2019.01.20 Sunday

生命のウォークライ

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    人生には、というより生物の一生の中には、ある程度の激情が必要なように思うのです。

     

    40億年の時間の積み重ね。何億世代にも上ろうという祖先達が、それぞれの時代時代を生きた記憶。

     

    1万年前、凍える夜に焚き火ごしに見た誰かの瞳。その中で静かに揺れている炎。

     

    このDNAの鎖を繋ぐために、切り裂き食い散らかしてきた沢山の他者。

     

    その体液で血まみれになった、鏡の中の醜い牙と指先。

     

    そういうもの全部を思うとき、私たちの一生は、決してつまらないものであってはならないと思うのです。

     

    やはりそこには、何かしら義務のようなものがあるのではないか、と。

     

    そういう激情の薄まってしまった社会。安定し、硬直し、冷却され無気力になった社会。

     

    生がこれほどまでに安定してしまうのは良いことなのかどうか。安定が陰鬱とした虚無感を生み出すだけなら、それは今まで積み上げて来たことに対する裏切りではないのか。

     

    或いはこれは、私たち人間種があまりにもこの世界に飽和してしまったということなのかもしれません。

     

    だとしたら私たち人間は、あまりにも天高くまで塔を築き上げた罪で滅び去り、もう一度歴史をやり直すべきなのか。それともこれまでの生物の枠組み、人間種の枠組みを超えて、既存の限界の制限を受けない、何か次の新しい段階へと進まねばならないのか・・・。

     

    そんな大それたことを少し、考えてもみるのです。

     

     

     

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    2019.01.17 Thursday

    なぜ猫はかわいいのか

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      突然ですが、私は猫アレルギーです。

       

      ごくごく軽症なのでちょっと一緒にいるくらいは何ともないのですが、ずっといるとくしゃみが出たりするので、飼えないのが残念だな、といつも思っています。

       

      アレルギーではありますが、猫は好きです。犬よりは猫。いわゆる猫派ですね。

       

      それで思うのですが、猫はなぜかわいいのかということについて。

       

      あえて言いたいのですが、猫というのは、馬鹿で、役立たずで、強欲で、どうしようもないからかわいい、のではないかとこう思ったりもします。

       

      はっきりとモノを考えているようでいて気まぐれだし、犬のような忠誠心はなく、仕事の邪魔はしても新聞のひとつでも運んでくれるわけではありません。

       

      機能、という点で見れば、猫は犬に劣ります。けれどそれでも、猫は犬に負けず劣らずペットとして愛されるのです。

       

      心理的なところを紐解けば、妙な話ですが、それは私たち人間の、自分自身が救われたい心の反映でもあると思います。

       

      自分自身が何か役に立たないものを愛するとき、その人は『役に立たなくても誰かが愛してくれる世界』をメタ的に作り上げている、という見方もできるのです。

       

      役に立たなくても愛される。馬鹿でも、どうしようもなくても、誰かに愛され認めてもらうことができる。そういう世界を私たちは、自分の手で作ることだってできるのです。

       

      そのとき私たちは、人間の悟性がもたらす原罪と裁きの世界を、自分の意志で超越します。自然界の弱肉強食の法則を、自分という存在を通して、破壊し別のルールへと塗り替えているのです。これは大げさに言えば、「新たな世界の創造」ということでさえある。

       

      悟性の裁きは暗黙の内に行われます。私たちは論理によって自分で自分を縛り付け、人としてこうでなければならない、ああなってはならない、これはしなければ、これくらいは持っていなくては、と日々意味の自傷行為を繰り返しています。(その苦しみが人格を洗練させてもいくわけですが)

       

      そんな中にあって、一匹の猫が役立たずであればあるほど――もし私たちが彼らを愛するならば、その時私たちは、私たち自身の魂をも同時に救っているのではないでしょうか。

       

      (救っているようで、実は救われている。与えることで与えられ、愛されることよりも、愛することを通して、本当の愛を得る)

       

      『あらゆる弱きもの、愚かなるものどもは、そのままで許されよ』

       

      そんな私たち自身の、救いを求める哀れでさみしい心の投影が、そこには隠されているような気がします。

       

       


       

       

      羽の無い鳥、キーウィは生息地のニュージーランドで人々のアイデンティティに深く根付いているらしい。「私はキーウィみたいなものさ」と現地の人々が言うとき、そこには何か深く純粋な、存在への肯定の意識が働いている。

