2019.07.13 Saturday

なぜ言葉は主体的なのか 

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    さて以上に述べてきたように、仝生貊朶弔私たちの精神処理過程の折り返し地点に位置すること、また言語循環は自己言及的な活動を通して半閉鎖された自律性を持つこと(ブラックボックス化されていること)、という二つの特徴的な構造によって、私たちが色や音といった肉体的な知覚よりも、言語的な意識の方をより「自分の本質に近い」精神内容である、と認識しやすいことが説明できるだろう。

     

    また発展的な考察として、ある構造の閉鎖性(半閉鎖性)というものが、主体意識、アイデンティティ、主客意識、彼我意識などを構築するための、普遍的な必須要素であるということが想像できる。

     

    「ある程度の閉鎖性を持つ部分が外部世界に関連付けられることによって、始めて主体性が生じる」とまとめて良いだろう。

     

    スポーツで言えば、“地球代表”の選手団というコンセプトが説得力を持つのは、私たちが地球以外の領域に知的生命体の住む場所を発見したとか、新たに開拓した場合だけであろう。

     

    またそうした選手団を”第××宇宙空間代表”のように、真空以外何もない宇宙空間の代表として勝手に選抜することもできまい。それは例えば地球という半閉鎖系の中で、自律した個々の世界の中から選抜されることによって、はじめて確かな意味を持つ。半閉鎖性こそ主体性の鍵なのである。

     

    さて、まとめになるが、言語領域はこのような半閉鎖性と精神処理過程内の配置により、他の知覚内容よりも主体性のある精神活動領域として私たちには感じられる。

     

    しかしその半閉鎖構造は、言語循環という高度な認知の連続的自己反射作用によって実現される疑似ブラックボックスであり、言語的な意識世界だけが、他の肉体的知覚とは違う精神の本質的作用である、というようなことを意味するものではないのである。

     

     

    ※補足として、ここでは深入りを避けたが、もとより言語作用は脳の複数領域が協働して相互のフィードバックの中で生み出すものであると今日では知られている。言語循環における連続的な言語の連なり、その複雑な修飾や文法精査などの働きは、視覚野や聴感覚などのセンスを多分に利用するものであることは疑いようがない。だから私は、簡略化のためそうした複雑な関係性を図の中に描いてはいないが、精神の複雑系が言語野のみに閉鎖された活動であるというようなことを言うつもりはない。それはむしろ、脳全体を言語世界の中に包括的に巻き込みながら閉鎖性を作り上げていく機構なのだと言えるだろう。

     

     

     

    JUGEMテーマ:心理学

    2019.07.13 Saturday

    なぜ言葉は主体的なのか 

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      次の図は、私なりの精神処理過程の理解と、それにおけるマインドフルネス理論の立ち位置を示すものである。

       

       

       

       

      精神についてのこの構造的理解は、ルドルフ・シュタイナーの精神一元論とC・G・ユング「タイプ論」(四機能説)を下敷きにして、用語を整理しそれぞれの順序に整合性を持たせたものである。

       

      簡単に説明すれば、精神の原始的で単純な領域は知覚ー欲求というサイクルによって成り立っており、私たち人間の複雑な言語的認識の世界は、その単純なサイクルの最中に言語的認識ー連想という複雑な拡張過程を挿入することで成り立っている、ということである。

       

      先ほど私は「ブラックボックス化」というマインドフルネス理論のラベリング技法のデメリットについて触れたが、上の図で言えばそれは複雑サイクルの言語的世界観の中から単純サイクル(およびその先に広がる肉体外の世界)を「切り離して、客観視している」という風に考えればわかりやすい。

       

      このような理解の下で、言語世界は私たちの精神処理過程の実質的な最奥部、突き当たりに存在するものなのだと言うことができるだろう。そしてその点にこそ、私たちが言語的な意識を自らの精神の中心であるかのように錯覚することの原因がある。

       

      ではさらに、この言語的な処理過程のより詳しい構造について考えよう。

       

       

       

       

      二つ目の図は、最初の図の右側、複雑サイクルの部分のみを取り上げたものである。最初の図で認識ー連想という二段階のプロセスで説明していた過程を、より詳しく四つの段階に細分化してある。

       

      ここに図示されることの特徴として、特に強調したい点は以下二つである。

       

      先ず、点線の枠で囲った部分に呼称を割り振った通り、この領域はそれ自らが独立して言語を循環させ続けるという半ば閉鎖的な自律性を持つことである。

       

