2018.11.12 Monday

やる木理論

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    今日は、私がよく好んでする話を。やる気(モチベーション)の理論について。

     

    では、先ずは図を。

     

     

     

     

    やる気の木です。わかりやすいですね。

     

    この図は、モチベーションは目標の大きさと安心感とのバランスで生み出されていくものである、ということを表しています。

     

    ビジネスで言えば、職場の労働環境が安定していて、尚且つ難しい課題が課されている状態など(反対に悪い労働環境で課題が少ない場合であっても、一応バランスが取れていると言えます)。

     

    2つの要素がバランス良く引き合うことによって、力強いしっかりとした幹=やる気が作られていきます。

     

    では次に、このバランスが崩れてしまうとどうなるかを見てみましょう。

     


     

     

    枯れ木理論です。

     

    目標が大きすぎるとか、安全が確保されていないとかの状態が上のパターン。心が折れてしまったり、身体も病気になったり、離職していってしまったり・・・。

     

    対して、安心感ばかりで目標が小さすぎるぬるま湯的状態が下のパターン。水分だけ多くて、葉っぱが酸素を取り入れてくれないので枯れてしまいます。現実的には、自浄作用や成長意欲が失われ、怠け癖とか「これでいいや」という気持ちが強化されていきます。

     

    教育の場面ではよく「アメとムチ」なんて言われますが、アメとムチを同じ次元で交互に使い分けるのは、実はとても良くないことです。そういう矛盾した態度は、教育を受ける側を混乱させ、自分で考える力を失わせてしまいます。あるいはゾンビのように、自分では何も考えられない代わりに、命令にだけは忠実に従うようになるのかもしれませんが。

     

    アメとムチを交互に、ではなくて、根っこと葉っぱを意識することが大切です。「大丈夫、ちゃんと責任は取ってあげるから、挑戦してごらん」という態度が必要なのですね。

     

    根っこには恵みの雨を降らせ、葉っぱには高く輝く太陽(理想)を仰がせる。それがやる木の肝心要、といったところでしょう。

     

     

     

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    2018.11.11 Sunday

    コミュニケーションとは

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      カジュアルさが続きます。

       

      コミュニケーションとは何か、について。

       

       

      一口にコミュニケーションと言っても、その中身は大きく2つに分けられます。

       

      ひとつは、義務としてのコミュニケーション。もうひとつは、趣味としてのコミュニケーションです。

       

      義務のコミュニケーションはビジネスライクなもの。約束を記録するための契約書や、聞いた/聞いてないの問題にならないための回覧板、文書での告知などが重要な役目を果たします。相手の責任を明確に通知したり、指示を出したりすることは、時には辛いことであるかもしれません。

       

      趣味のコミュニケーションは、もっとずっと人間的なものです。仲間や友達、家族など、私たちが集団の中で絆を深めていくために重要になってきます。ですので前提として、目の前の課題や環境、遊びなどを、皆のものとして共有していく協調性が必要な要素になるでしょう。

       

      どちらがより大事かということではなく、どちらも大事。偏るのは良くないですね。とは言え人間、何でも得手不得手があり。でこぼこでも誰かと補い合えたら、それこそコミュニケーションの素晴らしさを実感できる、ということなのかもしれませんね。

       

       

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      2018.11.10 Saturday

      ラポールとブーメラン効果

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        カジュアル心理学っぽいことをしていきましょう。

         

        今日は、『ラポールとブーメラン効果』について。

         

        これぞまさにカジュアル、というテーマです。とても簡単で、分かりやすく、しかも実用的。図解してみましたのでちょっと見てみてください。

         

         

        <ラポールのイメージ>

         

         

        ラポールとは、相手との信頼関係のこと。カウンセリングやコーチングではとても重視されています。

         

        図の中では、先生役の人が \気靴い海函,函´間違ったこと をそれぞれ言っています。

         

        その反応として、正しいことは肯定され、間違ったことは否定される・・・かというとそうでもありません。これが心理学の面白さですね。

         

        ある主張が相手に受け入れられるかどうかは、相手との”信頼関係”に大きく左右されるというのがキーポイントです。

         

        一番左側の人は、先生役の人が正しいことを言おうと、間違ったことを言おうと、それを否定しようとします。人間には、嫌いな人の言うことは兎に角なんでも否定したくなる、というクセがあるのですね。これを”ブーメラン効果”と言います。

         

        教育者とかコーチ、会社で後輩を教育するトレーナーなどは、こうした単純なことを理解しておくことが特に重要ではないでしょうか。

         

