2019.03.21 Thursday

内なる世界

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    昨日は、腹式呼吸の講座。前月の瞑想の講座からリピートしていただいた方もおり、本当にありがたいことです。

     

    毎回、開講前にはテキストの内容を見直したりして知識のチェックをするのですが、その時にふと。

     

    呼吸に伴う、肺と腹腔の連動のイメージ。この動作の仕組みを頭の中で思い浮かべるのですが、映像としてかなりリアルに想像できているなということに気付きました。

     

    脂をまとった腹膜が押し出される時の、青黒い血管の歪みたわみ。30数度の温度を保つ霧に満ちた熱機関の中に、外気が流入して温まっていく様子。

     

    何でその映像をリアルにイメージできるかというと、実際に見たことがあるからです。

     

    首元から尾てい骨にかけてナタで皮膚を切り裂き、肋骨を割り外しながら、内臓を掻き出して、胴体を一枚のせんべいのように開いてしまう。その時の肉体の様子。

     

    これは実は、私が山奥で地域活性の仕事をしていたときに、地元の猟師の方の計らいで手伝わせていただいた、イノシシの屠殺解体のイメージなのでした。

     

    そのイノシシの胸腔/腹腔内部のイメージを通して、私は呼吸というものを考えている。よくよく思い返せば、納棺師をしていた頃もやっぱり、腹水の溜まり具合や、消化酵素による自家溶解を止めるためのドライアイスの置き方など、こういうものはその同じイメージを思い浮かべながら想像して対処していた。

     

    それに気付いた時、我ながら『イノシシを基準に何でも人間の身体を考えすぎだ』ということを思って可笑しかった。

     

    とは言えやっぱり、何かしらその経験が、”生物体内”というものに対する私の理解を深めてくれているのは確かなことでしょう。

     

    スティーブ・ジョブズの有名な演説が思い浮かびますが、全くキャリアというものは、どこでどう繋がり活きてくるか、わからないものですね。

     

     

     

     

     

    その有名な演説とやら。見返して気付いたけれど、この人も『死』について語っていたのだな。『今日死ぬ予定で生きる』。この現代の完成された死生観の中から、偉大なる創造性は生み出されていた。

     

     

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    JUGEMテーマ:葬儀

     

     

    2019.03.19 Tuesday

    Do It Yourself

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      その昔、「Class」という一人で実践するタイプの精神修養の大系を公開していました。

       

      その「Class」の中に呼吸や瞑想の項目があって、それを現在は講座に転用させていただいている、と言う形になっています。

       

      少し話は変わりますが、心理療法というものを学んできて、それがあらゆる人にとって極めて有効かつ必要なものだという実感はあるのですが、何分、恐らくこの日本では特に、ということになるでしょうが、心理療法に接する機会というものがない。

       

      残念なことですよね。心理関係の技術者というのはたくさん居るはずなのですが、普通に生活しているとそういう人々に会うことは多くありません。だからそれに伴って、心理療法の技術や知識にも、触れる経験を私たちはあまりしていないはずです。

       

      (大きな会社だとたぶん”産業カウンセラー”が居たりするんだろうけど、ああいう窓口って、相談する人はけっこう居るのだろうか? 業績とか評価のことを考えると、会社関係の人に弱みは見せられないと言う気持ちが働きそうだけれど。)

       

      近年、精神疾患や神経発達の問題についての診断基準などはいよいよ洗練されてきており、例えば病院でうつ病の診断を受けることなども一般的になってきました。

       

      色々社会構造の問題などもあって、精神疾患の患者数が毎年右肩上がりに上がる中、治療面が果たして追いついているのかというのは本当にどうなのかなと思うところ。

       

      福祉行政の支援においても、精神疾患を抱える人に対して、認知療法など全般的な心理療法の場が充足しているのかどうか? かなり苦しい部分があるのではないでしょうか。

       