      この閉鎖領域に知覚という入力を投じ、(連想能力によって修正された再知覚としての)欲求という出力を得る。この処理過程は外部からすると中身の見えない神秘的な乱数装置であり、その意味でまさに外界との直接的相関を持たないブラックボックスの性質を持つ。

       

      次に、言語循環の中の連続するプロセスが識語から始まり発語に終わる点に注目したい。処理過程の中での意義を分かりやすくするため識語/発語という語を用いているが、生理学的にはそれぞれ感覚性言語/動作性言語と読み替えても大凡の意味が通ずるだろう。

       

      この処理過程の一連の流れが示すのは、一度知覚内容が私たちの言語循環の中に入力されると、それは直ちに入力されたものに相応な程度の欲求を出力として返す、のではなく、認識した言葉に連なる別の語を連想し、自らに向けて内的に”発声”し、それをまた自らで認識して、というピンポンのような行程を繰り返すことで線的な繋がりのある言語を連ねていく性質がある、ということである。

       

       

       

      JUGEMテーマ:心理学

      2019.07.13 Saturday

      なぜ言葉は主体的なのか 

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        幻覚剤の使用や、脳内出血、側頭葉てんかんなどで見られるEgo-Dissolution(自己解散:認知内容の中で自分とそれ以外のものとの区別が付かなくなること。多くの場合、この経験の当事者は自己が解散した状態についてのはっきりとした記憶を持つ。またこの経験は幸福感に溢れた光の体験や、自分が消滅するという極限の恐慌状態を伴うことがあると報告される。)という現象を調べるにあたり、その現象と言語機能との関係はどのようなものかを考えた。

         

        つまり単純にではあるが、私はこの自己解散という現象は何らかの作用によって脳の言語野の活動が阻害される際に起こるという仮説を受け容れている。(ジル・ボルト・テイラー博士の有名な体験談を参照)

         

        そうしたことを踏まえて先ず最初に疑問に思うのは、「なぜ言葉はこれほどまでに客観的かつ主体的なものなのか?」ということである。

         

        このことはマインドフルネス瞑想の実践や、それについての理論の中でも時折議論されるが、自分の知覚や動作内容を言語を用いて実況する「ラベリング」の技法は厳密には意識の中に自己に対する客観的な視点を作り上げ強化してしまう側面があり、ひとまずは自己制御能力の向上と考えても良いであろうこの状態が、修養のある段階においては意識内容の完全な受容を妨げてしまう(精神の中に”客観視する私”というブラックボックスの領域を築いてしまう)ことがある。

         

        私たちの「今、ここ」の知覚内容とは伝統的な仏教思想において、即ち「色、音、感触、匂い、味」の五識であるが、上記のことに関連して私はここに「言(こと)」を加えて良いのではないかと思う。それほどまでに私たちの意識における言語作用は独立し自律的に常時働いているものである。

         

        が、にも関わらずこの「言」の意識がマインドフルネス理論の知覚対象として取りあげられることが少ないのは、この意識領域が私たちにとってあまりにも暗黙で、無意識かつ前提的なものであり、また私たちがこの領域の中に自己の自己たる所以を強固に見ているからかもしれない(我思う故に我在り)。

         

        私は禅の理論などをある程度理解しているので、精神の中に”私”を支えるような絶対的な構造物があるという風には考えない。なるほど言語領域はいかにも客観的、主体的なものと感じられ、この言葉の領域のみはまさに”私”という存在の中心から発しているのだという説得力を持つかもしれないが、それとても詳述すればいくらかの機能のコンプレックスが創発する、見た目上の機能に過ぎないだろうという確信を持つ。

         

        そこで再び前述の問題提起に戻るのだが、だとしたらなぜ、言葉の世界はこれほどの客観性及び主体性を私たちに確かに感じさせるのだろうか。そしてその主体的実感は、どのような神経の処理過程を通して実現されるのであろうか。

         

         

         

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        2019.06.15 Saturday

        魂のはじまる場所

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          例えば宗教的な思索の中で、インド哲学が述べる個我と大我のようなものを対比するとき――

           

          私たちはどうしても、大我の前提的な立ち位置を重視するあまり、ありのままの個我の存在の仕方であるとか、その自由、多様性などを否定しがちになる。

           

          だが、大我のある末端部分としての個我を否定するということは即ち、大我そのものを否定してしまうことにも繋がろう。

           

          私たちが真理に寄り掛かろうとするとき、そこに何か否定的な心を残しているのでは、本当に寄り掛かっているとは言えない。

           

          大事なのは、大我から生まれ来る個我、この個我としての私を否定するのではなく、この個我の上に、この個我を通して、更に大我の有り様を美しくまざまざと描き出すことではないだろうか。それが真理と我々との、本当の繋がりということになりはしないか。

