2020.07.19 Sunday

オオカミとヤマネコ

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    共助と自律。

     

    助け合うことと、責任を果たすこと。

     

    肉のような柔軟さと、骨のような硬さ。優しさと支え。流動性と堅牢性。

     

    内骨格、それとも外骨格か。

     

    それを支える腱。材質を調整すればコラーゲン、形態を調整すればアポデム。硬度と接着面積の問題。

     

     

     

    オオカミとヤマネコ。群れと単独生活。

     

    生存戦略。外骨格。鎧と戦車。群れ。同盟と国家。

     

     

     

    人として”どうあるべき”か?

     

    いつも思うのはこのことである。新生児を手厚く保護すると、身体が弱くなる。エアコンの中で育った個体は、より厳しい環境で育った個体よりも軟弱になってしまう。

     

    だが、新生児を保護しない場合、死亡リスクが上がる。生き残る個体数が減る。

     

    新生児にエアコンを使うべきか否か? 個体の強化と保護はいずれが重要か?

     

     

     

    こういう話がある。子育てにおいて最適の母親というのは、素晴らしい人格者の母親ではなく、”それなりに善良な母親”なのだと。

     

     

     

    有機的な環境調整。サバクトビバッタの相変異。神の見えざる手。共食いモルフ。

     

     

     

    腱は、肉ほど柔らかくはなく、骨ほど硬くもない。肉ほどは内包できず、骨ほど排他的にもなれない。

     

    生物は設計されている。しかし人間は、知性によってその設計を拡張し克服することができる――少なくとも、そうしようと試みる生き物である。

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

    2020.06.28 Sunday

    In-Di-Visual

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      少し前に、小社会と大社会について書いた。その延長の話。

       

       

       

      小社会の倫理は、善意と助け合いの倫理である。これは集団生物としての、人間のより本能的な能力だと言える。

       

      助け合いと集団化によって、社会の効率は個別のサバイバルよりも遥かに向上し、安定し、堅牢になる。

       

      個人と家族、家と家、組織と組織が手を組むことで、人間の力は何倍にも増幅され想像もしなかったような作業が可能になる。

       

      一方、この倫理規範の欠点は、一言で表せば無責任さと排外主義である。

       

      人は課題に直面した時に他者を頼るようになり、自分の責任を意識しなくなり、成長能力が抑制される。また自然と身近な人間を贔屓しはじめ、集団にとって不都合な事実を指摘する個体が現れたときには、結束を脅かすような批判の声を怒りをもって抑圧し排除するようになる。

       

       

       

      大社会の倫理は、責任と自律の倫理である。服を着た動物としての、人間のより高度な認知適応能力に由来する。

       

      社会に組み込まれたメタ認知装置としての法律と規則、そして契約という概念によって、人は自らが果たさねばならない責任を規定する。

       

      それは長い戦争の歴史を通して、暴力による淘汰の世界観を克服しようとする高等生物としての人間が、個々のエゴイズムからお互いを守り合うために作り上げた鎧であり盾である。

       

      この規範を通して人は自らを客観視し、より高い理想の姿を自発的に求め、その成長能力を最大限に引き出していく。

       

      この倫理規範の重大な欠点は、冷酷さと社会の混乱である。

       

      集団の力に頼らない人は、個別のサバイバルの世界を生きねばならない。周囲を取り囲む存在は中立者、敵対者、利害の一致する協力者であって、仲間とか血族のようなものではないため、少し歩み寄って他者と補助しあえば容易に解決できる問題を、あくまで道筋通りに遠回りして難しくする。自らの責任を果たそうとする分、他者の無責任や社会の不公平、不平等に極端に敏感になり、社会の中の隠された対立と不和の種を、成長させ複合させ破滅の扉を開かずにはいられない。

       

       

       

      善意のある人々が種を撒き、責任感のある人々が拡大させる。こうして社会は腐敗と憎悪に満たされていく。

       

      もしも私達が両輪を使えたとしたら、今の社会状況はずっと違っていたのかもしれない。

       

      多分、ごく粗雑な考えだが、貧すれば鈍する、不景気になるとどんな人間も人格の悪い面が出てくるという、それだけの話なのだ。

       

       

       

      後記:

      最も不都合なのは、こうしたことの犠牲になるのはいつも、社会の中で一番弱い立場に居る人たちだということだ。逃げ場のない人間が無責任の尻ぬぐいに使い潰され、助けを必要とする人が自己責任の名目の下で冷えきった死体に変わる。

       

      責任と善意は二項対立で、どちらかを取ればもう片方が犠牲になる。私達は、どちらにしろ負けの決まった戦いをしているのだ。これが人間の限界なのだろうか?