        教育は、何をおいても信頼関係。その為には先ず、教える相手のことを理解しようとする気持ち、を抱くところからですね。

         

         

         

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        2018.11.06 Tuesday

        Words are flowing

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          どうやら情報通信の世界では、『5G』という新しい通信規格が話題のよう。周波数帯の割り当てだとかが決まったそうで、これから徐々にキャリア各社も具体的なサービスを整備していくのでしょう。

           

          インターネットというのは、最初は文字の世界でしたね。画像データは容量が多すぎて、通信回線の中を通すのが大変だったからです。それが技術の発達によりだんだんと、画像が当たり前になり、音声が扱えるようになり、動画配信も難なくこなせるように。

           

          今後の通信規格の向上によって、これから先は更に文字情報の割合が減っていって、インターネットは『脱言語化』していくのかもしれませんね。

           

          私たち人間が、言葉から離れていくこと・・・。

           

          言葉は神聖なものであり、秩序そのものです。その神聖さは裏を返せば、邪悪さと呪いと混沌を規定するものでもあります(原罪)。

           

          言葉が滅び、法律が綻び、意味が共有されなくなる。それは即ち、私たち人類が(個々人のレベルにおいては)より野性的な段階へ進んでいくであろうことを暗示しているでしょう。

           

          すでに現代では、思想見解というものはあまり意味を成さなくなってきているようにさえ思います。集団の心理のダイナミズム、錯誤や偏見を含めた人間そのままの(神聖化されていない)総体的有り様が、そのまま社会を動かしているのです。

           

          今や意見や見解は、ある特定の規範・原理・人物を目指してそこに集合するものというよりも、思い思いの感性に従って、世の中に溢れている意味見解を、それぞれが自分の好みのままに選び取っていく性質のものに変わって来ているのではないでしょうか。

           

          こうした状況は、有名なバベルの塔の逸話を思い起こさせるものでもあります。即ち、民族の統一と技術的な発展の象徴としての”塔”は、それがあまりに大きくなる余りに、”言葉を切り裂かれて”分裂していってしまうのです。

           

          先に、私たちが言語を離れていく、ということを述べましたが、これは人間社会で言語が使われなくなる、という単純なことではありません。

           

          そうではなくて、言語に対する私たちの”重み付け”が変わるのでしょう。恐らくそれをあまり大切なことだとは思わなくなるのです。

           

          言葉は、呟(Tweet)くもの、溢れるもの、流れ(stream)るもの。そこに宿る束縛的な要素は徐々に溶け落ちていく。

           

          しかし、こういう脱神聖化された言語的感性というのは、実は私たち東洋人にとっては、元々かなりなじみ深いものでもあるかもしれません(私たちにまだ東洋的な文化の細胞が残っているならば、ですが)。

           

          禅的な考え方としてみれば、人間がぺらぺらと色々な物事について喋ったり、考えたりせずにおれないのは、猫がしょっちゅう毛づくろいをしていないと気が済まないようなもの。

           

          言葉は何ら神聖なものではなく、それこそ鳥が気ままにさえずるのと、私たちが難しい議論をすることの間には、まったく何の違いもないということになります。こういう考え方は中々、西洋文化を基盤とする人々には難しいところがありはするでしょう。

           

          もしかしたら50年先、100年先には、脱言語化された情報化社会で第一線を切り開いているのは、GAFAのような西洋企業ではなく、東洋の新しい企業群になっていたり。そんなことがあるのかもしれませんね。

           

           

           

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          2018.11.03 Saturday

          自己形成

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            前日の記事で、”私”というものは幻想だと書いた。それはちょうど、”日本”という国が単なるコンセプトであり、厳密には実体を持つものではない、ということと同じである。(例えば一体誰が日本の国土を、分子レベルでこれはそう、それは違う、と規定できるだろうか?)