      そんな情勢だからこそ、思うのです。セルフスタディ。

       

      自分で勉強するタイプの、治療体系。時々スーパーヴィジョンを受けるくらいで、後はもう困っている当事者本人が、自分のペースで特訓していける、という感じの心理治療の体系です。

       

      そういうものが欲しいし、無ければ作りたい。セルフという言葉を、少し自分のテーマの中に組み込みたいなと、そんなことを思い始めている今日この頃です。

       

       

       

       

      マン・イン・ザ・ミラー。最近じゃこの歌も、ちょっと”自己責任"に聞こえ過ぎるかもしれない。

       

       

       

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      2019.03.13 Wednesday

      結局、成功とは何だ

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        2500年前の中国の王の名を、いったいどれだけ挙げられるか。恐らくほとんどの人が一人でさえ答えられないでしょう。

         

        (日本人でこんなのがさっと出てくるのは、深見東州さんぐらいのものかもしれない。)

         

        富や名声について思うのです。2500年前の中国のこと。

         

        その時代、世界には孔子が居ました。彼は有名だったけれど、いまいちぱっとしない立ち位置の政治家で、弟子と一緒に困窮することもあったようです。

         

        でも、後世2000年の時を経て、残ったのは彼の名でした。彼の時の王らは、すでに世に忘れられて久しいというのに。

         

        孔子は、彼自身がそう述べたように、励んで天の道を志した人でした。天地自然の理に則って誠実だったからこそ、人の道の栄枯盛衰とは縁がなかったのでしょう。

         

        人の道、天の道。しかし思うに、それらは結局道の上のこと。真理とは、辿り着く道の無い土地だと言うではありませんか。であれば我々は、一体何処を目指す必要があるものか。

         

        どこへも続かぬ獣道こそ真の道ではないかなどと言ったら、きっと孔子先生はお叱りになるでしょうけど。

         

         

         

         

         

         

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        2019.03.12 Tuesday

        要件貧苦

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          業種を問わず、資格関係の本を良く読みます。

           

          でも、資格を取るつもりはありません。ただ『もっと知識があれば』と思って読むのです。

           

          もちろん知識を身に付けて、資格でそれを保証してもらえれば一番良いでしょうけれど、教育機関での学習要件や、実務要件などが足かせです。学生ならまだしも、社会人なら2年も3年もかけるほどのことは無いだろう、と個人的には思います。

           

          (シンプルに言ってしまえば、知識があっても、養成学校での履修記録等が無ければ試験を受けられない、というのはどういうものだろうか。それは悪く取れば学校側の悪しき利権なのでは。受験資格など問わず、試験そのもので受験者を振るいにかけさえすれば良いものを。)

           

          決して、資格制度それ自体を悪いものだとは思いません。資格のある人にのみ業務を任せるということがあってはじめて、現場の、会社の、ひいては業界全体の品質向上ということが達成できるのですから。

           

          がしかし、適材適所ということが場所以外にも時節にもあって、この人口減少の折、そういう品質維持的な考え方は自ら業界の首を絞めることに直結する危険があると思います。

           

          雇用における資格要件、資格取得における学習要件、そういう”閉ざす門”の連鎖が、人材不足を深刻化させる側面を持つことは無視できない現実ではないでしょうか。

           

          終身雇用制度の無くなったこの社会では、私たちは一生の内に複数の職業経験を持つことが当たり前です。4年制大学を出て資格を取得し、実務を経てまた別の業種へキャリアを移すとき、その業界で働くのに必要な資格を取得するためにまた2年とか養成機関に通うというのでは、スピード感がとても話にならないように感じます。

           

          仕事の方は私たちを今か今かと待っていて、現場は恒常業務だけで汲々、お客さんはいらいら、会社は会社で人手不足倒産にびくびくしているのですから。

           