       

       

       

      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

      2020.06.06 Saturday

      あもうずの毒

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        宇津流霊の存在が私達に示しているのは、あらゆる存在は、変化を代謝することによってしかその形を維持存続できないということだ。

         

        この宇宙全体が、ひとつの巨大な恒常性によって成り立っている。粗雑な空想ではあるが、ブラックホールとかホワイトホールとかの概念を、この恒常性における変化のエネルギーの出入り口と想定することもできそうだ。

         

        これは私達にとって、この世界のとてつもなく大きな葛藤的側面だと言える。

         

        存在は変化から解き放たれることがない。全ての存在は変化し続けなければならない。

         

        変化することを拒絶したらどうなるのか?

         

        その存在は固着し、萎縮し、機能不全を起こして崩壊しはじめる。それと並行して、別のより恒常性の高いシステムが優勢になり、古い物を取り囲んで、世界から排除してしまう。

         

        禍福は糾える縄の如し。安定と安寧の千年王国のようなものは、やはり幻想である。一時成り立つとしても、それはどこかに歪みを蓄積しており、必ず揺り戻しがある。

         

        宇津流霊の存在が私達に示しているのは、私達は変化し続けなければならないということだ。嫌々ではなく、むしろ積極的に無邪気に、義務として自分たちを取り巻く不安定の中に飛び込んで行かねばならないということである。

         

        変化の程度が過ぎればそれも害になるが、生命の卑近な欲求は常に永遠の安寧を望むものであり、この場合苦労を買って出て買いすぎるということもない。むしろ苦労しなさすぎるせいで、人はその存在を危険に晒す。

         

        こうしたことは私達にとって、大きな矛盾のように思える。安定に固執するものは滅び、変化を代謝するものは永続に近付く。世界には混沌と、変化と破壊の風が、常に吹き荒れねばならない。

         

        (もしもあなた方が最早それを許容できず、完成された立場を放棄するくらいならむしろ衰退と破滅の道を選ぶのだとしても。その時この世界は、あなた方が「滅んだ」と思ったその土地の上に、新しい種を繁栄させるだろう)

         

        個人も組織も、国家も、この世界の何もかも。命は更新されねばならない。成長は苦しく不安定で、痛みがつきまとう。その痛みと共に進まねばならない。明るく、笑って。

         

         

         

         

         

        JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

        2020.03.15 Sunday

        ( When we have shuffled off ) This mortal coil

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          有名になりたかった。

           

          それなりの地位を得て、人々の承認を得て。

           

          なぜそうだったのだろう、と考えていた。

           

          有名になって、大きな組織を作ったりすれば、もっと多くの人に有用な知識を分け与えられる。そのためだろうか。それは違う。知識はこの世界そのものに既に書かれている。私達は必要に応じて、必要な分だけをそこから取り出す。必要な時に、必要なだけ与えられる。それは世界に任せれば良い。私のすべきことではなかった。

           

          それでも人間の文化を押し上げたり、その役には立てるかもしれない・・・馬鹿馬鹿しい話だ。人間というこの同族どもだけを、いたずらに宇宙にのさばらせるための、必然性のある理由は見つからない。

           

          苦しんでいる人、自分のように苦しんで追いやられた人たちを救えるかもしれない。それもまた詭弁だ。軽率な援助が反面で人の思いを歪ませ、その押し出された分でまた別の問題が持ち上がる。苦しむ人は常におり、それを克服するものも、克服せずに死んでいくものもいる。またそれらの苦しみを、ほとんど知らずに生きる人々もいる。それもまた世界の采配による。

           

          なら、なぜだったのだろう・・・と考えて、結局こういうことを思った。

           