             

            しかし”日本”は”日本”として、私たちの認識をより効率的に整える意味では有用な共通概念でもあるように、現代の私たちの社会生活において”私”概念は当然重要なもの、それを欠けば大変困った状況にならざるを得ないもの、であると言える。

             

            そういう事情のために心理療法家は、自己概念を上手く形成できていない、或いは脆弱な形に形成してしまっている人々の自己を補強し再構築していくための方針や方策を持たねばならないと思う。

             

            自己形成の大枠は、対象関係的な理論に良く記述されている。自己が形成される以前の精神を記述しようとすれば、必然それは自己以外の概念を必要とする。対象関係というものがその足がかりになる。

             

            そうした理論について詳述することはしないが、それらの考え方の上で私が特に注視したいのは、”自己”とは常に“罪”の概念によって支えられる構造体であるということである。

             

            精神には内圧と外圧があり、内圧とは自己肯定や親からの無条件の愛情を、外圧とは外部世界や肉体そのものが私たちに投げかけてくる制限や束縛をそれぞれ示す。この内圧と外圧のせめぎ合いによって、その境界に一種の力動的な抵抗の層が作られる。これが要するに、私たちの”自己”の実感上の境界線である。

             

            ここで問題になるのは、外圧は常に、私たちが自分に転嫁できる分だけしか生じることができないという事実である(神は耐えられない試練に会わせることはない)。ある制限制約が事実として生じているとしても、私たち自身がそれを受け入れ内在化する(悔い改める)までは、その現実は精神構造の中で否認されている。

             

            その問題はその人にとって存在しないか、「有り得ない」とか、「知らない」という言葉によって自己の領域から追い出され、自己との関係性において断絶させられている。

             

            ある問題を私たちが受け入れられるのは、それを受け入れる積極性、勇気、好奇心、成長意欲、そして、自己肯定感を持ち合わせているときだけである。

             

            特に幼少期において、親から無条件の肯定を受けた経験が少ない場合(=内圧の欠乏状態)や、叱られたり、不快な感情に晒される時間が長く外圧が高すぎる場合などに、自己形成プロセスは”外圧を無視し、受け入れない”という方法によって自己バランスを保とうとする(実際はそれ以上の外圧は溢れ落ちて浪費されてしまうのだが、こうした外圧と内圧という対立エネルギー同士の不均衡は、全く反対に、外圧が少なすぎる、という場合にも起こりうることである)。

             

            しかし、こうして作り上げられた脆弱な自己境界は、本質的に、外圧を内在化する”罪”の機能において弱さを持ち合わせており、それがそのまま自己形成の未熟さへと転換していってしまう。自己が尚発達しうるとしたらそれは内圧(自己肯定感)を供給してくれる別の報酬系が存在する方向に向けてのみであり、これが故に自己形成は狭く限定された領域に特化して、全体的なバランスの不安定さを抱えることとなる。

             

            まとめて言えば、自己を形成するには”罪”の意識が必要だが、罪を抱けるのは私たちが自分を十分に愛し、また世界を信頼して、罪の重さに立ち向かう強さを持ち合わせている場合だけ、なのである。

             

             

             

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            2018.11.02 Friday

            "私"は幻想であること

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              哲学的な話・・・或いはもしかしたら、実学的な話、精神医学的な話・・・。

               

              西暦2000年初等頃、現代の私たち人類は、未だに”私”というものの本質を理解しているとは言い難い部分があります。もちろん、ある一部の、ごく少数の人々はそれが何であるかを理解しているけれど、おおよそ殆どの人は、その意味をあまり理解せずに”私”という言葉を使っています。

               

              ”私”とは何でしょうか。答えは、幻想、幻です。”私”などというものはありません。

               

              そんな馬鹿な話、と思われる方もおられるでしょう。ですが少し真剣に考えてみてください。

               

              ”私”とは何ですか? ”私”と”私以外”との境界線は? それは細胞のどのあたりでしょうか?

               

              そしてまた、”私”が”私”であるための絶対条件は? 何があれば”私”であり、何を失ったら、”私”ではなくなってしまうのでしょうか?

               

              自己、というものは、単純にこの私たち生命が、大脳の中に作り上げる本能的な仮説のようなものなのです。それは商品のラベルであって、商品そのものではありません。『リンゴ』のラベルをミカンに貼ったら、それがリンゴになるでしょうか。そうではありません。ラベルは、ただの言葉です。それは識別するための目印でしかありません。

               

              私たち人間は、生まれ落ちた時には自己を持っていません。やがて成長し、様々な経験を積む中で段々と”私”概念の元となるイメージ(前駆体と呼ばれる)を作り始め、それがある程度強固になると、”私”の独立性に気付いて主体的に行動し始めるようになります(自意識の創発)。

               

              統合失調症や発達特性における社会的問題とは、この”私”概念=自己イメージの形成の問題です。統合失調の場合は自己が『複数の部分に分割されて併存する』混乱状況であり、神経発達症の問題は自己の『線的な一貫性が維持されていない』混乱状況を作り出します。