           

          あるより大きな真理を拠り頼もうとして、今目の前の現実を否定するということがあってはなるまい。

           

          私たちのバウンダリーは極度に集積された神経の相互作用によって生まれるから、その根源である純粋意識の存在を覆い隠してしまうという意味では、確かに余計な遮蔽物であり、私たちの精神を閉じ込める檻のようなものにもなりかねない。

           

          が、だからと言って私たちがバウンダリーを忌避するとすればそれは、直ちに自らの生命そのものを否定し、結末的には純粋意識の意図それ自体を否定することになりはしないか。

           

          であればやはり、私たちはバウンダリーを否定してはいけない、どころか、それを肯定し受け入れねばなるまい。そしてその上に、バウンダリーを通して、バウンダリーの先に、更に純粋意識の揺るぎなく輝く世界を、まざまざと描き出さねばならないのだ。

           

           

           

           

           

           

          JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

          2019.05.05 Sunday

          目を閉じ耳を塞ぎ、口も聞けずに、心開いて

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            このブログ、毎日書こうと思っていたのですが、だんだんサボり気味になってきました。

             

            こういうのも一つの感性の変化というか、大げさに言えば人格の変容というものなのかもしれませんね。

             

             

             

            『気付く』、ということについて。

             

            誰が言ったものだったか、「もしも私たちが自分の問題に気付くことができたならば、その時すでに改善ははじまっている」という言葉があったと思います。

             

            前向きで良い言葉ですよね。失敗して落ち込んだときなどのために、胸に刻んでおきたい一節です。

             

            一方でこれは、次のように言い換えることもできるでしょう。

             

            「自分に問題があると気付くまでは、進歩や改善はない」

             

            自分自身で気付くも良し、他人から指摘されて気付くも良し。我が身の問題に気付けるということは、本当にありがたいことです。(幸いなりいやしくも過ちあれば人必ずこれを知らんことは)

             

            自分に問題があると気付く――ここで言う”気付く”というのは、単に人から言われるとか、物事を失敗するという以上のことではないでしょうか。

             

            それよりももっと深く、事実の因果関係を認識して、それが自分自身に責を負うべき問題であると“受け入れる”ことを指していると思います。

             

            問題を受け入れるために必要なこと。客観性。公平性。勇気。覚悟。真実への信頼。

             

            いくらか挙げてはみましたが、みなどれも得がたいものです。

             

             

             

             

             

             

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            2019.05.01 Wednesday

            Turn off the light, take a deep breath and relax

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              特に深い意味も無い、着想の吐露。

               

              意識というものは、量子が粒子としての形を確定する際に生まれる余剰エネルギーであると思っている。

               

              有名な二重スリット実験の結果が私たちの「観測という行為そのもの」に影響を受けることの説明として、この考えは一つの仮説を成し得るだろう。

               

              超実存的な考え方で言うところのバウンダリー、私たち一人分の閉じた心の宇宙というのは、この余剰エネルギーの側で形作られるものであろう。

               

              というのは、そう考えることで、バウンダリーと物質宇宙という二つの、似通ってはいるが同一ではない、影響を受けてはいるが完全に束縛されてはいない別々の宇宙の関わりを上手く描写できるからだ。

               

              ただ、付け加えて言わなければならないが、純粋な意識そのものを私たちが日常の生活の中で感じ取ることはほとんどない。私たちが自らの心として感ずるのはあくまで、過密に集積された脳内素粒子の、極めてプログラム的な指向性を持った高次構造物なのだ。

               

              それはちょうど、意識そのものを光だとしたら、私たちが心として感ずるのはその光の映写によって描き出された映画の風景のようなものだ、と言えばわかりやすい。

               

              色や音や感触などの知覚、それらはスクリーンの上に映し出された映画の中の認識対象であって、純粋な意識というのは、フィルムが回り終えて空になった後も、なお変わらずスクリーンに投射される真っ白な光のようなものである。

               

              そしてそのような純粋意識は、日常一般の生活では捉えられず、ただ例えば深い瞑想の折りに、私たちがそこから目覚めたとき何となく精神に残る陰影としてだけ感じられるような類いのものだと言える。

               

              純粋な意識をコンピュータの1ビットだとすれば、私たちが知覚とか心と呼んでいるものは、コンピュータ上の高度なプログラムである。このプログラムによって閉鎖された(ように見える)領域を、バウンダリーと呼ぶのだと定義しても良いかも知れない。

               

              これらのことを逆の視点から見て言うと、また次のようなことが言える。

               