          私はただ、安寧が欲しかったのだ。このひとつの生命の、自分という存在の、永遠に守られるであろうという確証を。

           

          地位や、名声や、収入の大きさによって、私は私のこの存在を、より確かで永続的なものにできると思ったのだろう。

           

          考えてみれば、他愛ない話だ。

           

          それは無邪気な、少年少女の空想だ。

           

          小さな、温かい命の、切なる願いだ。

           

          そんなに悪いものでは、なかったのかもな。

           

           

           

           

           

           

          JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

          2020.02.02 Sunday

          exit

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            先日、長らく宙吊りの状態となっていた英国のEU離脱が正式に行われた。

             

            欧州議会での最後の演説では、英国の離脱を推進してきたファラージ議員が、現在この地球上ではグローバリズムとポピュリズムの歴史的な争いが繰り広げられている、という良く要約されたわかりやすい論旨を述べた。

             

            グローバリズムとポピュリズム。日本語で訳すと恐らく、世界主義と大衆主義ということになる。

             

            前の記事の言い方で言えば、大社会の倫理と、小社会の倫理との対立。

             

            抽象的な倫理の矛盾がこれほどはっきりと具体化するに至って、現在の人類が抱える問題の姿は極めて明瞭になった。

             

            『我々はどの範囲の倫理を取ることで、最も利益を得るか?』 論点はただこれだけである。

             

            環境破壊やフリーライドに対する企業の責任について、或いは過剰な規制と罰則がもたらす不利益や監査官の堕落について、私達は最早それを正義とか合理の文脈で話し合う必要は無い。

             

            グローバリストもポピュリストも、やっていることは何も変わらない。彼らの違いは倫理の範囲の違い、つまり戦略の違いだけなのだから。

             

            こういう反論があるだろう。「グローバリズムは全体を考慮するという意味で公平だが、ポピュリズムは自分たちの利益ばかり優先し、他の人々を排除しようとする点において卑怯で間違っている。」というような。

             

            だが考えてみてほしい。一体あなた方の言う、そのグローブつまり世界というのは、本当は何を指しているのか?

             

            あなた方小さな人類がグローブと呼んでいるのは、実際には、人間が支配する、人間が知っている、人間が構築してきた、人間のための社会全体のことだ。

             

            それは本当に公平なのか? 公平だとしたら、誰にとって? 人間にとってか? 動物や植物にとっては? 無機物にとって、他の銀河や他の世界にとってはどうだろう?

             

            問われれば、あなた方は事も無げに言うのだろう。「その人たちは、私には関係ない。その人たちのことは、私は知らない。」

             

            見方を変えれば、グローバリズムというのも、戦勝国が戦争の暴力で取り決めた人権条約を原理とする、一種の世界宗教に過ぎない。

             

            どちらを選べばより有益なのか?

             

            小さな世界の中の、どんぐりの背比べだ。難しく考えず、いっそ胸を張って争えば良い。

             

             

             

            JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

            2020.01.24 Friday

            2月 「気軽に瞑想会」のご案内

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              来月の瞑想会の告知をさせていただきます。

               

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              日付:2020年2月19日(水)

              場所:高松市 生涯学習センター

                 (まなびCAN) 2F和室

               

              時間:

               ◎初心者指導  19:00〜19:30

               ◎瞑想の時間  19:30〜20:00

               ◎情報共有など 20:00〜20:30

               

               ※ タイムスケジュールは目安です。

                その場の雰囲気で

                ゆる〜く行っていきます。 

               

              参加費:無料

              参加資格:18歳以上の方

              持ち物等:特にありません

               

              諸注意 】

               

              ◎初回の方は、事前にメールなどで

               ご連絡ください

               

              ◎必要であれば簡単な瞑想のレクチャーを

               しますので、ご希望の方は19:00からの

               初心者指導にご参加ください。

               

              ◎瞑想はフリースタイルで行います。

               時間だけ合わせて、ご自分のやり方で。

               音だけ出さない方法でお願いします。

               

              ◎当方宗教団体ではなく、勧誘や寄付の依頼

               などは全くありませんが、精神や死後に

               まつわる話なども軽挙雑多に取り上げ

               ますので、そういったものが嫌いな方は

               ご注意ください。

               

