2018.11.04 Sunday

天地を紡ぐ

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    井の中の蛙、大海を知らず。

     

    小さい世界で生きている者は、おごり高ぶって自分の偏見に凝り固まっているものだ、ということ。

     

    私は、ネット世代です。中学生の頃から固定回線のインターネットが使い放題になって(その前は繋いでいる間はずっと電話料金がかかった)、高校の頃には海外のプレイヤーと一緒にネットゲームなどをしていました。

     

    ネット上では、検索すれば県外・海外の人や町の情報もすぐわかるし、生き物の名前やその生態だって、はたまた歴史上のストーリーから民間伝承まで、苦もなく一瞬で知ることができます。

     

    暇なときにはGoogleのストリートビューで中国や中東、ヨーロッパの街中を見て回ったり、情報の量やこの世界に対して抱いているイメージのリアリティという意味では、一昔前とは一線を画すものがあることは確かです。

     

    大海。

     

    これは言って見れば、情報の大海で育った、ということでもあるのかもしれません。

     

    今年から自営業をはじめて、様々現実の具体的なことを自分一人分のスケールで考えるようにもなり、この我が身小ささを反省させられる一方で、どこかしらその小さな自分の有様に安心感を覚えるような部分もあり。

     

    井の中の蛙と言うけれど、あまりにも広い世界に暮らしていると、今度は自分自身の姿形を見失ってしまう。そんなこともまた、あるのかもしれませんね。

     

     

     

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    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

     

     

    2018.10.24 Wednesday

    Livin' on the Edge

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      ここ数日、個人的な思想めいたものをブログに書き連ねています。

       

      生き方や、男女の役割、真理や実存などについて。

       

      例えば私のような、普通の一般人がこういうことを言ったり書いたりすることは、あまり歓迎されないし、人によっては不快に思われることでしょう。

       

      それは私も、わかってはいるのです。

       

      多分、この社会では、私たちはあまり深く考えてはいけないのだと思います。少なくとも人目に付くような形では。

       

      けれど、誰でも知っているアンパンマンの歌にだって『何のために生まれて、何をして生きるのか。わからないまま終わる、そんなのは嫌だ。』という歌詞があります。

       

      これは誰にだって、共感できるはずのこと。でも大人になるに連れて、何というのか、多分、先人や偉人とか、そんなものへの敬いの念が高じるあまりに、私たちは自分より偉い人が考えないようなことは、自分もまた考える必要はないし、そもそも考えてはいけないのだ、と思い込んでしまうのではないでしょうか。

       

      幸か、不幸か。上手いこと社会から弾き出されてしまった私のような立ち位置の人だからこそ、そういう束縛から解放されてしまう部分もあり。

       

      それならそれで、置かれた場所の役割をただ真っ直ぐに果たせばいいじゃないか、などなどということも思い。

       

      だからそのへんの普通のサラリーマンが、そのへんで普通に世界の始まりや宇宙、魂や意識や心の在りかについて考えたり語ったりすることだって、むしろ大っぴらにやってしまえば、案外みんな共感して、それが普通のことになっていったりもするかもしれないな、と考えてもいるのです。

       

      偶然握った手の中の短剣を、世間の懐にあっけらかんと突き刺して、そこから何が出てくるのかを見てみたい。猫をも殺すそんな危険な“好奇心”というやつを友達にして、この先も夜ルコトのサービスを、良い意味で”際立たせて”いければ何よりです。

       

       

      タイトルはエアロスミスの曲名。”Something right with the world today And everybody knows it’s wrong But we can tell ’em no Or we could let it go” 『今の世の常識がおかしいことなんて、誰でもわかってる。だけどそれにノーと言うことはできるし、じゃなきゃそのままにしておくことだってできるだろう。』

       

       

       

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      2018.10.16 Tuesday

      ミカンの夢

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        午後、いつものパソコンの前。少し、うたた寝など。

         

        気付けば部屋は寒くなっている。その空気に神経を刺激されたか、夢を見る。

         

        小さい頃、冬のある日に雪の中にミカンを埋めた。凍るだろうと思って放っておいたそのミカンのことは、そのまま忘れてしまった。

         

        春になれば、出てくるかもしれない。気付いたかもしれない。

         

        ささやかな、ワクワクするような思い出。

         

        目を覚ましたあと、冷たさに身震いしながらふと考える。

         

        ある子供が、雪の中にミカンを埋めて、そのミカンが忘れられて・・・この物語には、何か意味があったのだろうか。この宇宙にとって、何の意味があったのだろうか。

         

        意味の無い日々、流れていく個々の人生、80億の人間、日めくりカレンダーのように、入れ替わるいのち。

         

        ジェスロ・タルはこう言う。『一日中歌っている、とりとめもなく歌っている・・・』

         

        茨木のり子は、冴えた頭で口にする。『考えたり、もっと違った自分になりたい欲望などは、もはや贅沢品となってしまう。』

         

        その情景の全てが、私の頭の中で演じられる。

         