       

       

       

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      2019.01.14 Monday

      男女と自己の形式

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        男女の自己形成の違いについて。

         

        (今回もそうですが、性差にまつわる事柄について書くときに、話を簡略化するため男女というものをごくごく”典型的な”男女観を通して扱っています。性別に対して解放された方々にまで当てはまる内容ではないと思いますが、解釈を進めていくための一つの基準として、平均値としてのイデアルな男性・女性を前提とすることをご容赦ください。)

         

         

         

         

        上の図は、自己形成における男女の違いを示したものです(自己は人生経験に応じて”作られていく”もの。当然個人差がありますので、これはあくまで一例です)。

         

        一般に男性の自己形式は先鋭化されたいくつかの領域を持ち、その領域内では一方向(山形の先端部分)に心理的な動力が流れており、態度の一貫性を保ちます。

         

        対して女性型の自己形式では、山形を成す部分が多くなり、より広く浅く、心理的な動力も拡散的に複数の領域に用いられています。

         

        男女双方において、山の頂点を成す部分はその人の自己実現領域となり得る核心の部分であって、この数が少ない男性型はより専門的な社会適応、山の数が多い女性型はより総合的な社会適応を志向することが示されます。

         

        自己形成を支える二つのエネルギー(内圧と外圧)について、男性型では外圧が一極に集中されることによって、自己否定の感覚は競争意識や権力欲求の形を取ります。

         

        これについても女性型とでは違いがあり、女性は外圧を、広範な領域における”自己嫌悪”へと変形させています。つまり言い換えれば、女性の自己嫌悪も男性の権力欲求も、根は同じ”自己不全感”、”無能力感”であるということです。

         

        このように女性と男性という性別次第で、自己が形成されていく形式に違いがある理由は何かという疑問が湧きますが、単純な予測として、DTIによる男女の脳の活動の違いについての研究で言われているように、男性の脳は辺縁領域で局所的な活動を長時間行う傾向があるのに対して、女性の脳は中心領域を並行して断続的に使う傾向があり、そのような脳の使い方の違いが結果として男女における”世界認識”の違いを作り上げ、男女それぞれが異なった傾向の外圧と内圧を与えられることで、自己形成プロセスに典型的な差異が生じてくる、ということが考えられると思います。

         

        なお、補足として最後に強調したいのですが、以上に説明するように自己は”形成”されていくもの。ある生地から織り出されていくものです。私たちはテレビに映る映像を見て物体が動いているように感じますが、実際は光が点滅しているだけです。それはまやかしと言えばまやかしであって、”自己”というものもまさにこの性質を持っています。”私”などというものは、本当は存在しないのです。

         

         

         

         

         

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        2019.01.13 Sunday

        自己形成2

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          本日は、昨日のエントリーの修正・・・

           

          言葉選びに多少違和感が残ったので、少し是正しておきました。

           

           

          さらに補足としてキリスト教的な罪のニュアンスというのは、例えば”悔い改め”ということ。悔い改めよ、というのは預言者が大衆に呼びかける言葉ですが、この意図は「罪を自分のものとせよ(無責任になるな)」ということです。

           

          人は、自分が負えるだけの罪を負っていくもの。神もその人に耐えられない様な重荷は負わせない。見方を変えれば、人はどれだけ自分を取り巻く世界が罪にまみれていようとも、自分が受け取れる分しか罪を受け取ることはできない。(自分さえ良ければ、家族さえ良ければ、会社のためならば、国家のためならば、人類のため、生物のため・・・。個々人が自分ごととしてまとう”罪の範囲”は実に様々で、部分的にはもっと複雑だ)

           

          預言者の仕事は、人が受け取るべき罪すら受け取らなくなった時(人々の強欲が周囲の環境を破壊しはじめ、自分で自分の首を絞めていることにさえ気付けなくなってしまった時)に、天の秤を基準として「いいえ、それはあなたの分の罪ですよ」と教えること。それ故にある層の人からは嫌われ、人々の”見たくもなかった自分自身の罪”を暴き立てた門で、キリストは処刑されてしまった。

           

          受け取れる以上の罪を受け取ろうとする人々は、それはそれで自己境界を破綻させてしまう。例えば無気力や回避性、自傷行為などがその印しとなって現れてくる。

           

