2019.07.28 Sunday

悟りと見立て

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    もしも私たちが精神修養を指導すべき立場にあるなら、修養者一人ひとりの精神をどのように成長させていけば良いか、その見立てを持たねばならない。

     

    自分が教わったこと一つ、これ一つやっておれば何とかなるだろうと、そんな粗雑な理解ではいけない。指導者は、修養を通して自らの精神に起きた変容の本質を良く分析理解し、そこから逆算して、まだそうでない人が先に行くためにはどのようなピースが必要なのかを考えねばならない。

     

    自己形成の課題を持っていたり、特別な環境下にある人についてはそれ相応の工夫が必要である。そうした個別の工夫を上げていけば人類70億通りのものがあり一口に言えないが、参考までに基本となる典型を次のように考えて良い。

     

    悟りの課題には、頭と心、この2つがある。

     

    頭とは論理や教学、賢さに関わること。

     

    心とは人間性や奉仕、心の豊かさに関わること。

     

    二つの課題の両方が整って始めて、悟りの段階は姿形が整う。頭だけ良くしても冷え切った哲学になり、心だけ良くしてもほとんど狂気に近い。

     

    両方を良い状態に育てていくことが必要だが、精神修養の始まりの段階では、一般的に男性は頭の部分はすんなり起きてくるのでこちらに偏重する。女性は心の動きを通して学ぶことがはっきりとわかりやすいので、そちらに偏重する。

     

    だから男性は仏教とか哲学などに適応が良く、女性は神秘主義や、キリスト教浄土真宗などの物語の教えと、奉仕活動に適応が良い。(あくまで典型であり、あてはまらない人も多いが)

     

    そして大体、偏重したままである程度の段階まで進み、最後の最後でもう片方の問題に行き詰まる。

     

    行き詰まって、ぶち当たって、この最後の壁を崩壊させたら、そのあたりで本人自覚するところがあるだろう。

     

    例として言えば、頭だけでやってきた人は、何かしら大変ショックな出来事でそれまでの情動や世界観が揺さぶられた時に壁を乗り越えたりする。

     

    心だけ育ててきた人は、整った良い教学を少しずつ学んでいく中で、いずれ物事の整合性がかちりと絡み合う、そのような霊的ひらめきで不意に視界が開かれることもあるだろう。

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

    2019.07.24 Wednesday

    悟りと男女

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      一部の仏教などでは、女性は悟らないということが言われる。指導者たちは経験的にそう感じていたのだろう。

       

      男性も女性も、精神が成長すれば結局は悟りに進むという点では同じだ。

       

      だがその悟りかたには確かに違いがある。

       

      男性の脳内の言語世界、つまり論理的なものの考え方というのは、比較すればより緊密で強度が高く、それに伴って”私”概念も強い自立性、独立性を持つ。

       

      女性の脳内では肉体的な感覚などがより優先され、言語は感覚と強く結びついて、言語自体の独立性は低い。

       

      悪く言えば、脳機能的に見れば男は頭でっかちで、女は身体で考えるクセがある。

       

      こういう事情があって、悟りの現象が言語世界の瓦解と再構築を促すとき、その衝撃は女性よりもむしろ男性において、強烈なショックを持って起きてくる。

       

      (そもそも女性は、悟りの現象において言語世界の瓦解を必要としないことも多い。雨宮大慈曰く『女性は生まれつき悟っている』。だが言語世界に依存しないというその特徴が、女性の心とその修養過程をより捉え所のない曖昧なものにもしてしまうのだが。)

       

      強い言語世界を持つ男性は、女性よりも悟りの段階における衝撃が強いのだ。比較して言えば、女性はその段階に進んでもそこまで激烈な変容体験を起こさないので、このことが男性指導者をして「女性は悟らない」という誤解を抱かせるのだろう。

       

      だが見誤るべきでないのは、精神変容に伴って感ずる刺激や爽快感がどれほど強いか/浅いかなどという問題は、悟りの本質とは全く関係がないということだ。

       

      悟りという現象の恩恵はあくまで、その過程を経て生まれてきた人々の優れた素質と精神性が、私たちの生きるこの世界に発散され影響を波及させていく部分にこそある。

       

      そのような優れた性質を獲得しうるかどうかという点に着目して見比べてみれば、男女の性の違いは悟りの現象において根本的な問題ではないということがわかるだろう。

       