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              JUGEMテーマ:心理学

              2020.01.23 Thursday

              絡みあう舌

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                個々の人間は、いくつもの倫理を同時に持つことができない。

                 

                だとすれば私たちが考えねばならないことは「どの倫理を持つことが最も有益なのか?」ということだろう。

                 

                それは選択肢の中での取捨というよりも、スペクトラム上の位置取りの問題である。

                 

                小社会的な倫理と大社会的な倫理を対比して説明したが、これらは厳密にはっきりと線引きされて私たちの前にあるものではない。その人が人生を通して向き合う様々な現実環境の中で、場面場面歪に混交しつつ、時には小社会の答えと大社会の答えが人格破綻的にちぐはぐに結びつきながら、結果としてあるひとつの重心を示すようなものである。

                 

                (そして、そのような歪な倫理の混交と葛藤のストレスから逃れるために、人は強力なイデオロギーやカリスマを通して、自分の存在の倫理的側面が完全に統一されることを望む。あり得ない理想ではあるが。)

                 

                与えられた環境に応じて、小社会の倫理と大社会の倫理のいずれが有益(正しい倫理)なのかは異なってくる。

                 

                簡単に図示すると次のような関係がある。

                 

                 

                 

                 

                今日の世界統治の情勢は、こうした倫理の構造が破綻した様子を良く示している。世界が排他主義と理想主義に別れて相争うのは、小社会と大社会がお互いの長所短所といった特性を理解せず、悪戯に自分の側を絶対正義のように語ることから起きている。

                 

                それは恐らく、電子通信や生産技術の発達により、私たち個々の人間の感性や生き方が急激に多様化したこと、そしてこれまで誰も想像しなかったレベルで、世界中にくまなく相互監視の状態が構築されつつあることなどに起因するのだろう。

                 

                結果として、小社会の人にとっては大社会の人が、大社会の人にとっては小社会の人が、理屈の通じない、それでいて決して無視できぬ頭の痛い存在に変貌し、社会構造はマヒしてしまう。

                 

                このような体制の中で、排他主義者はその最大の武器である利権構造の集約を加速させはじめ、それは徐々に虚偽や横領などの集団秩序の腐敗を招く。反対に理想主義者にはメディアと世論とが大きな支援となるが、民衆の激情を煽ることに固執し始めると衆愚的な、中身のない熱狂的な破滅への道を先導するようになる。

                 

                今現在、この世界の情勢がどのような状態にあり、スペクトラムのどの位置が最も有益な戦略を提供するのかということは私にはわからないが、少なくとも、電子通信普及前に比べれば大社会の影響は非常に急速に増大しており、それ故にグローバリストや共産主義者のような類の人々が、大手を振って我が世の春と勘違いし得るような状況になっているのは確かだろう。

                 

                小社会の人は、集団が大きくなるにつれて大社会の視線とその影響を深く考慮せねばなるまい。また大社会の人は、自らの思想信条が唯一絶対の答えであり、それ以外の倫理が存在しないというような思い違いは、手放さねばなるまい。

                 

                 

                 

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                後記

                 

                このようなことを書き連ねてきて、私自身は、この小さな私たち人間の世界観に、いささか倦み疲れる所がある。小社会とか大社会とか、それはあくまで人間社会の中での規模の括りであって、倫理そのものはより大きく取れば、生命全体とか宇宙全体とか、その先まで更に拡大していく。

                 

                だが生憎、高度な倫理はある段階まで行くと、人類という種にとって極めて有害な側面を帯びてくる。それはちょうど、私たちが自分の人生設計をする時に腹の中の大腸菌の一生まで考慮したりはしないのと同じことで、高度な倫理は人類の滅亡や、この宇宙それ自体の消滅を確約している。

                 

                そのようなより”正しい”倫理は最早、人類にとってハビタブルなものとは言えないし、人類の団結や協調の為に役立つとも思えない。が兎に角、私は何らかの因果の結果として、そのような地点にまで進んだ(という空想を持つ)。そして後戻りできないことに気付く頃にはとっくに、私の倫理的感性、私の思想信条にとってこの人間世界は、ハビタブルなものとは言えなくなっていた。