          (資格の再取得に時間がかかるなら同じ職種を選べば、と思うかも知れないが、例えば納棺師の現場での寿命は35歳位だと言われる。今はもっと年齢が上がっているが、何にせよ時期を見て管理職になるか、その道がなければ別の職業への転向を考えねばならない。このように年齢によって選択業種は否応なく変わっていく。)

           

          そういうわけで、世相の流れを見れば、いずれこの資格要件というものは大手企業が率先して解禁していくことになるだろうと思います。(きっと中小企業はそんなリスキーな判断はしないものだろう。)

           

          すると異業種人材が人員の不足部分に流れ込んでくるので、悪い慣行の打破など良い部分もありますが、反面、教育費がかさんでOJTの重要度が増してくる。

           

          OJTの重要度が増すというのは、既存社員に教育者としての業務と責任とストレスがのしかかってきて離職リスクが高まるということですが、これ、なんだか、地域包括ケアシステムとか共生社会とか、現在の福祉行政、セーフティネットの方向性とすごく似通っている部分がありますね。

           

          要件貧苦、逃げ場無しです。全くお国あげての貧乏というのは、嫌なものですね。

           

           

           

           

           

          節約の話などすると、また経済学の人たちに怒られてしまうかもしれない(日本の経済学者の間では、"緊縮"とか"均衡"という言葉を聞くとヒステリーを起こす病気が流行っているのだ)。でも、時々思う。経済学って複雑すぎていつまでも答えが出ない部分があって、なんか後出しジャンケンみたいになってきてないか、と。

           

           

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          2019.03.09 Saturday

          種の折衝、種の共生

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            地球の新しい支配種族である経済システムは、人類をどこへ導くのだろう。

             

            彼らは人間の『経済欲求』をインフラストラクチャー的に調整して、資本流体上の生命として半ば物質的に、また半ばデータ的に世界全体に根を張っている。

             

            今のところ、私個人の雑感によれば、それは私たち人類のエネルギーを掠め取り弱体化させ、人類種をやせ衰えさせるような動きを見せているように思える。

             

            しかし、彼らにとっての栄養が私たち人間の欲求である以上、その動きは人間世界の破綻と縮小に伴って必ず不活化し、いずれは人と共に息絶えるということにならざるを得ないだろう。

             

            人類史の西暦2019年3月9日、地球では、この私たち人類のエゴイズムと経済システムという上部構造のエゴイズムとが、併存し、衝突し、お互いを傷付け合っている。

             

            その共存如何。

             

            蟻と、蟻牧のように、私たちは手を取りあえないものだろうか。

             

            経済システムが持続可能な命を持つためには、経済効率のメソッドの中で自己の主体性を見失うことのない、世界創造的な強靱な欲求を持った新人類が、健全な経済欲求をシステムに供給し続けなければならない。

             

            人が貨幣や資産それ自体の獲得や増大を最終目的として生きはじめれば、経済は線的に硬直し必然的に失速するだろう。

             

            奴隷は本当の意味では、主人に何かを与えてくれることはない。その時主人は、自分の持ち物を使っているだけだからだ。

             

            しかし、本当に何かを与え合う関係があるとすれば、その関係を私たちは、多分『友人』と呼ぶのだろう。

             

             

             

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            2019.03.06 Wednesday

            自然科学・オブ・ザ・デッド

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              子供じみたことを言うようだけれど、未だに世の中にそういう思い込みが根強いので、時々は注意喚起をしておかなければなりません。

               

              それは、自然科学は万能ではない、ということについてです。

               

              ここに至って私は、霊的なものとか魂の存在などに言及するつもりはありません。これはそんなレベルの話では無く、もっと単純明快で論理的な事実だからです。

               

              自然科学は、仮説と検証の繰り返しによって成り立ちます。検証をするには、事象の発生を待たねばなりません。

               

              では発生しない事象についてはどうなのでしょうか。発生しない事象、永遠に発生しないか、既に一度生じて、この後は二度と発生しないという事象についてはどうでしょう。

               