          こういう人々が何とか「もっと良くならねば」と思って、更に自己否定感ばかりを取り込み、自重に押し潰されていく様子は悲惨である。彼らに必要なのは、自らを無根拠に肯定するための、温かい何かを見つけることなのに。

           

          かなり脱線した話にはなるけれど、人間はなぜ人間それ自体を肯定できるのだろうか。あるいは人間は人間を、生命を、果たして肯定しているのか。なぜ人類は生きなければならないか。なぜ、地球は火星や水星同様に、無生物の星であってはいけないのか。

           

          宗教的な解釈としては大体、「意味は無い」とか「神がそう定めた」とか言われる。しかしそれでは不十分だと私は思う。

           

          創造性の時代には、私たちはこう言うべきだ。『 私たちこそが神であり、私たちが、この世界を続けたいからだ 』と。

           

           

           

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          2019.01.12 Saturday

          自ずから己とわかるものの形を成すこと

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            心理から宗教、宗教から心理へと右往左往しつつ学んできた結果か、私の”心”についての関心は自然と、”私”とか自己形成とかの部分に注がれるようになりました。

             

            統合失調であるとか神経発達であるとかの問題は細かく言えば色々あるわけですが、その結果として起きる”社会不適合”の形は常に、この“自己形成”に関する問題であると感じています。

             

            ”私”という約束。社会に対しての、あるいはもっと上位、人類に対しての約束。”私”という単位で管理される権利と責任。

             

            この自己、”私”というものを上手く形成できないと、どうしても高度に社会化された人間世界に適応できない。

             

            しかし一方で、宗教領域においてはこの”私”というものを「克服せよ≓消してしまえ」ということが伝統的に言われてもいる。

             

            とすれば精神の発達の段階で自己形成を整然と終えられなかった人は、最初から(無分別智を)悟っているようなものなのか。

             

            それは似ていて異なっている。社会性とはある意味では、偏見と慣習の刷り込みなのだから。刷り込まれている所へ、刷り込まれていない人が出て行くと衝突してしまう。

             

            自己形成をしたことが無い人は、他者の”自己”に対して配慮を示せない。しかしもし配慮できるならば、”自己”とは何かを理解し道具として上手く使うことができるのなら、その人の精神ははじめから自己形成無しに、それ故に自己を克服する必要も無しに、完成へ至ったと考えることもできるのではないか。

             

            などなど脱線しつつ、そもそも自己とはどういう心理構造なんだろうか、ということを考えなければ共通の理解まで進めません。

             

            以下は、私が枠組みとして考える”自己”とは何か、を図示したものです。

             

             

            基礎になっているのはクライン/カーンバーグの対象関係論ですが、私なりの補足はアグレッションの働きを”罪”というコンセプトに発展させて、キリスト教教義のニュアンスを持ち込んだ所です。(そもそも”私”にまつわる話の全体像は仏教的なものですが)

             

            内圧と外圧が拮抗するところに自己が生まれ、外世界の厳しさを罪という形で取り込み内在化することで、自己は強化され、洗練されていく。自己とは罪の城であり、罪とは責任感の結果であり、責任感は自信ある人だけが持ちうるものであり、自信は肯定された記憶から生じる。

             

            シンプルで、細かいことを抜きにした粗雑な理屈です。粗雑だからこそ誰にでも理解し応用しうるとも思います。

             

            自己形成が発達の段階で破綻してしまう原因、というのも気になるテーマですが、単純に内外の力のバランスがおかしいとか、部分的に外圧に対処できずに自己境界が歪んでしまうとか、その結果起こる自己境界の薄弱さや、自己の分断、いびつさ、など色々な事情が考えられそれら全てを把握することはまた長大な分析と説明を必要とすることと思います。

             

            ですのでここではあくまで、人間種の生物においての、20世紀から21世紀に至る精神発達の典型はこんな風に考えられるだろう、ということを提示するのに留めておきます。

             

             

            ※その後少し図を修正しました ⇒ 修正版

             

             

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            2019.01.09 Wednesday

            宗教の役割

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              率直に言って、近代宗教に不足しているものは、前向きさだと思います。

               

              元気が無いとか気持ちが暗いとかそんなことを言っているわけではなく、私たち人類にとって伝統宗教とは、常にどこかしら受動的なものであった、ということを言いたいのです。

               