              それは、私たちの心は、実は物質宇宙というものに全くというほど手を触れたことがない、という事実である。私たちは意識で作られた知覚、つまりプログラムを見ていて、純粋意識の1ビットを感ずることは殆どない。

               

              物質宇宙は、この純粋意識と物質が素粒子の定常的なエネルギー形態から分割されて生み出される時に、純粋意識の影、別の言葉を用いれば我々の意識世界から見た反宇宙の側に構築されるものなのだから、私たちがそちら側の世界を感じ取るためには、純粋意識の陰影を通して、さらにその先にある物質宇宙の陰影を感じ取らねばならない、ということになる。

               

              バウンダリーを形づくる純粋意識について、シュレディンガーの猫の例えをとって「もう一匹の猫」と述べたことがある。箱の中に残るのが物質として確定された状態の(生きているか或いは死んでいるかいずれかの)猫の姿だとしたら、それを認識し知覚するための私たちの心の領域は、「居なくなったもう一匹の猫」によって支えられているのではないか。

               

              意識、という箱を開けるためのエネルギー活動は即ち、量子から分割された粒子体確定時の余剰エネルギーなのではないか。だとしたらやはり「箱を開けたのは、もう一匹の猫」なのではないか、という趣旨の例えであった。

               

              今こう書いてみて、純粋意識と物質宇宙のどちらがより私たちの精神世界に近いかということを鑑みるにだんだん、「もう一匹の」という修飾語は、箱を開けられて、そこから出てきた方の猫に相応しいのではないか、ということを思い始めた。

               

              何故なら、私がこれまで「もう一匹の」と呼んでいた方の猫は、他でもない、私たち自身の心そのものを指しているのだから。

               

               

               

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              2019.04.26 Friday

              倫理の大きさ、寛容の階段

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                心理療法家と一般人の一番の違いは、病んだ心に対する寛容さの違いであると思います。

                 

                社会一般の人は基本的に、精神疾患になることを悪いこと、あってはならない、おぞましく恥ずかしいことだと捉えます。

                 

                心理療法家は、そうではなくて精神疾患とは誰にでも起こり得る事象であって、特別なことではないし、ましてや救いようのない悪なんかでは全然ないと考えるでしょう。

                 

                そういう部分に、精神疾患という事象に対する態度の違いや、優しさ前向きさなどの程度の違いが出てくるのです。(病を”悪”だと捉えている人は、病のありのままの形、その深い意味や訴えに気付けない。)

                 

                社会やこの世界に対しての、道徳や倫理観をどう持つか。

                 

                それがその人の現実に対する適応力を決めるのだと、そう言うこともできるでしょう。

                 

                さてここでまた、心理療法家と宗教家の違いは何であるかということも掘り下げられます。

                 

                宗教家の倫理観などは玉石混淆であって、了見の狭いのから広いのまで色々あるのですが、特に私のような実存主義的な宗教家の場合、その倫理の尺度というものは際限なく大きくなっていく傾向があります。

                 

                寛容さ。受け入れ。それを規定する天秤としての、倫理観。

                 

                心理療法家であれば、精神病理に対してだけ寛容であればそれでいいのかもしれません。がしかし、それで果たして真の”全人的ケア”を成し得るのかというと、個人的には疑問を抱きます。

                 

                ケアパーソンは、出来得ることならば、可能な限り大きな人間存在についての哲学と倫理を持つべきではないでしょうか。

                 

                教誨師がその口で死刑囚に対しても神の慈悲を伝えるように、可能な限り大きな、人間に対しての賛美と許しを。

                 

                王族も貴族も平民も、病める人も壮健な人も、千人を救った聖者、百人を殺めた犯罪者も、人も虫も光も暗黒物質も、何もかもを平等に包み込む、偉大なひとつの太陽――揺らぐことのない、万人への途方もない大輪の”はなまる”を、そんなものを宗教家としての私は見出したいのです。

                 

                 


                 

                 

                 

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                2019.04.21 Sunday

                幻肢痛

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                  完全な自由の中では、人は自己を特定することができない。

                   

                  制約のない創造は、とりとめのない明晰夢のように霧散してしまう。

                   

                  魂の恩寵さえグラビトンの幻影に過ぎないのだとしたら、私たちも、私たちのこの世界も、乱れた場の力学の中の杞憂でしかないのかもしれない。

                   

                  私たちがアリであった時代には、私たちは天のことを考えなかった。

                   

                  私たちが人になって久しい頃から、天は私たちにもの足りなくなっていった。

                   

                  『存在の耐えられない希薄さ』

                   