               

              しかし現代の私たち人間の社会において、この”私”という虚偽は(主に責任の分担や労働の効率化などの為に)とても重要な前提となってしまっているため、”私”概念を強く保持していない人は、社会不適合を起こしてしまうことでしょう。

               

              ただそれも、ある程度の年齢までのことではあります。さらに年齢を重ね、人生経験が豊かになっていくと、私たちも自然に”私”というものが嘘であったことを見抜くようになります。それはキリスト教的に言えば原罪の終わりであり、仏教的に言えば無分別智ということです。

               

              私はこのごく自然な人格の成熟プロセスを自意識からの”離脱”と呼んでいます。自意識を離脱した人々は非常に実存的な感性を身に付け、創造性を発揮して人類の文化を新たな方向へと推進していく役割を持っています。

               

              つまり、自己形成ができようとできまいと、最後には自己=”私”は消えてなくなってしまうのです。重要なのはそういう段階にまで精神を成長させるための、豊富な世界経験だということです。

               

              個人的な信念として私は、あらゆる人々は生ある内に自意識からの離脱というステージに進むべきだと考えています。そしてその考えをはっきり表明するために、構築した自意識から離脱できない人々を”離脱不全症”という病名で呼び表すことさえ考えています。

               

              とは言えそれは暴論、自己形成の強さとか、そこからの離脱が重要となる年齢の目安などは、私たちの文化の発展や社会的慣習、情勢などにかなり影響されて変動するものなのですから。

               

              まとめると・・・”私”という幻想は、人間の社会性の基礎。それは車のようなもの。乗っていると自分と車を同一視するけれど、いつかは降りることもできるようになる。自己形成が苦手な人々が、その非定型な感性の豊かさを通して、私たちにそうした事実をいつかは気付かせてくれることでしょう。

               

               

               

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              2018.11.01 Thursday

              タナトフォビア

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                タナトフォビア(死恐怖症)について。

                 

                死生学や死という概念を扱う職業を通して、「死ぬのが恐ろしくて、それを考えると時々パニックのようになってしまう」と訴える人々に出会うかもしれない。

                 

                もしも私たちが純粋に文化社会的な視点のみで死生学を考えていたとしても、死についての知識や、人類がそれを扱ってきた歴史について述べ伝えることはできるだろう。

                 

                しかし恐らく、単にそうした知識を列挙し説明するだけの努力は、タナトフォビアというようなものに対してはあまり効を成さないに違いない。

                 

                恐怖症は、多分に心理的な深みを持つ、その個人に特有の思想である。多くの場合、表面的な苦痛や悩みに関する訴えは、内面における根本の問題を正確に表現しているというよりむしろ、より広範な問題をあるひとつの場所、ひとつの対象へ投影し収斂させている(こじつけている)だけ、ということもある。

                 

                タナトフォビアという心理構造に向き合う時に、文化社会的な知識だけではなく、心理学的な視座が必要になるであろう理由は、つまりそれである。

                 

                経験上、死恐怖を訴える人の精神構造には、どこか”自己形成”における問題が存在する傾向があるように思う。それは発達特性上の問題や、或いは統合失調スペクトラム上で有意に指摘可能な問題であるかもしれない。

                 

                その訴えの具体的な形は”死”への恐怖であったとしても、その訴えの奥にあるものは、より本能的なレベルに基礎付けられた”自己消失”や”存在喪失”、さらに言えば、心理的に縋り付くべき場所を見出すことのできない”寄る辺無さ”なのではないだろうか。

                 

                そうした不安によって、精神構造の中で原始的なアグレッションが増大していく時、我々は「自分自身の存在そのものが押しつぶされるような、消し潰されるような、圧倒的な不安感」を感じるかもしれない。

                 

                そしてこの圧倒的な不安感を取り扱うのにふさわしいイメージを探し出そうとするならば、それがつまり”死”なのではないだろうか。

                 

                こういう意味で、ある種のタナトフォビアは死そのものへの不安の問題というよりも、圧倒的な不安を抱える人がそれを投影する対象としての、”死”イメージに捕らわれている問題なのではないかと思う。

                 

                例えば今まさにパニックにより過呼吸に陥って「息が出来ない」と訴えている人に、呼吸の仕組みや理論を説明したとしても、余計混乱させるだけであろう。この場合必要なのは、相手をその場から隔離しつつ落ち着いた声色で「大丈夫だよ」と声をかけたりすることである。

                 