                 

                私がこの社会に望むのはただ、私自身を同居可能な(願わくば、有益な)狂人として理解してもらうこと。それだけだ。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                2020.01.19 Sunday

                いくつもの舌

                0

                   

                  倫理とは範囲統制だ。

                   

                  それは生存繁栄のための戦略である。そして戦略は、置かれた状況が異なれば、当然その場その場での最適解も異なってくる。

                   

                  だから倫理は、常に範囲統制の文脈において考えねばならない。これはつまり、自分が所属し、利益と損害において自己と深く結びつけられたような範囲領域を、我々がどのように自認するかという問題である。

                   

                  幼児の倫理は肉体の倫理であり、彼の世界の中心は彼の肉体の中に存在する。彼は肉体の声に従わねばならない。

                   

                  子供の倫理は家庭の倫理であり、親や身近な大人、年長の家族に従うことが重要になる。

                   

                  青年の倫理は小社会の倫理であり、分断された部族的集団の中で、その集団の規範に従いながらその集団の利益を最大化する為に、外部と競争するような世界観を持つ。

                   

                  成人の倫理は大社会の倫理であり、それはあらゆる垣根を越えた人間存在全体の営みを表す概念としての、”社会”における最適解を模索する。

                   

                  その先にもいくつかの段階は想定できる。生物にとっての倫理、地球にとっての倫理、宇宙にとっての倫理、などのように倫理基準となる範囲を規定でき、採用する範囲が異なれば最適な倫理の形もまた大きく異なってくることになる。

                   

                  実際の所、この世界の時間や空間といった諸原則も、繰り返しの創造の中で気に入られた一種の試行形態に過ぎないと言う意味では、倫理的なものである。倫理は不変の真理などではない。それは繁栄のための戦略でしかないのだ。

                   

                  こうしたことを考える中で、我々は人間精神のある避けがたい限界構造が、軋んで叫び声を上げることを実感するかもしれない。その構造上の限界とは、我々個々の人間にとっては、倫理はそのように柔軟な形をしていないし、していてはいけないということである。

                   

                  倫理規範は、個々の人間にとって、その人の人格形成に深く結びついた要の柱のようなものである。それは簡単に入れ替えたり、素早く切り替えたりすることのできるものではない。

                   

                  人間は主体的に行動し、それぞれが独自の思想見解によって突き動かされている。そうした行動の原動力には、その人が自らの人格と共に築き上げてきた固有の倫理規範が大きく作用する。

                   

                  言い換えれば、人間の「所属自認」、自分がどの範囲において主体的な存在なのかという自認、家庭人なのか、会社人なのか、国家人か地球人か宇宙人か、はたまた私を中心とした私の為の宇宙を生きる自己至上主義者として自認するのか、という問題があって、この自認はその人の固有の経験から導き出される実感的認識だから、経験そのものが上書きされない限り修正されない、という事情がある。

                   

                  人間の倫理は所属する範囲によって決まり、それぞれの倫理は、並行して複数を持ったり、簡単に付け替えたりすることができない。私達の生命が、個的存在として確立されて生きるように設計されているためである。

                   

                  もしその設計を無視して自らの倫理をメタ的に操作し、安易に或いは強制的に倫理規範を更新したりすれば、私達は自分自身の人格構造に、根本的な不調和を生じさせることにさえなりかねないだろう。

                   

                   

                  JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                  2019.07.28 Sunday

                  悟りと見立て

                  0

                     

                    もしも私たちが精神修養を指導すべき立場にあるなら、修養者一人ひとりの精神をどのように成長させていけば良いか、その見立てを持たねばならない。

                     

                    自分が教わったこと一つ、これ一つやっておれば何とかなるだろうと、そんな粗雑な理解ではいけない。指導者は、修養を通して自らの精神に起きた変容の本質を良く分析理解し、そこから逆算して、まだそうでない人が先に行くためにはどのようなピースが必要なのかを考えねばならない。

                     

                    自己形成の課題を持っていたり、特別な環境下にある人についてはそれ相応の工夫が必要である。そうした個別の工夫を上げていけば人類70億通りのものがあり一口に言えないが、参考までに基本となる典型を次のように考えて良い。