      ※便宜上ここでは男女という概念を典型的に扱うが、悪しからず。

       

       

       

      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

      2019.07.24 Wednesday

      悟りと病理

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        悟りという現象は、私たち人間が持つ言語的な能力に深く関連している。

         

        私たちの脳内にある言語世界は、人生を通して経験した肉体感覚が、言語というラベルと共に系統立てて保存された、一種の記憶データベースである。

         

        そのデータベースがある程度育つと”私”という概念が創発され、言語世界に中心性が生じてくる。

         

        その”私”概念がより成長し複雑化していくと、いずこかのタイミングでこの概念は引き裂かれ、崩壊し、もはやその強力な形や中心性を保てなくなる。

         

        これが悟りという現象の典型である。

         

        そこで私たちは気付かねばならないが、生まれて以来まだ”私”という概念を作り上げていない人がいるとしたら、その人は順当な経路に沿って悟ることはできない。

         

        その場合、まずその人の中に自然に”私”の概念が育つのを待つか、でなければ教学の深い所を教えて、自己形成の課題を迂回させてやる必要がある。

         

        後者の場合も、後々社会不適応を起こさないためには”私”という概念とは一体何か、それを持つこと持たないことで何が起こるのかを、理論的にだけでも理解させねばならない。

         

        さて、このように悟りは自己形成という課題と関連があり、”自己”概念は私たちが精神の成長のある時期だけ持っているべき一過性の幻想、という特徴を持つ。

         

        このような”自己”幻想を持てない顕著なパターンとは、現代で言えば特に神経発達症と診断される人々の場合である。

         

        発達障害、ADHD、アスペルガー症候群、言い方は何でも良いが、自己形成と悟りの間には、切っても切れない順序的な関わりがあることを知っておくと良い。

         

         

         

        JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

        2019.07.24 Wednesday

        悟りと人格

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          悟った人、と言えば真っ先にブッダを想像するだろう。その慈愛や賢さなどの性質について考え、自分もそうなりたいと思うのは自然なことだろう。

           

          だが本当に、悟りに進むことは即、人格の洗練や向上を意味するのか?

           

          それは違う。

           

          悟りと人格の洗練にはもちろん関係があるが、絶対的な関係ではなく、間接的な関係にある。

           

          悟っていなくても洗練された人格の人はいるし、悟っていても洗練されていない人もいる。

           

          だが悟りに進まなければ、本当の意味で人格が洗練されることはない。

           

          また、悟りに進んでより高い視点の現実認識を得ることで、私たちは自然に自分の在り方を見直しはじめるようにもなる。

           

          (ルドルフ・シュタイナーは、健全な知性と思想を持つことによって私たちの持つ感情の構造全体が影響を受け、矯正されていくことについて述べている)

           

          悟りに至る/至らないの違いは、ちょうど泳ぐときに浮き輪を付けているかいないかの違いのようなものだ。

           

          浮き輪はある程度まで便利なものだが、ある時点からは泳ぎの邪魔になるので、より上達するためには取り外さなければならない。

           

          別の視点から言えば、悟ったからといって、即ちその人の人格が優れているということにはならない。

           

          悟りは天井を取り払うだけだ。人格の洗練は、生きている限り続く。

           

           

           

          JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

          2019.07.23 Tuesday

          悟りとは何か

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            物語には尾ひれが付く。折々でその余分な所を落として、話を整理しておくことも大事だろう。

             

             

             

            「悟り」という現象の本質は何か。

             

            それは、言葉を通して考えるクセから脱することだ。

             

             

             

            それによって何が起きるか。

             

            ・この世界のありのままの現実(実存的領域)を認知し、洞察するようになる。

             

            ・意味の地平線を超えて、超意味的な世界観を得る(創造性の領域に足を踏み入れる)。

             

            ・心を束縛する競争心と憎悪(要するに自分への不満、自己否定)が解消される。

             

            ・彼我の境界線が消え、エゴを制御した調和的な振る舞いに慣れていく。

             

            ・より大きな原則(真理)に身を委ね、その中で安寧を感じるようになる(自分を手放す)。

             

            ・主観的視点から自由になることで、認知におけるゲシュタルトの組み替えを容易に行うようになる。

             

            ・より落ち着いた健康な精神を持つ。

             

             

             

            そこに至る手段は何か。

             