                同様に、タナトフォビアを訴える人が死についての疑問に捕らわれているからと言って、単純にそれについての専門的知識や理論を展開するだけでは、状況を改善できないかもしれない。

                 

                だからもし、そうした心理構造の見立てが可能であるならば、私たちは相手の”自己形成”の状況をも観察すべきであろう。問題の根本がデス・エデュケーションの領域ではなく自己形成やパーソナリティの領域にあるという鑑別がついたならば、そこから先は、転移やリフレームを駆使してより健全な自己形成を援助していく、心理療法を中心とする問題になっていくはずである。

                 

                 

                 

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                2018.10.12 Friday

                『聞き書き』の実習

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                  昨日は、縁あってお会いした方が運営するデイサービスセンターにて、『聞き書き』をさせていただきました。

                   

                  聞き書きというのは、要するにお話しを聞いてその内容を書き留めること。

                   

                  傾聴と重なる部分があり、看護介護などの分野に徐々に浸透していっているようですね。

                   

                  ロゴセラピーは人間の意味を扱う療法、意味は狭い範囲では、ある物事についての個人の解釈や印象。もっと広く見れば、意味とは、その人の人生を通じた物語全体、ないしその一部分という風にも言えるでしょう。

                   

                  そういうわけで、ロゴセラピーは全人的ケアやバイオグラフィカルな領域を重視する診療方針と密な関係があります。そして聞き書きを「その人の持つ物語構造を把握する一手段」として捉えるなら、やはりロゴセラピーと聞き書きには高い親和性があるのではと考えています。

                   

                  加えて言えば、文章にまとめられた伝記を語り手が振り返って参照することで、何らかのフィードバック的な効果も期待できるかもしれません。

                   

                  さてそんな『聞き書き』をいざ行ってみて、感想を少し。

                   

                  まず、みなさん案外恥ずかしがる・・・。確かにまあ無理もないことで、「一対一で何か話してください」なんて改まって言われると、普通は腰が引けてしまうものでしょう。話し始めればただの思い出話で何も苦はないのですが、とっかかり、スムーズにすることが大事なのですね。

                   

                  個別のインタビューはちょっと、というご意見があったので、結局複数人の座談会を書記的に記録しつつ、質問を交えさせていただく形式をとりました。

                   

                  そういうことで、あまりプライベートな『個人の物語』には足を踏み込む感じではなく、過去についてみなさまの共有する認識を再確認するような場に。ただそれだけでも、あれもあった、これもあった、という話が出てけっこう花が咲きました。

                   

                  もう一つ気付いたのは、話の方向性。多分、本当に残さなければいけないストーリーは、個人のこと、お家のこと、パートナーのこと、子供への想いとかそういう部分ではあろうけれども、それはなかなか、他人には話せない。誰が聞くか、誰に話すか。それが語りの内容をある程度方向づけるものなのでしょう。

                   

                  どういう立ち位置で聞き、誰に向かって、どんな話をしてほしいか。それをやんわりとテーブルの上に乗せつつも、ご本人が語りたいことを、あくまで語りたいように語っていただく。そんなことを意識しなければなりませんね。

                   

                  座談会形式なので、伝記のまとめ方も少し工夫が必要で、今回はあえて、こちらの主観を交えた「感想文」の形を取ることにしました。オーソドックスな聞き書きからは外れるかもしれないけれど、これもまた一興でしょう。

                   

                  まだまだこれから、臨床分野での意義が高まっていきそうな『聞き書き』の文化。引き続き、実践と経験を通して学んでいきたいと思います。

                   

                   

                   

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                  2018.10.10 Wednesday

                  悟りの心理学

                  0

                     

                    悟り。

                     

                    こういう、『悟り』とか『宗教』とか、普通は思わず「えっ?」となってしまう単語を好き好んで使うクセが、私にはあるようです。世の中の価値観を変えようという意識の表れなのでしょうね。

                     

                    さて、悟りについて。

                     

                    私はこれを、仏教で言う「無分別智」というのとある程度同じ意味合いで使っています。(そこを乗り越えればあとは勝手に”道が定まる”)

                     

                    これとそれ、あれとこれとを切り分ける、言葉の分別。そういうものを乗り越えた人間だけが見通せる、境界線の無い世界。

                     

                    こんなことは・・・と言ってしまうと怒られるかもしれないけれど、実はこんなことは、本当はちょっと禅の理論でも勉強すれば誰にでもわかること。なにも特別なことではありません。

                     