                  怪しげな文体で、誰かが壁にそう書いた。それを見てまた、他の誰かが呟いた。

                   

                  「いいやきっと、私たちは、自分自身の存在が”理屈よりも重すぎること”に耐えられないのだ」

                   

                  私たちがアリであった時代、私たちは、まだ、自分自身の重さについて考えたことがなかった。

                   

                   

                   

                   

                   

                  書くことがないのでポエムでお茶を濁すテスト・・・

                   

                   

                   

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                  2019.04.15 Monday

                  見牛

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                    どうしてだろう。”信用”の問題について考えていると何故かいつも、”ギャンブル”という単語を連想する。

                     

                    ギャンブル。世間一般で公認されているギャンブルと言えば、真っ先に思い浮かぶのはパチンコ。

                     

                    あとは麻雀に、最近では仮想通貨というのもそうか(革新的な技術もこうなっては残念なことだ)。

                     

                    信仰とは、保証された期待。

                     

                    多分そうだ。期待。その一点で私の見ている歪みは収束する。

                     

                    期待、人間の期待。それは単純な生理的欲望ではない。

                     

                    それは保証された期待。より良くあることへの、次の段階へ行くことへの。エゴ・アイディアル、我々を照らすもの、シャドウを生み出すもの、偶像、太陽、フレア、我々の期待。

                     

                    目的なき期待、対象のない欲求、何を手に入れれば良いのかも知らない悪戯な願望は、取り急ぎ貨幣や地位などの価値の代替物を求める。堅実な道か、博打的な道か。それは大した問題ではない。

                     

                    期待。良くなること。私たちは、自分がどうあるべきかわからない。理想は見出せない。そんなものはどこにもない。

                     

                    けれど、行く先を選べない欲求がある。それは確かにある。震える舌の上で、ざらついた指の先で、電気信号がかすかな麻痺を生み出す。

                     

                    超自我の幻想。超自我の病。我々を照らす太陽。だが、誰が一体、太陽そのものを照らせるのか?

                     

                     

                     

                     

                     

                    我ながらこのブログ、最近好き放題つぶやきみたいに書いてるなぁ・・・。読んでくださっておられる方、どうも申し訳ありません。

                     

                     

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                    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                     

                     

                    2019.04.12 Friday

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                      信用と情報。

                       

                      現代の金融市場では、株式取引の9割がプログラムによる自動取引、という話がある。

                       

                      中でも、決められたアルゴリズムに沿って1秒間に数千回という単位で取引を繰り返す超高速取引などは、すでに我々人間の想像を超えた論理判断で市場にダイナミズムを生み出しており、その不気味さと危険性から規制強化も進められている。

                       

                      風が吹けば桶屋が儲かる。そういう話。

                       

                      季節が来れば一斉に花が咲くように、群れの一番外側の個体の突発的な動作が群れ全体に波及していくように、そして今ここで草むらから飛び立つ蝶の羽ばたきひとつが、地球の裏側で巨大な台風を巻き起こす因果の糸を紡ぐように。

                       

                      つまりは今時、市場経済を動かすのにはほんのちょっとの刺激があれば事足りる。もちろん私たち人間には、機械がどの刺激を好んでどの情報をサインに行動を変化させていくのか、ということまでは計算できないのだが。

                       

                      だがそうした機械達の行動の変化も、発端はどこかの誰か、つまり人間の判断の変化に起因して、それに刺激され起こっていくものだろう。

                       

                      だとしたら市場経済を混乱させるには、ほんの少しだけ、経済的にインパクトのある事象を情報として演出してやれば良いのではないか。

                       

                      例えばトランプ大統領がメキシコとの国境開放についてコメントしたら。中国との貿易の推進、或いは日本の軍国化への不快感を表明したら・・・しかもさらに、その全ての情報が同じタイミングで一斉に、複数のSNSに投稿されたとしたらどうだろう。

                       

                      ほんの一瞬、人間達を騙すニュースを作ることは難しくない。もちろん、彼らはすぐにその大ニュースがフェイクであることに気付くだろう。

                       

                      だがその一瞬、ほんの少しの時間だけで、情報が市場に与える影響は一気に膨れ上がり、元々の事象と無関係にそれ独自の経済的結末を形成していくのではないか。

                       

                      信用が、所詮は情報によって作り上げられる虚構に過ぎないのだとしたら、私たちはその同じ”情報”というプロトコルを通して、信用を破壊することも出来る・・・のかもしれない。

                       

                      (ただ実際には、そう簡単に市場システムがダメージを受けたりはしないだろう。およそどのような有機物だって、当然の様に免疫力と回復作用を持ち合わせているのだから。)

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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