              もちろん、発生しない事象を検証することはできません。だからそういうものに対して、自然科学は適用できないのです。

               

              これは言い換えれば、自然科学のスコープ(適用範囲)はあくまで、私たちの視界の中で再現可能な事象だけに留まるということなのです。

               

              一回性の事象に対して、自然科学は何も言うことができません。一回性の事象を小さなスケールで模倣して、それについて検証を加えることはできるかもしれませんが、それは模倣物の検証であって、根本の所で事実検証とは異なります。

               

              (蜂の身体を人間のサイズにまで拡大すると、彼らは空を飛ぶことができなくなってしまう。それは羽根に対して、空気を構成する粒子の粒が小さすぎるからなのだという。身体のサイズの違いが、空気の粘性に相対的な違いをもたらす。同じ構造のものを単純に拡大したり縮小したりして検証した結果は、元のサイズでも同様だとは限らない)

               

              それで、問題は、では一回性の事象とは何なのかという所に至ります。

               

              私たちの脳は認識能力の性質上、あらゆるものに再現という性質を投影するようにできていますが(イデア論的なもの。概念。分別)、実際は、あらゆるものは本質的に言って再現性を持ち合わせているのではありません。

               

              (時間は一方向に進んでいる。リンゴAが出現して朽ち果てた後、一年後に同じ木からリンゴAが出現したとしても、それはリンゴA'であるとか、より厳密に言えば一年前のリンゴの木とはすでに構造的に異なる時間軸上の別のリンゴの木から出現した別の物体Bであるというようなことが言える。一年前の時間軸上に出現していたリンゴAは、この後時間が永遠に続いたとしても二度と世界に出現することはない)

               

              再現性は、私たちの脳が見せる幻なのです。あらゆるものは真実を言えば一回性のものであり、自然科学のスコープに収まる類いのものではありません。

               

              すこし小難しい話になりましたが、シンプルに次のような論理を通して見ればわかりやすいかもしれません。

               

              『自然科学は一回性の事象に適用できない。そして、現に今存在するこの私の意識世界は、明らかに一回性のものである(”自分の”誕生や死を繰り返すことはできない)。だから自然科学は、私の意識世界について、根本的に何も解明することができないであろう。』

               

               

               

               

              結構前に見たゾンビ映画。特に意味は無いけど、それなりに面白かった。

               

               

               

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              2019.02.26 Tuesday

              種の折衝

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                経済というものを考えれば考えるほど、私の中で、それがひとつの有機的な生命、ひとつの生物種なのだという実感が深まってきます。

                 

                経済システムは、人間という培地を用いながら、すでにこの地球上で一人歩きし始めている。誰もそれを止めることはできない・・・。

                 

                構造上、それは人間よりもより上位の種族であるということも言えるでしょう。

                 

                例えば大腸菌は私たちの体内でひとつひとつ生息しているけれど、見方を変えれば、大腸菌は私たち人間のあくまで一部であって、彼らにとっての上位種は宿主である私たち人間である・・・そんな風です。

                 

                また、このことを考える時に、私は私自身が、どれだけ人間よりの人間なのかということにも思いを馳せずにはいられません。

                 

                即ち、場合によって大腸菌は人間の体内バランスを調整するために利用され消費されていくのであって、であれば私たちも同様に、経済システムに利用され消費されるために存在している、人間のためというよりもむしろより多く経済システムという上位種に貢献するために存在している、のではないかという疑念が晴れないのです。

                 

                とは言え疑念を持とうが持つまいが、大腸菌が人間の生き方にケチをつけたり、それを修正しようと試みたところで何ができるわけもなく、とんと意味のないことではあるのですが。

                 

                ホモサピエンスと、経済システム。地球の暖かな海から生まれたDNAの中の霊長と、人間という熱く混沌とした”DNAの海”から生まれた、新しい有機体。これらの種族間関係が今後どうなっていくのか・・・。

                 

                もしかしたらこの新しい種は、発生後間もない今日すでに人間という生態系の中に飽和してしまって、伐採しすぎた山のように人間社会が使いつぶれてしまった現状を呆然と眺めながら、どうやってこの不毛の大地を復活させ、新しい持続可能な方法を見つけ出していこうかと途方に暮れているところかもしれません。

                 

                何せこの新しい種族にとって、私たちホモサピエンスは、水や空気のように、絶対に替えの効かない前提的存在なのですから・・・(それとも、或いは?)