              災害や病気などの自然の厳しさをどう受け止め、その中で私たち人間はどう幸せになっていったら良いか。こういう話はいかにも伝統宗教の得意とするところです。

               

              しかし現代、人間種の文化文明が高度に発達し、先進各国で生活の苦しみというものが全体としては薄まっていく中で、物質的充足の中で、もはや伝統宗教は「このようにして苦しみに耐えていこう」と発言する場を失ってしまったのではないでしょうか。

               

              現代の苦しみは、受動的な苦しみではありません。受動的な所では、私たちは充足しているのです。

               

              問題は、積極的なところ、前向きな所にあるのではないでしょうか。

               

              すなわち私たち人間種の生物は、この宇宙この世界で何を成して行けば良いか。個々人は個々人の生活を守りながらも、その中でどのように魂の真実を追い求めて行けば良いのか。

               

              生きる意味は何か。この問題についての伝統宗教の答えは、総括して言えば「意味はない」ということになるのではないでしょうか。これはこれで途方も無い知的洗練の末に獲得される叡智ではあると思います。

               

              がしかし、話はそこから先なのです。意味が無いなら無いで、その先を、私たち人間はどう生きるべきなのか。

               

              生きるように生きる、というような哲学的なことではなく、「このように生きよう」という啓示が私たちには必要なのでは無いでしょうか。

               

              この問題に関して私が持つコンセプトは、”創造性の世界”というものです。

               

              制御ではなく、創造。技芸を学び、その持てる全てを尽くして、自らの魂の欲求をこの宇宙というキャンバスに表現していくこと。与えられた経験を自分というフィルターを通して、もう一度世界にぶちまけてやるということ。受動ではなく、積極に生きていくこと。

               

              人生はアート、と言うのは国内でもPL教団などがすでに述べていることですが、私は文脈としてはクリシュナムルティやラジニーシのような、自由思想家の延長でこれを考えたいと思います。単純な話として、宗教組織は組織である以上、理念と目的と責任を持ち、それ自体が精神の創造性をある程度失わせる原因にもなるからです。

               

              くどくど言いましたが、つまり簡単に言えばこういうことです。

               

              『 先生、私こうして生まれてきましたけど、一体何したら良いですかね? 』

               

               

               

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              2019.01.08 Tuesday

              下品な老人と軟弱な若者たち

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                『最近の若い子は、叱られ慣れてないから・・・』

                 

                そんなセリフを、良く聞くようになりました。

                 

                会社で新人教育を任される。自分が先輩からそう教えられたように、ちょっと厳しいことを言ったら、次の日から会社に来なくなってしまった。電話を掛けたら”お母さん”が出て、うちの子はもう辞めます、と・・・。

                 

                叱られ慣れていない。『だから小さい頃からもっと叱っておかなきゃいけない。これは親や家庭が悪い。学校の先生も体罰ぐらいしても良いんじゃないか。』そんな意見もありがちです。

                 

                でも実は全然、それは違う。心理という面から見れば分かることです。

                 

                今この社会で、そういう"厳しさ"を実際に復活させたら何が起きるか。日本が改めて、韓国やロシアを押しのけ「先進国の自殺率ナンバーワン」という名誉ある称号を取り戻すだけでしょう。

                 

                叱られ慣れてない、だから叱ってやらなきゃいけない。叱ったらどうなるか。会社を辞める。学校に来なくなる。それで自殺する。誰も幸せになっていない。何もかも崩壊しただけです。

                 

                実は問題の本質は、叱るとか叱らないとか、そんな所にはない。

                 

                私たちの世代は、無意味という病気と闘っている。ドストエフスキーが、人間はどんな過酷な拷問にも耐えるけれど、唯一”無意味”にだけは耐えることができないと述べたのと同じ、その”無意味”です。

                 

                私たちの社会は、本当に驚くほど無意味になっている。敷かれたレールを頑張って生きて、公務員やエリートの道を順風満帆に進んでも、辿り着く先はせいぜいがしょぼくれた無名の老後だけ。そんなことのために何で、人から叱られなきゃいけないのか。何で、もっと頑張らないといけないのか。

                 

                ”無意味”のためには、人間は指一本だって動かせない。生きることが空白なら、ほんの少しの苦しみさえ、人は黙って耐えてやることができない。

                 

                生憎こうした苦しみを、少し前の世代の人はあまり理解できません。それは文明のステージが変わり、社会の発達課題が切り替わってしまったからです。

                 