                    ただ人間というのは、どうもそう自分から進んで賢くなりたい生き物でもないらしく、余程人生が追い詰められないとそういうものに興味を持たない、という面はあるようです。

                     

                    というよりもただ単に、大して魅力的でもないのかな、そういうものは(笑)

                     

                    個人的に、人間が生活の効率化を考えるあまり、価値観が即物的になり、横並びの「繰り返しの人生」の中でしか生きられなくなることは社会の病理だと考えています。

                     

                    それは人間の創造意欲、労働意欲、消費生産能力を減少させ、イノベーションの土壌を無くし文化/経済のダイナミズムを失わせて、社会全体をゆっくりと固着した死の状態に導いていきます。

                     

                    正常なダイナミズムの働く『創造性の社会』、という概念を私はいつからか使っていますが、そういう社会を実現するためには、私たち人間は生が一回きりの事象であることを思い出さなければなりません。創造力はまさに、無限ではなく有限によってこそ花開くものだからです。(永遠や無限の中に輝きはない)

                     

                    話が逸れました。

                     

                    『悟り』について私の見解を明確にしておきましょう。私は2つのポイントを考えています。それは主に男女によって違うものです。

                     

                    男性の悟りにおいて大事なのは、何をおいても無分別智です。問題の制御と知性、そして愚かさに関する仕事だと言えます。

                     

                    女性の悟りにおいて大事なのは、罪悪と許しに関する心の作業です。自由と無邪気さ、そして邪悪さに関する仕事です。

                     

                    さらに男女双方において大事なのは、「郷愁」です。この郷愁とは私たちが”この世界に存在するうえで否応なく生じる、根源的な不安/寂しさ”を指します。

                     

                    仏教では、あらゆるものが仏性を持っていていずれは仏になると言います。そのように、あらゆるものが世界全体からの”分離不安”としての郷愁を持っているのだから、あらゆるものがいずれはその郷愁を解決して悟りに至る。そんな風に考えています。

                     

                    駆け足、簡略にですが、私の『悟り』観を概観してみました。

                     

                    なぜ今こんなことを説明するのかというと・・・きっと自分自身が、既存の社会の価値観に飲み込まれそうで不安だから。かもしれません。他愛のないことです。

                     

                    さてその他愛のないことではありますが、無分別智というのはロゴセラピーとはとても相性が良いものです。意味は視点と主体とに依存するもの。その視点というものを、時に柔軟に時に堅強に、ずらしたり強めたりということができるならば、意味もまた自由自在にできるからです。

                     

                    もしもこの技術にご興味がおありならば、わたくしのメンターシップのコースをご依頼いただくと、まさに渡りに船!というところでは・・・(と、最後は宣伝で)

                     

                     

                     

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                    2018.10.09 Tuesday

                    ロゴセラピーの新しいアプローチ

                    0

                       

                      ( その )  ( その )

                       

                       

                      "学習型ロゴセラピー"とはどういう方法か?

                       

                      簡単に言えば、それはロゴセラピーの理論そのものをクライエントにまるごと教え込む方法です。

                       

                      この療法の利点は言うまでもなく、反省の除去や自己距離化などの有意義なロゴセラピーのケアシステムを、クライエントが内在化して、自分自身でそれを使っていくことができる、という点です。

                       

                      個人的な感触として、ロゴセラピーはクライエント側の高い"意識性"を必要とするものだと感じます。例えば神経症に対する逆説志向は、理論を理解していればこそ効果を発揮するものだけれど、クライエントがその根底にある理論を理解していないとすれば、単純に「意味不明な指示」に終わってしまう可能性も高いものです。

                       

                      「意味不明」で終わらない為には、感覚ー不安サイクルが負の連鎖によってどんどん強化されていく仕組みを学び、それをどう解いていくかという理論的な「意図」を把握しておくことが必要です。

                       

                      そうした"意識性"を考える上でも、ロゴセラピーの理論と技法全体を、心を制御するためのひとつのパッケージ化されたスキーマとして、クライエント自身が学習し身に付けていく、ということは非常に利点のあることだと思います。

                       

                      クライエント自身が学習する形態のロゴセラピー。これが"学習型ロゴセラピー"です。

                       

                      それはつまり、その理論の中では心理療法家は言わば教師として、クライエントは生徒としてそれぞれ存在しており、その両者の間には整理されたひとつの教材/テクストとしてのロゴセラピーの理論が横たわっているということです。

                       

                       

                      ( その )  ( その )

                       

                       

                       

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