                 

                 

                 

                 

                 

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                2019.02.24 Sunday

                偽りにも眼を開けて

                0

                   

                  相変わらず興味深い、日本社会の右と左の問題について。

                   

                  最近また、世相を観察していて気付いたことがある。

                   

                  現代の日本では、右寄りの人は大抵、理想主義的な人だ。左寄りの人は大抵、現実主義的な人だ。

                   

                  このこともまた、リベラルと保守とか、個人主義と集団主義とかの文脈と重なりあいつつ、右左という適切かどうかもよくわからない呼称で指摘される分裂の原因になっている。

                   

                  理想とか現実とかの言葉が不適切なら、演繹と帰納という言葉で使い分けても良いだろう。或いはプロメテウス的な思想と、エピメテウス的な思想と言うか。

                   

                  法律や制度を作ったりする人々というのは、大抵どこか子供っぽいところがあって、法律通りに世の中が動いてくれることを無邪気に期待し過ぎてしまう。

                   

                  (この期待感こそ、制度実装の第一号だけが約束された成功を得る“モデルケースビジネス”の、腐敗した温床である。理想を実現するにあたって、それについてこれない現実の方を切り離すというのではとんちが効き過ぎている。)

                   

                  反対に現場の状況でものを考える人は、結局は目の前の現実に押し潰されて何もせぬまま、何もできぬままということになりやすい。不満を述べて声高らかというのは最初の内は頼もしいが、動きがなければだんだんと周囲も疲れてくる。

                   

                  実際に世の中が求めるのは、いつもその折衷の人間である。法律にはいくらでも抜け道と迂回路があり、法制度と現実の運用はそのまま素直に直結するものではない。様々な妥協と思いもよらない転用を経て、法制度は生きたカオスの中でイデアから切り離されていくものだろう。

                   

                  思い通りには行かない。それを折り込んで尚、新しいシステムは執行されねばならない。それは望んだ結果を出すためというよりもむしろ、ある程度方向のあたりをつけながら現状を破壊してダイナミズムを生み出し、神の見えざる手に物事を委ねるため、恒常性の中にエントロピーを消化させていくために必要な取り組みである。

                   

                  システムを作る人間に必要なのは、同士たちの前に立って勇ましく先導するリーダーの視点ではない。期待に背中を預ければ、必ず現実に裏切られることになる。必要なのは、人間を空から俯瞰し、その行動と生活を分析した上で、制御管理する支配者の視点のはずである。

                   

                  (これは我ながら厳しい自戒だ。”そうは成り得ぬとしても、そうであるように努めよ。家の中の年長の子らのように。”)

                   

                   

                   

                  追記:後になって読んでみて、自分はやはりまだこの問題を完全に客観的に消化してはいないな、と感じた。文中で理想主義と現実主義という言葉を用いているが、これも若干の優劣を含む対比だと思う。私がここで言いたいのは、いずれがより正しいか、ということではなく「どちらもそれだけでは不完全である」ということであって、この意味で理想主義を理論主義に、現実主義を経験主義に、とか言葉を変えるべきかもしれない。

                   

                   

                   

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                  2019.02.23 Saturday

                  力学的エネルギー保存

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                    経済のこと。

                     

                    今となっては何を声高らかに言う必要も無く、少子高齢化に伴ってこの日本という国が衰退しはじめていることは、誰の目から見ても明らかな現実になってきている。

                     