        覚めきらない眠りに任せてどうでも良いようなことを考えたな、と姿勢を正しながら、私はこんな風に結論付ける。

         

        『誰だって、本当に即物的になることなどできやしないものだ。時間や空間を超えた何かを心のどこかでは感じ取り、それを表現しなければならないと思う。ひとたびそのようなものを表現しようとし始めたら、それが途轍もなく危険で大きな困難を伴うステージであると気付くだろう。にも関わらず、私たちは天国や理想の世界に辿り着くことを求める。そうあれかし。』

         

         

         

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        2018.10.11 Thursday

        見知らぬ人への遺言

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          もしも遺言を残すとしたら、きっと誰でも、先ずは身近な人に宛ててそれをしたためることでしょう。

           

          でも中には、こういう遺言があっても良いのではないでしょうか? 誰かに向けた目的のある文書、ではなくて、見知らぬ誰かに宛てたもっと「空っぽ」で「広がりのある」遺言があったとしても。

           

          例えば、こんな風に。

           

           

          こんにちは。見知らぬ友よ。

           

          私は今、地球の人類史における西暦2018年、10月11日にこれを書いている。人類の誕生からすでにおよそ10万年ほどが経過したと思われる。また我々人間の世界の自然科学では、これは宇宙の創成から138億年ほどが経過した頃だと思われている。(1年とか1日とはどれほどの時間感覚か、説明が必要だろうか。だがそれは大変なことだ。別の研究を参照してほしい)

           

          外は雨だ。つまり、空から水が降ってくる。そういう仕組みだ。晴れやかな天気ではない。私の心中と同様に。

           

          君がいつの時代、どのような場所で生まれた人なのか私にはわからない。君の時代において”真理”はどのような形を伴って現実化しているか。それはとても興味深い。だが何にせよ、それが私たちにとって良い面だけを持つものではない、ということは変わらないだろう。このテキストがそういう君の為の、多少の励ましになってくれれば意義があるというものだが。

           

          友人よ、すでに君が知っているとおり、真の恩寵は真空の中にだけ存在する。真実が顕わになるためには、それらは引き裂かれていなければならない。物事の上辺を満たしているものの中には、それは見えない。奪われたときだけなのだ。

           

          だが多くの人々は、残酷な真実よりもむしろ温かい虚妄を選びたがるものだ。それは生物として自然なことかもしれない。けれど私たちは、そうではなかった。奪われたからだ。奪ったのは誰だ? 神そのものだ。それは呪いであり、祝福であり、一瞥であり、その場に置いて行かれることでもある。

           

          友人よ、私たちは永遠に異端者のままだろう。死なぬ呪いをかけられた靴屋のように、遊星のように、文明の辺縁をさ迷い続ける宿命が私たちを捕らえている。

           

          それでいい。そこに恩寵はある。目を開けて落ちていけ。君は全てを失う。真実は過酷だから、世の中は温かな嘘を望むから。殉教とは、きっと、宇宙の真空をただ一人でさ迷うことなのだ。

           

          律法の時代があり、信仰の時代がある。そして私は今”疑い”の時代を通して、君と同じように、君と同じ敬虔さで、神を待ち望む。

           

          何も変わらない。私たちは何も変わらない。どうか覚えていてほしい。君と同じ人間が、やはり同じ苦境の中で、同じようにこの世界を生きていることを。

           

          例え世の中の誰一人が私たちを信じてくれないとしても、私が私自信を信じるのとその同じ強さで、君も、君自身のことを信じろ。

           

           

           

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          2018.09.10 Monday

          環境か才能か

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            先日も書いたとおり、私には、今世紀の各国における文化対立の根底は、「身内と公共」の利害の衝突であるように思われる。

             

            グローバリズムは公共の人権意識を高める一方で、身内的国家的な結託を弱らせようとするエネルギーにもなる。

             

            既に各国の対立構造の中でそうであるように、知的理想化された人々は、こうした身内的な集団の団結力を『悪意ある利益の占有』だと批判するかもしれない。

             

            だが今少し、少しだけ冷静になって考えてもみてほしい。

             

            この私たち「人間」という生物種にとって、集団意識、つまりある社会集団に所属し、服従を代償に個々の生存と安全を保証されるという原初的構造がどれほど重大な意味を持つものであるか。

             

            人類史の西暦2018年、40億年という地球生命体の歴史から見ればほんのちっぽけな私たち人類の数万年の歴史。私たちはそれほど知性的か。私たち人間は、それほど神のように振る舞えるのか。

             

            答えは否だ。私たちは、今なお動物である。集まり、群れを作り、支え合い、ぶつかり合いながら命を守り伝えている。

             

            そうした私たち人間種の生命にとって、集団への帰属に関する資質は一体、どれほど重要であろうか。

             

            それはわかりやすく言えば、自身や家族の生命を守るために服従を受け入れ、自らの主体性と自由を傷付けながら、あらゆる束縛・理不尽・矛盾の中に投げ込まれてなお、集団を信じてそれを堪え忍ぶことのできる忍耐の資質である。

