2019.05.05 Sunday

目を閉じ耳を塞ぎ、口も聞けずに、心開いて

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    このブログ、毎日書こうと思っていたのですが、だんだんサボり気味になってきました。

     

    こういうのも一つの感性の変化というか、大げさに言えば人格の変容というものなのかもしれませんね。

     

     

     

    『気付く』、ということについて。

     

    誰が言ったものだったか、「もしも私たちが自分の問題に気付くことができたならば、その時すでに改善ははじまっている」という言葉があったと思います。

     

    前向きで良い言葉ですよね。失敗して落ち込んだときなどのために、胸に刻んでおきたい一節です。

     

    一方でこれは、次のように言い換えることもできるでしょう。

     

    「自分に問題があると気付くまでは、進歩や改善はない」

     

    自分自身で気付くも良し、他人から指摘されて気付くも良し。我が身の問題に気付けるということは、本当にありがたいことです。(幸いなりいやしくも過ちあれば人必ずこれを知らんことは)

     

    自分に問題があると気付く――ここで言う”気付く”というのは、単に人から言われるとか、物事を失敗するという以上のことではないでしょうか。

     

    それよりももっと深く、事実の因果関係を認識して、それが自分自身に責を負うべき問題であると“受け入れる”ことを指していると思います。

     

    問題を受け入れるために必要なこと。客観性。公平性。勇気。覚悟。真実への信頼。

     

    いくらか挙げてはみましたが、みなどれも得がたいものです。

     

     

     

     

     

     

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    JUGEMテーマ:心理学

     

     

    2019.05.01 Wednesday

    Turn off the light, take a deep breath and relax

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      特に深い意味も無い、着想の吐露。

       

      意識というものは、量子が粒子としての形を確定する際に生まれる余剰エネルギーであると思っている。

       

      有名な二重スリット実験の結果が私たちの「観測という行為そのもの」に影響を受けることの説明として、この考えは一つの仮説を成し得るだろう。

       

      超実存的な考え方で言うところのバウンダリー、私たち一人分の閉じた心の宇宙というのは、この余剰エネルギーの側で形作られるものであろう。

       

      というのは、そう考えることで、バウンダリーと物質宇宙という二つの、似通ってはいるが同一ではない、影響を受けてはいるが完全に束縛されてはいない別々の宇宙の関わりを上手く描写できるからだ。

       

      ただ、付け加えて言わなければならないが、純粋な意識そのものを私たちが日常の生活の中で感じ取ることはほとんどない。私たちが自らの心として感ずるのはあくまで、過密に集積された脳内素粒子の、極めてプログラム的な指向性を持った高次構造物なのだ。

       

      それはちょうど、意識そのものを光だとしたら、私たちが心として感ずるのはその光の映写によって描き出された映画の風景のようなものだ、と言えばわかりやすい。

       

      色や音や感触などの知覚、それらはスクリーンの上に映し出された映画の中の認識対象であって、純粋な意識というのは、フィルムが回り終えて空になった後も、なお変わらずスクリーンに投射される真っ白な光のようなものである。

       

      そしてそのような純粋意識は、日常一般の生活では捉えられず、ただ例えば深い瞑想の折りに、私たちがそこから目覚めたとき何となく精神に残る陰影としてだけ感じられるような類いのものだと言える。

       

      純粋な意識をコンピュータの1ビットだとすれば、私たちが知覚とか心と呼んでいるものは、コンピュータ上の高度なプログラムである。このプログラムによって閉鎖された(ように見える)領域を、バウンダリーと呼ぶのだと定義しても良いかも知れない。

       

      これらのことを逆の視点から見て言うと、また次のようなことが言える。

       

      それは、私たちの心は、実は物質宇宙というものに全くというほど手を触れたことがない、という事実である。私たちは意識で作られた知覚、つまりプログラムを見ていて、純粋意識の1ビットを感ずることは殆どない。

       

      物質宇宙は、この純粋意識と物質が素粒子の定常的なエネルギー形態から分割されて生み出される時に、純粋意識の影、別の言葉を用いれば我々の意識世界から見た反宇宙の側に構築されるものなのだから、私たちがそちら側の世界を感じ取るためには、純粋意識の陰影を通して、さらにその先にある物質宇宙の陰影を感じ取らねばならない、ということになる。

       

      バウンダリーを形づくる純粋意識について、シュレディンガーの猫の例えをとって「もう一匹の猫」と述べたことがある。箱の中に残るのが物質として確定された状態の(生きているか或いは死んでいるかいずれかの)猫の姿だとしたら、それを認識し知覚するための私たちの心の領域は、「居なくなったもう一匹の猫」によって支えられているのではないか。