            根本的には、クリシュナムルティが述べるように「真理はそこへ行く道のない土地」ということで、定まった何かの方法をやっていれば必ずそれがわかる、というようなものはない。

             

            これは哲学として言えば「(私たちが)何かを求めて、これこれをやり、どこどこへ至る」というような線的な認識の仕方こそ言葉の思考法なのであって、真理はこのような線的な連続性が打破されてはじめて理解できるものだという事情による。(地と図の交代、コペルニクス的転回)

             

            それだからこそ、私たちが真理を理解したければ五感の全てを通してこの世界に良く触れ、教理を学び、考え、あらゆる方向性の精神修養に取り組んでいくのが良い。

             

            実情としては、精神的なショックで脈絡無く突然理解する人もいるだろうし、仏教で瞑想をしてわかる人もおり、信仰を通して理解していく人もおり、科学や論理の追求の果てにそれを見る人も、生まれつきの豊かな感性と優れた文化の交互作用によってそれと知らず身に付ける人も居るだろう。

             

            真理は兎に角無形であり、多様性がある。それは真理という一つの動かしがたい不変のものに対して、私たち一人ひとりがあまりにも無形で、且つ多様である、という事情による。

             

             

             

            JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

            2019.07.13 Saturday

            なぜ言葉は主体的なのか 

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              さて以上に述べてきたように、仝生貊朶弔私たちの精神処理過程の折り返し地点に位置すること、また言語循環は自己言及的な活動を通して半閉鎖された自律性を持つこと(ブラックボックス化されていること)、という二つの特徴的な構造によって、私たちが色や音といった肉体的な知覚よりも、言語的な意識の方をより「自分の本質に近い」精神内容である、と認識しやすいことが説明できるだろう。

               

              また発展的な考察として、ある構造の閉鎖性(半閉鎖性)というものが、主体意識、アイデンティティ、主客意識、彼我意識などを構築するための、普遍的な必須要素であるということが想像できる。

               

              「ある程度の閉鎖性を持つ部分が外部世界に関連付けられることによって、始めて主体性が生じる」とまとめて良いだろう。

               

              スポーツで言えば、“地球代表”の選手団というコンセプトが説得力を持つのは、私たちが地球以外の領域に知的生命体の住む場所を発見したとか、新たに開拓した場合だけであろう。

               

              またそうした選手団を”第××宇宙空間代表”のように、真空以外何もない宇宙空間の代表として勝手に選抜することもできまい。それは例えば地球という半閉鎖系の中で、自律した個々の世界の中から選抜されることによって、はじめて確かな意味を持つ。半閉鎖性こそ主体性の鍵なのである。

               

              さて、まとめになるが、言語領域はこのような半閉鎖性と精神処理過程内の配置により、他の知覚内容よりも主体性のある精神活動領域として私たちには感じられる。

               

              しかしその半閉鎖構造は、言語循環という高度な認知の連続的自己反射作用によって実現される疑似ブラックボックスであり、言語的な意識世界だけが、他の肉体的知覚とは違う精神の本質的作用である、というようなことを意味するものではないのである。

               

               

              ※補足として、ここでは深入りを避けたが、もとより言語作用は脳の複数領域が協働して相互のフィードバックの中で生み出すものであると今日では知られている。言語循環における連続的な言語の連なり、その複雑な修飾や文法精査などの働きは、視覚野や聴感覚などのセンスを多分に利用するものであることは疑いようがない。だから私は、簡略化のためそうした複雑な関係性を図の中に描いてはいないが、精神の複雑系が言語野のみに閉鎖された活動であるというようなことを言うつもりはない。それはむしろ、脳全体を言語世界の中に包括的に巻き込みながら閉鎖性を作り上げていく機構なのだと言えるだろう。

               

               

               

              JUGEMテーマ:心理学

              2019.07.13 Saturday

              なぜ言葉は主体的なのか 

              0

                 

                次の図は、私なりの精神処理過程の理解と、それにおけるマインドフルネス理論の立ち位置を示すものである。

                 

                 

                 

                 

                精神についてのこの構造的理解は、ルドルフ・シュタイナーの精神一元論とC・G・ユング「タイプ論」(四機能説)を下敷きにして、用語を整理しそれぞれの順序に整合性を持たせたものである。

                 