                    一次二次三次、全体としてどの業界も厳しく、呪いのように折り重なった人件費の高騰と、経営不調から生じる低賃金、その先の消費の冷え込み、若者の家庭を持つことや子供を産むことへの敬遠の連鎖は、先を見透すこともできない広大な暗がりを、国の、特にまだ若い人たちの将来に投げかけている。

                     

                    (1999年、私はまだ13歳だった。2000年を祝うニューヨークのタイムズスクエアの活気を良く覚えている。その頃、世界はもっとずっと明るくて、希望のあるもののように思えた。けれど、そんな幻想はもう消え去ってしまった。今の子供たちはどうなのだろう。彼らは暗闇で生まれて、暗闇で生きている。希望を知らなければ、自分の置かれた惨状を嘆くこともないかもしれない。でも、それは幸せなことだと言えるのだろうか。)

                     

                    そんな趨勢にも関わらず・・・国のごく一部では、割合豊かな経済圏が確かに存在しているようだ。それはとても不思議なことの様に思える。

                     

                    なぜだろう。考えてみた。大した仕事をしなくても、ちゃんと湯水のように儲かる世界。どうしてそんな宝石のような世界がこの泥の中に存在し得るのだろう。

                     

                    考えて、何となく思ったのは、『ああ、それはつまり貯金箱か』ということ。

                     

                    資本主義の終焉の世界で、投資は常に労働より効率良く利益をもたらす。そして資本は集約していく。おおよそ殆どの国家は、再配分のためにその利益を削り上げ国家全体に行き渡らせようとするだろう。

                     

                    しかし、それを好まない人間のエゴシステムは、自らの身の回りに集積された資本を税の形で接収されるよりは、例えば大した意味の無い広告事業の組織を作ったりすることで、経費へ転換し国家に奪われない形で身の回りに蓄積しようとする。

                     

                    特に意味の無い会社の、特に意味の無い仕事。大変でもなければ、利益を出す必要もない。ただ貯金箱として存在してくれさえすれば良い。もしも仮にそんなものがあるのだとしたら、それはきっと、天国みたいな環境なのだろう。

                     

                    集約されていく資本の、節税のための貯金箱。そんなことを疑うのは、ちょっと、意地悪くなりすぎた証拠だろうか。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    2019.02.17 Sunday

                    なんと幸福な人々

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                      本日は昼から、定期的に通わせていただいているグリーフワークかがわさんの公開セミナーへ。

                       

                      その後美術館のカフェで休憩。ホットケーキのセットを頼んで一息つき。

                       

                      ふと思うのは、今日の私たちの生活というものは、何と豪奢で豊かだろうかということ。

                       

                      頼めばいつでも好きな料理が食べられ、望めばすぐに温かいお風呂で十分なお湯に浸かれる。着るものと快適な居室を探して苦労することも無ければ、おおよその病についても適切な医療を受けさせてもらえる。

                       

                      仮に私たちが、10世紀の頃のどこかの国の王になれると言われたとして。そうでなければ現代の平凡な日本人だとして。

                       

                      どちらか選べと言われたら、一体どちらを選ぶ方が豊かだろうか。

                       

                      世界は豊かになった。遥かに便利になった。それでなお皮肉なのは、世界がどれだけ便利になろうと、技術がどれだけ発展しようと、人間一人ひとりは、ちっとも幸せになんかなれはしなかったということ。

                       

                      或いは幸せに成れたのかもしれない。ただ単に幸せに慣れたのかもしれない。

                       

                      だけどそれならそれで、事態はなお良くないのだ。

                       

                      だってもしも人間が、どんな幸福や豊かさにもいずれは慣れてしまう生き物なのだとしたら、その欲望の行き着く果ては、底なし沼のようにぽっかりと空いた、永遠に暗い『退屈』という名の檻だけではないか。

                       

                       

                       

                       

                       

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