                二世代ほど前の人の話を聞くと、時代の別の過酷さというのが良くわかるものです。一番の違いは、彼らにとって”生きる”ことが当たり前ではなかったこと。

                 

                昔の人は、兄弟や友達、両親などを若い頃から沢山亡くしている。大病もしているし、戦争で焼け出されて避難先で六畳一家族の協同生活なんてこともざらにある。奉公に出されて下男下女の扱いを受けた経験や、日常茶飯事の暴力の世界で生きてきた経験が、人格の核の部分に深く刻まれている。

                 

                昔の人にとっては、生きることが当たり前ではなかった。だから”生きたい”、”食べたい”、”豊かになりたい”の欲求が強い。そういう、生命として純粋で力強い素質を持っている。

                 

                一方、そういう世代の人々が高齢になっても未だ旺盛な様子を見て、当世代の若者たちは冷ややかな視線を送る。

                 

                『動物みたいに身体の欲望ばっかり満たして、何の意味があるの?』

                 

                彼らはそれを”下品”だと思う。卑しさとして見る。けれどそれも、穿った見方には違いない。彼らは彼らで、良くわかっていない。

                 

                ”生きる”のが当たり前な世界にいる人は、そもそも”生きたい”と思わない。人間に無条件に”生きたい”と思わせるような世界、生き抜くこと、欲求を満たすことそれ自体が目的となっている世界があるということを、この世代の若い人々は預かり知らない。

                 

                文明のステージは変わってしまった。生きることは当たり前になり、そのせいで、実は新たに「頑張っても所詮、生は無意味なのでは?」という昔の人々が見なくて済んだ問題が、暴かれてきた。

                 

                『 生きることに、何の意味があるの? 』『 苦しいなら、やめればいいだけじゃん 』

                 

                こういうセリフを聞く度に、年長の人々はきっと歯がゆい思いをすることでしょう。だけどそれは、お互い様、というやつ。

                 

                時代時代に、それぞれの課題がある。余所の人のやっていることは、案外良くわからないものです。

                 

                そうそう、こんなのもきっと、年長の人々には理解できない小話です。

                 

                ある人が何もかも本気で耐えられなくなって『もう死ぬよ』とこぼした。それに対して友達が言うには、『お前、あのアニメの結末を見る前に死ねるのか』と。それで言われた方は『そうだ、やっぱり生きよう』となったとか。

                 

                意味があれば、人は生きる。私たちの世代の課題は、この無気力に衰えた世界に、どうやって”意味”を回復していくかということ。

                 

                良い面悪い面あるけれど、これはこれで、面白いものです。

                 

                 

                 

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                2018.12.31 Monday

                夜と昼

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                  「――朝はまだ世界の裏側だった 。」

                   

                  「童話物語」という、向山貴彦さんのファンタジー小説の一節です。

                   

                  思春期の頃にこの本に出会って、それ以来何度読み直しているでしょうか。恐らくは私が人生で一番読んだ本でしょう。

                   

                  自分で読むだけでなく、人に勧めることも多数。分厚い本ですが、引き込まれるようにどんどん読み進めてしまう一冊です。

                   

                  冒頭の一行は、みなしごの主人公が木でできた粗末な小屋の中、寒さに震えながら朝を待つ印象的な場面。

                   

                  これは、絶望から始まる物語なのです。

                   

                  思えば若い日の私の眼には、この世界が救いのない、絶望に満ちたものとして映りました。

                   

                  そこから、いく時代かがありまして・・・

                   

                  色々なものに出会い、学び、進んできて、世の中の見え方は変わったのかというと、生憎そういうわけでもありません。

                   

                  私の目には、今なおこの世界は、腐った、救いの無い、ただただ惰性によって破滅を待つだけの無意味なガラクタに見えます。

                   

                  しかし長い時間を生きる中で、そういう世界の中にも、自らを灯りとして希望を紡ぎ続けようとした人々が居たのだということが、確かに分かるようになりました。

                   

                  とても十分とは言えない、あまりにも小さすぎる、けれど決して消えることのないその希望は地平線の先の小さな太陽の予感となって、私にこの夜を耐えるだけの温もりを与えてくれるような気がします。

                   

                  私が生まれ、私が生きるこの時代はきっと、夜。

                   