       

      意識、という箱を開けるためのエネルギー活動は即ち、量子から分割された粒子体確定時の余剰エネルギーなのではないか。だとしたらやはり「箱を開けたのは、もう一匹の猫」なのではないか、という趣旨の例えであった。

       

      今こう書いてみて、純粋意識と物質宇宙のどちらがより私たちの精神世界に近いかということを鑑みるにだんだん、「もう一匹の」という修飾語は、箱を開けられて、そこから出てきた方の猫に相応しいのではないか、ということを思い始めた。

       

      何故なら、私がこれまで「もう一匹の」と呼んでいた方の猫は、他でもない、私たち自身の心そのものを指しているのだから。

       

       

       

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      2019.04.26 Friday

      倫理の大きさ、寛容の階段

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        心理療法家と一般人の一番の違いは、病んだ心に対する寛容さの違いであると思います。

         

        社会一般の人は基本的に、精神疾患になることを悪いこと、あってはならない、おぞましく恥ずかしいことだと捉えます。

         

        心理療法家は、そうではなくて精神疾患とは誰にでも起こり得る事象であって、特別なことではないし、ましてや救いようのない悪なんかでは全然ないと考えるでしょう。

         

        そういう部分に、精神疾患という事象に対する態度の違いや、優しさ前向きさなどの程度の違いが出てくるのです。(病を”悪”だと捉えている人は、病のありのままの形、その深い意味や訴えに気付けない。)

         

        社会やこの世界に対しての、道徳や倫理観をどう持つか。

         

        それがその人の現実に対する適応力を決めるのだと、そう言うこともできるでしょう。

         

        さてここでまた、心理療法家と宗教家の違いは何であるかということも掘り下げられます。

         

        宗教家の倫理観などは玉石混淆であって、了見の狭いのから広いのまで色々あるのですが、特に私のような実存主義的な宗教家の場合、その倫理の尺度というものは際限なく大きくなっていく傾向があります。

         

        寛容さ。受け入れ。それを規定する天秤としての、倫理観。

         

        心理療法家であれば、精神病理に対してだけ寛容であればそれでいいのかもしれません。がしかし、それで果たして真の”全人的ケア”を成し得るのかというと、個人的には疑問を抱きます。

         

        ケアパーソンは、出来得ることならば、可能な限り大きな人間存在についての哲学と倫理を持つべきではないでしょうか。

         

        教誨師がその口で死刑囚に対しても神の慈悲を伝えるように、可能な限り大きな、人間に対しての賛美と許しを。

         

        王族も貴族も平民も、病める人も壮健な人も、千人を救った聖者、百人を殺めた犯罪者も、人も虫も光も暗黒物質も、何もかもを平等に包み込む、偉大なひとつの太陽――揺らぐことのない、万人への途方もない大輪の”はなまる”を、そんなものを宗教家としての私は見出したいのです。

         

         


         

         

         

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        2019.04.21 Sunday

        幻肢痛

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          完全な自由の中では、人は自己を特定することができない。

           

          制約のない創造は、とりとめのない明晰夢のように霧散してしまう。

           

          魂の恩寵さえグラビトンの幻影に過ぎないのだとしたら、私たちも、私たちのこの世界も、乱れた場の力学の中の杞憂でしかないのかもしれない。

           

          私たちがアリであった時代には、私たちは天のことを考えなかった。

           

          私たちが人になって久しい頃から、天は私たちにもの足りなくなっていった。

           

          『存在の耐えられない希薄さ』

           

          怪しげな文体で、誰かが壁にそう書いた。それを見てまた、他の誰かが呟いた。

           

          「いいやきっと、私たちは、自分自身の存在が”理屈よりも重すぎること”に耐えられないのだ」

           

          私たちがアリであった時代、私たちは、まだ、自分自身の重さについて考えたことがなかった。

           

           

           

           

           

          書くことがないのでポエムでお茶を濁すテスト・・・

           

           

           

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          2019.04.15 Monday

          見牛

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            どうしてだろう。”信用”の問題について考えていると何故かいつも、”ギャンブル”という単語を連想する。

             

            ギャンブル。世間一般で公認されているギャンブルと言えば、真っ先に思い浮かぶのはパチンコ。

             

            あとは麻雀に、最近では仮想通貨というのもそうか(革新的な技術もこうなっては残念なことだ)。

             

            信仰とは、保証された期待。

             

            多分そうだ。期待。その一点で私の見ている歪みは収束する。

             

            期待、人間の期待。それは単純な生理的欲望ではない。

             