                     

                    悟りの課題には、頭と心、この2つがある。

                     

                    頭とは論理や教学、賢さに関わること。

                     

                    心とは人間性や奉仕、心の豊かさに関わること。

                     

                    二つの課題の両方が整って始めて、悟りの段階は姿形が整う。頭だけ良くしても冷え切った哲学になり、心だけ良くしてもほとんど狂気に近い。

                     

                    両方を良い状態に育てていくことが必要だが、精神修養の始まりの段階では、一般的に男性は頭の部分はすんなり起きてくるのでこちらに偏重する。女性は心の動きを通して学ぶことがはっきりとわかりやすいので、そちらに偏重する。

                     

                    だから男性は仏教とか哲学などに適応が良く、女性は神秘主義や、キリスト教浄土真宗などの物語の教えと、奉仕活動に適応が良い。(あくまで典型であり、あてはまらない人も多いが)

                     

                    そして大体、偏重したままである程度の段階まで進み、最後の最後でもう片方の問題に行き詰まる。

                     

                    行き詰まって、ぶち当たって、この最後の壁を崩壊させたら、そのあたりで本人自覚するところがあるだろう。

                     

                    例として言えば、頭だけでやってきた人は、何かしら大変ショックな出来事でそれまでの情動や世界観が揺さぶられた時に壁を乗り越えたりする。

                     

                    心だけ育ててきた人は、整った良い教学を少しずつ学んでいく中で、いずれ物事の整合性がかちりと絡み合う、そのような霊的ひらめきで不意に視界が開かれることもあるだろう。(根本的に重要なのは、理論や知性の全ては遊戯に過ぎないと見抜くことだ。しかし弁が立たねば人に説明もできず、それ故教学のない人は確信が遠のいてしまう)

                     

                     

                     

                    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                    2019.07.24 Wednesday

                    悟りと男女

                    0

                       

                      一部の仏教などでは、女性は悟らないということが言われる。指導者たちは経験的にそう感じていたのだろう。

                       

                      男性も女性も、精神が成長すれば結局は悟りに進むという点では同じだ。

                       

                      だがその悟りかたには確かに違いがある。

                       

                      男性の脳内の言語世界、つまり論理的なものの考え方というのは、比較すればより緊密で強度が高く、それに伴って”私”概念も強い自立性、独立性を持つ。

                       

                      女性の脳内では肉体的な感覚などがより優先され、言語は感覚と強く結びついて、言語自体の独立性は低い。

                       

                      悪く言えば、脳機能的に見れば男は頭でっかちで、女は身体で考えるクセがある。

                       

                      こういう事情があって、悟りの現象が言語世界の瓦解と再構築を促すとき、その衝撃は女性よりもむしろ男性において、強烈なショックを持って起きてくる。

                       

                      (そもそも女性は、悟りの現象において言語世界の瓦解を必要としないことも多い。雨宮大慈曰く『女性は生まれつき悟っている』。だが言語世界に依存しないというその特徴が、女性の心とその修養過程をより捉え所のない曖昧なものにもしてしまうのだが。)

                       

                      強い言語世界を持つ男性は、女性よりも悟りの段階における衝撃が強いのだ。比較して言えば、女性はその段階に進んでもそこまで激烈な変容体験を起こさないので、このことが男性指導者をして「女性は悟らない」という誤解を抱かせるのだろう。

                       

                      だが見誤るべきでないのは、精神変容に伴って感ずる刺激や爽快感がどれほど強いか/浅いかなどという問題は、悟りの本質とは全く関係がないということだ。

                       

                      悟りという現象の恩恵はあくまで、その過程を経て生まれてきた人々の優れた素質と精神性が、私たちの生きるこの世界に発散され影響を波及させていく部分にこそある。

                       

                      そのような優れた性質を獲得しうるかどうかという点に着目して見比べてみれば、男女の性の違いは悟りの現象において根本的な問題ではないということがわかるだろう。

                       

                      ※便宜上ここでは男女という概念を典型的に扱うが、悪しからず。

                       

                       

                       

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