                簡単に説明すれば、精神の原始的で単純な領域は知覚ー欲求というサイクルによって成り立っており、私たち人間の複雑な言語的認識の世界は、その単純なサイクルの最中に言語的認識ー連想という複雑な拡張過程を挿入することで成り立っている、ということである。

                 

                先ほど私は「ブラックボックス化」というマインドフルネス理論のラベリング技法のデメリットについて触れたが、上の図で言えばそれは複雑サイクルの言語的世界観の中から単純サイクル(およびその先に広がる肉体外の世界)を「切り離して、客観視している」という風に考えればわかりやすい。

                 

                このような理解の下で、言語世界は私たちの精神処理過程の実質的な最奥部、突き当たりに存在するものなのだと言うことができるだろう。そしてその点にこそ、私たちが言語的な意識を自らの精神の中心であるかのように錯覚することの原因がある。

                 

                ではさらに、この言語的な処理過程のより詳しい構造について考えよう。

                 

                 

                 

                 

                二つ目の図は、最初の図の右側、複雑サイクルの部分のみを取り上げたものである。最初の図で認識ー連想という二段階のプロセスで説明していた過程を、より詳しく四つの段階に細分化してある。

                 

                ここに図示されることの特徴として、特に強調したい点は以下二つである。

                 

                先ず、点線の枠で囲った部分に呼称を割り振った通り、この領域はそれ自らが独立して言語を循環させ続けるという半ば閉鎖的な自律性を持つことである。

                 

                この閉鎖領域に知覚という入力を投じ、(連想能力によって修正された再知覚としての)欲求という出力を得る。この処理過程は外部からすると中身の見えない神秘的な乱数装置であり、その意味でまさに外界との直接的相関を持たないブラックボックスの性質を持つ。

                 

                次に、言語循環の中の連続するプロセスが識語から始まり発語に終わる点に注目したい。処理過程の中での意義を分かりやすくするため識語/発語という語を用いているが、生理学的にはそれぞれ感覚性言語/動作性言語と読み替えても大凡の意味が通ずるだろう。

                 

                この処理過程の一連の流れが示すのは、一度知覚内容が私たちの言語循環の中に入力されると、それは直ちに入力されたものに相応な程度の欲求を出力として返す、のではなく、認識した言葉に連なる別の語を連想し、自らに向けて内的に”発声”し、それをまた自らで認識して、というピンポンのような行程を繰り返すことで線的な繋がりのある言語を連ねていく性質がある、ということである。

                 

                 

                 

                JUGEMテーマ:心理学

                2019.07.13 Saturday

                なぜ言葉は主体的なのか 

                0

                   

                  幻覚剤の使用や、脳内出血、側頭葉てんかんなどで見られるEgo-Dissolution(自己解散:認知内容の中で自分とそれ以外のものとの区別が付かなくなること。多くの場合、この経験の当事者は自己が解散した状態についてのはっきりとした記憶を持つ。またこの経験は幸福感に溢れた光の体験や、自分が消滅するという極限の恐慌状態を伴うことがあると報告される。)という現象を調べるにあたり、その現象と言語機能との関係はどのようなものかを考えた。

                   

                  つまり単純にではあるが、私はこの自己解散という現象は何らかの作用によって脳の言語野の活動が阻害される際に起こるという仮説を受け容れている。(ジル・ボルト・テイラー博士の有名な体験談を参照)

                   

                  そうしたことを踏まえて先ず最初に疑問に思うのは、「なぜ言葉はこれほどまでに客観的かつ主体的なものなのか?」ということである。

                   

                  このことはマインドフルネス瞑想の実践や、それについての理論の中でも時折議論されるが、自分の知覚や動作内容を言語を用いて実況する「ラベリング」の技法は厳密には意識の中に自己に対する客観的な視点を作り上げ強化してしまう側面があり、ひとまずは自己制御能力の向上と考えても良いであろうこの状態が、修養のある段階においては意識内容の完全な受容を妨げてしまう(精神の中に”客観視する私”というブラックボックスの領域を築いてしまう)ことがある。

                   

                  私たちの「今、ここ」の知覚内容とは伝統的な仏教思想において、即ち「色、音、感触、匂い、味」の五識であるが、上記のことに関連して私はここに「言葉」を加えて良いのではないかと思う。それほどまでに私たちの意識における言語作用は独立し自律的に常時働いているものである。

                   