            それは保証された期待。より良くあることへの、次の段階へ行くことへの。エゴ・アイディアル、我々を照らすもの、シャドウを生み出すもの、偶像、太陽、フレア、我々の期待。

             

            目的なき期待、対象のない欲求、何を手に入れれば良いのかも知らない悪戯な願望は、取り急ぎ貨幣や地位などの価値の代替物を求める。堅実な道か、博打的な道か。それは大した問題ではない。

             

            期待。良くなること。私たちは、自分がどうあるべきかわからない。理想は見出せない。そんなものはどこにもない。

             

            けれど、行く先を選べない欲求がある。それは確かにある。震える舌の上で、ざらついた指の先で、電気信号がかすかな麻痺を生み出す。

             

            超自我の幻想。超自我の病。我々を照らす太陽。だが、誰が一体、太陽そのものを照らせるのか?

             

             

             

             

             

            我ながらこのブログ、最近好き放題つぶやきみたいに書いてるなぁ・・・。読んでくださっておられる方、どうも申し訳ありません。

             

             

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            2019.04.12 Friday

            touch a code

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              信用と情報。

               

              現代の金融市場では、株式取引の9割がプログラムによる自動取引、という話がある。

               

              中でも、決められたアルゴリズムに沿って1秒間に数千回という単位で取引を繰り返す超高速取引などは、すでに我々人間の想像を超えた論理判断で市場にダイナミズムを生み出しており、その不気味さと危険性から規制強化も進められている。

               

              風が吹けば桶屋が儲かる。そういう話。

               

              季節が来れば一斉に花が咲くように、群れの一番外側の個体の突発的な動作が群れ全体に波及していくように、そして今ここで草むらから飛び立つ蝶の羽ばたきひとつが、地球の裏側で巨大な台風を巻き起こす因果の糸を紡ぐように。

               

              つまりは今時、市場経済を動かすのにはほんのちょっとの刺激があれば事足りる。もちろん私たち人間には、機械がどの刺激を好んでどの情報をサインに行動を変化させていくのか、ということまでは計算できないのだが。

               

              だがそうした機械達の行動の変化も、発端はどこかの誰か、つまり人間の判断の変化に起因して、それに刺激され起こっていくものだろう。

               

              だとしたら市場経済を混乱させるには、ほんの少しだけ、経済的にインパクトのある事象を情報として演出してやれば良いのではないか。

               

              例えばトランプ大統領がメキシコとの国境開放についてコメントしたら。中国との貿易の推進、或いは日本の軍国化への不快感を表明したら・・・しかもさらに、その全ての情報が同じタイミングで一斉に、複数のSNSに投稿されたとしたらどうだろう。

               

              ほんの一瞬、人間達を騙すニュースを作ることは難しくない。もちろん、彼らはすぐにその大ニュースがフェイクであることに気付くだろう。

               

              だがその一瞬、ほんの少しの時間だけで、情報が市場に与える影響は一気に膨れ上がり、元々の事象と無関係にそれ独自の経済的結末を形成していくのではないか。

               

              信用が、所詮は情報によって作り上げられる虚構に過ぎないのだとしたら、私たちはその同じ”情報”というプロトコルを通して、信用を破壊することも出来る・・・のかもしれない。

               

              (ただ実際には、そう簡単に市場システムがダメージを受けたりはしないだろう。およそどのような有機物だって、当然の様に免疫力と回復作用を持ち合わせているのだから。)

               

               

               

               

               

               

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              2019.04.08 Monday

              anything glitters

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                引き続き、信用の話。

                 

                社会で売り買いされる”信用”の中でも、最も安定して高値がつくのは”学歴”ではないだろうか。

                 

                学歴というのは、何を保証するものだろう?

                 

                それは人格や、技術習得の能力を保証する、或いは、世間への適応力や共感力を保証するのか。

                 

                多分、違う。

                 

                学歴というのは、それが社会的に選別された品種であることを保証するのだろう。

                 

                ある程度の知的才能と、家庭の経済力、両親の教育意識や人脈などの相乗効果が生み出す結果として、その個人が振るいに掛けられた優性種であることを証明する何かなのではないか。

                 

                (或いは、ある程度の振るいに掛けられても、『耐えられる』条件を持った個体であることを証明する――)

                 

                何にせよ本質的に重要なことは、”選別された”という事実であって、その当人が学業を行ったとか、どれくらい才能があるかといったことではないのかもしれない。

                 

                もちろん、教育や学業はその為だけにあるのではないだろうけれど、現代この社会の中でそのような”保証機関”としての大学の役目が強調され高まっているのではないかということを、個人的な雑感として感じる。

                 

