨格。鎧と戦車。群れ。同盟と国家。

                       

                       

                       

                      人として”どうあるべき”か?

                       

                      いつも思うのはこのことである。新生児を手厚く保護すると、身体が弱くなる。エアコンの中で育った個体は、より厳しい環境で育った個体よりも軟弱になってしまう。

                       

                      だが、新生児を保護しない場合、死亡リスクが上がる。生き残る個体数が減る。

                       

                      新生児にエアコンを使うべきか否か? 個体の強化と保護はいずれが重要か?

                       

                       

                       

                      こういう話がある。子育てにおいて最適の母親というのは、素晴らしい人格者の母親ではなく、”それなりに善良な母親”なのだと。

                       

                       

                       

                      有機的な環境調整。サバクトビバッタの相変異。神の見えざる手。共食いモルフ。

                       

                       

                       

                      腱は、肉ほど柔らかくはなく、骨ほど硬くもない。肉ほどは内包できず、骨ほど排他的にもなれない。

                       

                      生物は設計されている。しかし人間は、知性によってその設計を拡張し克服することができる――少なくとも、そうしようと試みる生き物である。

                       

                       

                       

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