                  が、にも関わらずこの「言」の意識がマインドフルネス理論の知覚対象として取りあげられることが少ないのは、この意識領域が私たちにとってあまりにも暗黙で、無意識かつ前提的なものであり、また私たちがこの領域の中に自己の自己たる所以を強固に見ているからかもしれない(我思う故に我在り)。

                   

                  私は禅の理論などをある程度理解しているので、精神の中に”私”を支えるような絶対的な構造物があるという風には考えない。なるほど言語領域はいかにも客観的、主体的なものと感じられ、この言葉の領域のみはまさに”私”という存在の中心から発しているのだという説得力を持つかもしれないが、それとても詳述すればいくらかの機能のコンプレックスが創発する、見た目上の機能に過ぎないだろうという確信を持つ。

                   

                  そこで再び前述の問題提起に戻るのだが、だとしたらなぜ、言葉の世界はこれほどの客観性及び主体性を私たちに確かに感じさせるのだろうか。そしてその主体的実感は、どのような神経の処理過程を通して実現されるのであろうか。

                   

                   

                   

                  JUGEMテーマ:心理学

                  2019.06.15 Saturday

                  魂のはじまる場所

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                    例えば宗教的な思索の中で、インド哲学が述べる個我と大我のようなものを対比するとき――

                     

                    私たちはどうしても、大我の前提的な立ち位置を重視するあまり、ありのままの個我の存在の仕方であるとか、その自由、多様性などを否定しがちになる。

                     

                    だが、大我のある末端部分としての個我を否定するということは即ち、大我そのものを否定してしまうことにも繋がろう。

                     

                    私たちが真理に寄り掛かろうとするとき、そこに何か否定的な心を残しているのでは、本当に寄り掛かっているとは言えない。

                     

                    大事なのは、大我から生まれ来る個我、この個我としての私を否定するのではなく、この個我の上に、この個我を通して、更に大我の有り様を美しくまざまざと描き出すことではないだろうか。それが真理と我々との、本当の繋がりということになりはしないか。

                     

                    あるより大きな真理を拠り頼もうとして、今目の前の現実を否定するということがあってはなるまい。

                     

                    私たちのバウンダリーは極度に集積された神経の相互作用によって生まれるから、その根源である純粋意識の存在を覆い隠してしまうという意味では、確かに余計な遮蔽物であり、私たちの精神を閉じ込める檻のようなものにもなりかねない。

                     

                    が、だからと言って私たちがバウンダリーを忌避するとすればそれは、直ちに自らの生命そのものを否定し、結末的には純粋意識の意図それ自体を否定することになりはしないか。

                     

                    であればやはり、私たちはバウンダリーを否定してはいけない、どころか、それを肯定し受け入れねばなるまい。そしてその上に、バウンダリーを通して、バウンダリーの先に、更に純粋意識の揺るぎなく輝く世界を、まざまざと描き出さねばならないのだ。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                    2019.05.05 Sunday

                    目を閉じ耳を塞ぎ、口も聞けずに、心開いて

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                      このブログ、毎日書こうと思っていたのですが、だんだんサボり気味になってきました。

                       

                      こういうのも一つの感性の変化というか、大げさに言えば人格の変容というものなのかもしれませんね。

                       

                       

                       

                      『気付く』、ということについて。

                       

                      誰が言ったものだったか、「もしも私たちが自分の問題に気付くことができたならば、その時すでに改善ははじまっている」という言葉があったと思います。

                       

                      前向きで良い言葉ですよね。失敗して落ち込んだときなどのために、胸に刻んでおきたい一節です。

                       

                      一方でこれは、次のように言い換えることもできるでしょう。

                       

                      「自分に問題があると気付くまでは、進歩や改善はない」

                       

                      自分自身で気付くも良し、他人から指摘されて気付くも良し。我が身の問題に気付けるということは、本当にありがたいことです。(幸いなりいやしくも過ちあれば人必ずこれを知らんことは)

                       

                      自分に問題があると気付く――ここで言う”気付く”というのは、単に人から言われるとか、物事を失敗するという以上のことではないでしょうか。

                       

                      それよりももっと深く、事実の因果関係を認識して、それが自分自身に責を負うべき問題であると“受け入れる”ことを指していると思います。

                       

                      問題を受け入れるために必要なこと。客観性。公平性。勇気。覚悟。真実への信頼。

                       

                      いくらか挙げてはみましたが、みなどれも得がたいものです。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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