                  冬は死の季節。命が終わり、新たな更新の芽を宿すとき。私の役割は、与えられた死を穏やかな薬に変えて、世の中にもたらすこと。夜を自覚する人だけが、昼の光ある中を目覚めて生きる。それが新たな種子になる。目覚めた人々が、次の新しい世界を作る。

                   

                  朝はまだ、世界の裏側。

                   

                  今は吐息さえ凍りつく、冷たい夜。

                   

                  けれどいつかは陽の光が、私たちを救いに来る。

                   

                  その予感は、ある。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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                  2018.12.25 Tuesday

                  バウンダリー補足

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                    超実存というものを説明するために『バウンダリー』という言葉を良く使っています。

                     

                    しかし、一般に心理学で言うバウンダリーと私の用法とはいくらか違うものなので、少し補足しておきたいと思います。

                     

                    一般的なバウンダリーというのは、個人の”自己の境界線”というような意味。肉体の空間的距離については”パーソナルスペース”という言葉がありますが、それを社会関係の中にまで広げた上で、「ここまでが私、そこからは私以外」と線引きをするための概念でしょうか。

                     

                    これに対して、私が述べている超実存主義における『バウンダリー』というのは、”縛られた領域に属するもの”というような意味です。

                     

                    それは生命が産み出すひとつの新しい宇宙、フラクタル的に生じていく新しい個別の世界系のひとつひとつ、を指しています。

                     

                    内容物を全的に含めたある宇宙の全体、それが超実存におけるバウンダリーという概念であって、自他の境界線だとか心の壁("ATフィールド"のような)について言っているのではないのです。

                     

                    なぜそうなるかというと、「ある精神世界の宇宙は外側から作り込まれていくものではなく、中心から喚起され、重力的な性質を持ちつつ広がっていくものだから」です。

                     

                    より抽象的に言えば、”この私”における精神世界系の(他者になれないという)制約は、外から線として押し付けられたものではなく、むしろ一本の背骨を生じて、私たちの精神宇宙が産み出され広がっていく中で、必然的に生じてくる性質のものだからです(束縛されるものによって束縛が生み出される)。

                     

                    などと説明してはみるものの、やはりなかなか、わかりにくい概念であることは確かですね。

                     

                    まだもっとご興味がある方は、電子書籍『現代人のための霊性の手がかり』にもバウンダリーの概説が少し書かれていますので、ご参照いただければと思います。

                     

                     

                     

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                    2018.12.23 Sunday

                    Where is my mind

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                      ロゴセラピー(意味療法)というのは、とても実存的なものです。

                       

                      この療法の特徴は、病気や不幸などの苦しみに隠された”意味”を探し出すことによって、苦しみと私たちとの関わり方を変えていく、という部分にあります。

                       

                      何事にも意味がある。ロゴセラピーを学んでいると、本当に心の底からそう言えるようになってきます。

                       

                      何事にも。どんな苦しみにも。どんな不幸にも。あらゆることに意味があり、あらゆることは重要である。

                       

                      さて世の中というものは、人間に沢山の役割を用意してくれているものです。

                       

                      沢山の役割・・・医者や、母親や、行政人や経営者、病気の人、家族のいない人、作家、専門技術者、土建屋、政治家、エリート、凡庸な人、愛される人、お調子者、嫌われている人・・・などなど。

                       

                      沢山の役割があって、どこに立つかによってその得るものは違い、お金はあっても友達がいない場所とか、友達がいても尊敬はされないとか、尊敬はされても空虚な仕事であるとか、それぞれ。

                       

                      何にせよ、どれも重要。反戦運動家も、軍事技術者も、反発しあうこともあるけれどどちらも必要であり、反発しあうことでバランスを取り合っている・・・。

                       

                      ロゴセラピーの話をしていたのに、いつの間にかバガヴァッド・ギーター(戦争を嫌がる心優しい王様に、神様が”戦え!”とさとす話)の領域に差し掛かってしまいましたね。

                       

                      役割によって得るものは違い、どこに立っても一長一短はあり、その良いところと悪いところを良く観察しつつ、結局は”自分が本当に求めているものは何なのか?”という部分と相談して、相応しい場所、楽で居られる場所に落ち着き、その場所の善も悪も受け入れる。

                       

                      こういうことが大事だとわかる――私にもそれが分かるくらいには、この世界の複雑さは、日に日に覆い隠すことのできないものになっていっている、ということですね。

                       

                       

                       

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