                仮にそうだとしたら、この場合、学問とか教育というものは、個々の人間の素質を伸ばすためではなく一人ひとりの能力の限界テストを行うためのものだと言える。

                 

                つまり、学問というのは、人間を良くするものではなく、良い人間を選り抜いて悪い人間を削り落とすためのものだということだ。

                 

                ハゲタカジャーナル、というのが最近話題になった。誰でもお金を払えば、内容の検証などせずに論文を掲載してくれる学術誌のことだそうだ。お金を払った側は、海外の学術誌に論文が掲載された、ということで社会的な信用を買うことができる。

                 

                いかにも私たちの時代らしい商売である。

                 

                学歴というのも、もう既にそんなのがあるかもしれない。『私はスイスの大学を出ています』なんて言われると、私たちは弱い。多分、私自身もそういう人の前では、無条件に気後れしてしまうだろう。

                 

                信仰とは、保証された期待――

                 

                社会的な”信用”の先に、私たちは一体、本当は何を求めているのだろう?

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                2019.04.07 Sunday

                君たちの世界創造

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                  最近では置かれた立場の関係上、労働、生産、価値の創出などについてよく考える。

                   

                  世の中を見渡すと、何かを生産する労働よりも、何も生産しない労働の方がずっと報酬が多いように見える。

                   

                  一体どうしてなのだろう?

                   

                  こう言い換えた方が良いかもしれない。

                   

                  私たちは経済というものを通して、本当は何をしているのだ?

                   

                  私たちは本当は、一体何を売っているのだ?

                   

                  そういう不思議な経済の動きに注目する上で、極端なサンプルとして、”ネットビジネス”は一考に値すると思う。

                   

                  ネットビジネス、古くはマクロ商法とかネズミ講と呼ばれたもの。

                   

                  だが今では、それは単なる詐欺に留まらず、実際に特定の個人法人への投資を促し資本の流動性を高めるという、マクロ経済的には実に意味のある経済活動の一翼を成してすらいる。

                   

                  そうしたやり方は営業活動などの領域で他の産業分野にも伝播して、私たちの経済は、少しずつ着実に”ネットビジネス化”してきてもいると思う。

                   

                  一体、私たちは本当は、何を売っているのだ?

                   

                  考えていて、『信用創造』というキーワードを思い浮かべる。信用の創造とは良く言ったものだ。それは今日の私たちの社会の本質を、上手く説明した言葉かもしれない。

                   

                  信用は、純粋な貨幣価値そのものではない。信用は、実際には貨幣を必要としないのだ。それは貨幣以外のものを通しても生まれうる。

                   

                  (例えば、情報、などを通して)

                   

                  信用創造は、貨幣以外のものを通しても起こり得る。そして正しくネットビジネスの草分けである彼らは、それを実際に行動に移しているのだろう。

                   

                  そうだ、私たちはこの社会の中で、信用を作り、それを売っているのだ。それがこの経済の主流で起きていることだ。

                   

                  そこで考える。

                   

                  信用とは何だろう。それは何故そこまで高値で売れる物なのだろう。実体がないのに、嘘かも知れないのに、私たちは何故、それに高値を付けても良いと思うのだろうか。

                   

                  信用とは何だ。何故人間は、それを好むのだ?

                   

                   

                   

                  信仰とはいったい何でしょう。それは、望んでいることが必ずかなえられるという確信です。また、何が起こるかわからない先にも、その望んでいることが必ず待っていると信じて疑わないことです。神を信じた昔の人たちは、この信仰によって賞賛されました。信仰によって私たちは、この世界が神のことばによって造られ、しかも、それらが無から創造されたことを知るのです。

                   

                   -ヘブライ人への手紙 11章1-3節

                   

                   

                   

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                  JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                   

                   

                  2019.04.06 Saturday

                  WC?

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                    実存に関する仕事をしていると当然のように、「これは宗教ですか?」という質問を受けます。

                     

                    この質問は答えに困りますね。私がやっていることは勿論宗教なのですが、だからと言って『宗教ですよ』と言えば「どこの団体?」という話になります。

                     

                    その、どこの団体?の話になった時が問題で。

                     

                    私はどこの集団にも所属していないので、強いて聞かれれば『個人です』と答えることになります。

                     

                    でも、個人です、というのではなかなか。「ああ、個人でやっている宗教なんだね」と納得してはもらえません。むしろ大体、相手の頭が?マークで一杯になるのが表情から見て取れて、こちらも一緒に困ってしまう羽目になります。

                     

                    恐らく、私たち日本人にとって、”宗教をしている”というのは「ある特殊な集団を信じて、そこに所属する」というコミュニティの問題を意味しているのだと思います。

                     