             

            そしてその忍耐とは、まさに自分自身の弱さと無力さへの、自覚から生まれるのだ。

             

            身内的な人間は、集団主義を取り、服従と集団への最適化の能力を軸として自己実現の柱を形成していく。

             

            一方公共的な人間は、個人主義であり、彼らの自己発展の意欲は常に、他者ではなく彼ら自身のその身に宿る能力の増大に向けられ、「頼るものはない、自分でやるしかない」という脅迫的な観念がその努力を支えている。

             

            このように身内か公共かの対立は必然的に、環境(人脈)か能力(才能)かの対立に密接に結びついている。

             

            典型的なジョブ・ホッパーである私は、かなりの程度脱集団化された、つまりは公共化された人間だと言えるだろう。その頼むところも常に、周りの人々から獲得する温かみのある支援よりむしろ、訓練と整備を重ねて蓄積された自分自身の内在的能力の方にある。

             

            だから私は、文化的対立を避けるためできうる限りそれを深く理解したいという欲求を抱きはするのだが、人間の集団への指向性について語る言葉の中に、暗く冷たいものが入り交じってしまうことを恐らく完全には隠せていないに違いない。

             

            とは言え、そうした私的経験に基づく思想を持ってなお、思うのはこういうことだ。

             

            人脈か才能か、環境か能力かの対立がある。それは互いに一長一短である。

             

            だが一体、もし仮にある人が「人脈にも才能にも」、或いは「環境にも能力にも」恵まれないとしたら・・・彼はどうしたら良いのだ?

             

            その時私たちは、きっと気付かされるだろう。身内の人間と公共の人間とは、互いに無力であり、同じように残酷であるということに。

             

             

             

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            JUGEMテーマ:心理学

             

             

            2018.08.25 Saturday

            福祉政策のブレーキ

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              今日は少し趣旨を変えて、経済と福祉のこと。

               

              ふと思ったのだけれど、福祉政策というのは、田舎のショッピングモールみたいなものである。

               

              ショッピングモールは地元商店街の小売店を駆逐し、営業が成り立つ間は良いのだが、人口が減少してくると縁の切れ目とばかりにそこから撤退する。

               

              取り残された近所の人々は買い物難民になり、すでに商店街はもぬけの殻、その土地の生活圏はめちゃくちゃになる。

               

              さて繰り返しになるが、国家全体で一律に進められる福祉政策やセーフティネットの拡充などは、田舎のショッピングモールみたいなものである。

               

              福祉政策はとてもありがたい代物だが、私たちはそれを信頼しそれに寄り掛かるばかりに、あるものをないがしろにしてしまう。それは「家」の力である。

               

              家の力とは、「家」というひとつの単位を通してスクラムを組み、お互いの生活や、人生の成功を非常に密接に守りあい支え合っていくものである。

               

              私たちは・・・場合によっては、そんなのはただの身びいきである、それを許したら社会が不公平になる、と批判するかもしれない。

               

              だが人類の歴史を省みて、国家や文明の発展の経過がどうであったかを冷静に思い返すならば、加えてまさにそうした歴史の延長線上に自分自身の存在が成立しているのだということを考えるなら、私たち人間は確かに今この時代も、「家」の力学の影響をありありと受けているという事実から目をそらすことはできまい。

               

              理想としては(つまり人間ひとりひとりの公平な尊厳という前提を私たちが受け入れるならば)「家」の力は徐々に「文化」の力に置き換えられていくべきである。生まれの違いや親の職業、肌の色や性別などによって束縛されない、誰もが平等な権利を受けられる社会、私たちはそれを、確かに目指すべきではある。

               

              だが、目指すことと、今すぐに全てを変えることは違う。目の前の現実はどうか。あまりにも長大で、それ故にゆっくりとしか動けない「社会」に向かって、私たちはあまりに性急すぎる命令を下してはいないだろうか。

               

              ショッピングモールが小売店を壊滅させてしまうように、拡大される日本の福祉政策は「家」の力を全国的に弱体化させた。今その揺り戻しのように、超々高齢化社会における福祉財源のわかりきった涸渇を前にして、あらゆる公共政策が「行政」から「地域」や「家庭」の中になんとか主体をすり変えようと苦心している様は、どこか空しく寂しいものを感じさせる。

               

              今、この日本にはきっと、「身内の日本人」と「公共の日本人」が居る。ふたつの勢力はその生活の実情において引き裂かれ、それ故に思想的に分断されている。

               

              分断されている場合ではない。私たちはひとつの国をわけてはならない。「身内の日本人」は排他主義をやめ、「公共の日本人」は権利を叫ぶことをやめなければならないだろう。しかしこれはお互いにとって、なんと苦しくまた惨めな課題であろうか。

               

              それでも、どうにかお互いの共通の星を私たちは探し出して、もう一度繋がらなければならないのだ。

               

               

               

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