                    問題は”属する”ことであって、何かを”考える”ことではないのです。そしてむしろ、世界の成り立ちや行く末について自分の頭で”考える”人たちは、あまり宗教的な人間ではない、とこの社会では信じられているのでしょう。

                     

                    盲従、というものは、現代では政治的な場面や経済的な場面でこそより多く見られるものです。例えば右派左派の話であるとか、ある組織に対する盲目な従属、会社の為に行う汚職や、ブラック企業や悪徳会社で働く労働者などにおいて当たり前に見られる現象です。

                     

                    ある時期から、日本では”宗教”という言葉が盲信や、現実から目を背けること、などなどの悪い意味で考えられていたのですが、実はその悪い部分というのは、今では別の分野に乗り移ってしまったのです。

                     

                    つまり私たちは、”宗教”という言葉を“盲信”と読み替えて使っています。「宗教をしています」と言えばそれは、「私はどこそこの盲信者です」という意味合いになっているのです。

                     

                    それで、例えば私がこの世界において、「何も信じない」という純粋に宗教的な立場に立とうとすると、私たちの頭の中にある前提が邪魔をします。

                     

                    『盲信しない宗教などない、宗教をしている人は、必ずどこかの団体に所属しているはずである。』

                     

                    これが私たちの作り上げた固定観念なのです。

                     

                    私はどこの団体にも属さず、キリスト教も仏教もヒンズー教もイスラム教も勉強しており、ジャイナ教とシク教とブードゥーと天理教と金光教と霊友会とあらゆる神秘主義、魔術、オカルトなどのサブカルチャー及び新興宗教、土着信仰などに深い興味を抱く個人宗教家です。

                     

                    と、言ってみたところで世間からすれば、どうやらどこかの団体に所属していない私は”宗教”ですらないらしいのだから、まったく世の中というのはひねくれているものだ、とただただ、ため息をつくばかりです。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    2019.04.02 Tuesday

                    正なるもの

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                      正しさとは何か。正常とは何か。

                       

                      このことを考える時、頭に浮かぶのは禅の言葉。

                       

                      『長空に剣を振るう』

                       

                      (元は『剣を長空に』らしいけれど、語呂が悪いのでこう覚えた。)

                       

                      以前何かの本で、居合いを学んでいる心理士だかが、『自分の迷いを切る』ようなつもりで剣を振るう、というようなのを読んだことがある。

                       

                      心理の世界は深い予測と期待、そして失望の世界でもあり、治療といいつつそう簡単に”治る”ほど人の心は安くない、ということもある。

                       

                      だから、ひたすら迷う中で迷い続けつつも処置をしなければならない、という状況に追い詰められたキャラクターの心中を表す描写として、この『自分の迷いを切る』というのは確かにわかりやすい。

                       

                      しかし、それではまだ完成ではないなと思う。それは今一歩、完全な所へは辿り着いていない。

                       

                      多分、そのように多分な迷いをはらんだ世界で”正しく”あるというのは、もっと何というか、受け身が取れていないと、押し潰されたり押し流されてしまうような気がする。

                       

                      『長空に剣を振るう』

                       

                      そういう感覚が必要だと思う。

                       

                      全体としては、迷っている。何を切るということでもなく、無為である。大らかで、無目的で、和らいでいる。

                       

                      そしてその全体としては迷いつつも、その中で、敢えて鋭さを磨き上げていく。

                       

                      無意味と無意味、迷いと迷いのぶつかり合いで生じるその濃淡の中に、滑らかに、柔らかく、戸惑わず刃を滑り込ませる。

                       

                      全体としての完全な迷いの中に落ちきったところで、その場所でだからこそ、行く当ての無い鋭さにただただ身を委ねる。

                       

                      (迷いへの完全な没入を可能にするのは、ただ一重に強固な”信心”だけだろう。天地万物を作り出す真理への信頼。変わらぬ秩序があるという深い信念。例え今回この宇宙の、時間空間の物理法則が儚くほどけていく時がきたとしても、その時でさえ、不変不滅の原理が宇宙の中心には渦巻いているのだという、強い予感を持つこと。)

                       

                      ストン、と刃は落ちる。脱力して、滑らかに無為を切り裂いている。結末は簡単だ。ただ起こることが、起こるようにして、起こる。

                       

                      正しさとは、多分そういうものだ。そういうものであるような気がする。

                       

                      正しさとは無為自然だ。正しさとは、迷いに身を委ねて、その輪郭の中に真っ正直に滑り込むことだ。

                       

                       

                       

                      剣を、長空に振るう。

                       

                       

                       

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