2019.01.18 Friday

It's a small world

0

     

    社会が大きくなるにつれて、私たち人類はだんだんと自分の小ささを忘れるようになってきました。

     

    この宇宙、この世界は、私たちが知る限りでは138億年ほど前から存在しています。

     

    地球の誕生は45億年前。

     

    生命はその5億年後、今日から40億年前に生まれました。

     

    時代はずっと下って、進化と淘汰を繰り返し、人間という種族が生まれたのはここ20『万』年くらい。

     

    私たちの歴史の記録。人間の”文明”の痕跡。それはせいぜい2万年。

     

    慣れ親しんだ西暦の暦。たかだか2000年。

     

    ちなみに『1年』というのは、地球が太陽の周りを一周する時間。地球人にしかわからない時間尺度だから、きっとよその星に言って『1年』なんて言うと、恥をかくのでしょうね。

     

    この小さな人間の世界で、時々私たちは『正しさ』というものに悩まされます。

     

    人として、どうあるべきか。お金はどれぐらいあればいいか。果たすべき責任は何か。やってはいけない選択はどれなのか。

     

    『正しさ』というものがわからなくなれば、足がすくんで前に踏み出せなくなってしまう。

     

    でもそんな時こそ、例えばそう、自然の中にでも答えを探してみるべきでしょう。

     

    なぜなら人間の世界はたかが数万年のことだけれど、自然というものは、もう何十億年も前から、ずっとそこにあり続けてきたのだから。

     

    「私にはもう、何が正しいのかわからない。この先一体どうやって生きていけば良いのだろう。」

     

    人間が自然にこう尋ねたら、どんな答えが返ってくるでしょうか。例えばこんな風かもしれません。

     

    『ああそうだ、それはワシにもわからない。正しさというものはね。』

     

    『だが小さな子よ。正しさがわからなくとも、生きていくことはできる。』

     

    『山頂の湧き水は、川になりたくて湧き出てくるわけではないのだよ。だが自然と、そうなるのだ。ものごとの大きな流れの中ではな。』

     

    『全てはあらぬところから現れ、何もかもあるべきところへと落ち着いていく。』

     

    『自分の生きたいように生きなさい。』

     

     

     

    ブログランキングに参加しています。

    クリックで応援をお願いいたします。

    ブログランキング・にほんブログ村へ

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

     

     

    2019.01.15 Tuesday

    海月の骨

    0

       

      枕草子に「中納言参りたまひて」という有名な一節があります。

       

      この中で出てくるのが、クラゲの骨。清少納言が「それはもしかして、クラゲの骨かしらね?」と言うと、周りの人々が驚き感じ入るわけです。この人はなんとオシャレなことを言うのだろう、と。

       

      クラゲの骨。いかにもオシャレなコンセプトですね。

       

      クラゲには当然骨などないのだけれど、およそ生き物ならば(人間である自分たちと同じように)骨くらいは持っているであろう。そういう暗黙の先入観から生まれる「クラゲの骨は一体どこにあるのだ」という素朴な空想。

       

      それをひょいと裏返して、話題の中に提示してみせるセンスといたずら心が、いかにも軽妙でオシャレであるということだと思います。

       

      さて、そこから少し脱線していきますが、私もこのクラゲという生き物が特別に気に入っています。私にとってこの海に浮かぶ小さな生命の泡つぶのような生き物は、霊感的なインスピレーションを喚起してくれる象徴的な存在なのです。

       

      というのも一体いつのことだったか、別段何の前触れもなく、ある日こういうことを私は思い浮かべたのでした。

       

      『クラゲは魚を食べるけど、あれはやっぱりおいしいから食べているのかな。でもクラゲって、どう見たって脳みそが無いし、透明でスカスカなのに、おいしいなんて思うことはできるのだろうか。そもそもクラゲには、心、なんてものがあるのだろうか?』

       

      脳みその無い生き物は、自然界には沢山存在しています。しかし私はその中でも、特にこの透明で中身のない、あからさまにどう見たって”脳みそ不在”の生き物の姿をぼんやり思い浮かべていた拍子に、何かそこでかすかな戦慄のようなものを感じたのです。

       

      脳みそが無くても、心はあるのか。

       

      果たしてクラゲにも心はあるのでしょうか。皆様はどう思われますか?

       

      これは哲学的で、シンプルかつ深遠なものを含んだ面白いテーマだと思います。

       

      あえて「答えはこうです」などと、無粋なことを言うのはやめておきましょう。どうぞお時間のあるときに、少しぼんやりと考えを巡らせてみてください。

       

      ちょうどそう、世に珍しきクラゲの骨を探して、ご自身の思考の海をただよい揺られていくように・・・。

       

       

       

      ブログランキングに参加しています。

      クリックで応援をお願いいたします。

      ブログランキング・にほんブログ村へ

       

      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

       

       

      2019.01.11 Friday

      新たなる神格

      0

         

        時々そう言っているのですが、私たちは知性-生命という両輪について、知性を優位なものだと考えすぎています。

         

        生命はそれ自体、宇宙を拓いていくエネルギーの流れであって、これが無ければ私たちの意識世界はそもそも、賢かろうが愚かであろうが”存在すること”自体できなくなってしまいます。

         

        そういう私たちの文化の不完全さ、バランスの不均衡については恐らく、思想的な人々によって近代どんどん認識されていっている所でしょう。

         

        そこで宗教心理という面からみて、私は神格、偶像というものについて語ってみたいと思います。

         

        知性の神格は、人間の歴史の中に広く見出され、一神教の興りと共に現代の人間たちの文明にしっかりと根付いています。

         

        それはつまり主にはキリストであって、またブッダも少なからずそうした類型に収まるでしょう。

         

        では、生命の神格はどうでしょうか。

         

        その昔、神話の時代にはイナンナやアルテミスなど数多の”地母神”が崇拝されていたのは広く知られたことです。

         

        しかしそれも前述の一神教前後において状況が変わり、知性の神格が独立した人間性のイメージを深めていくことで私たちにより身近な影響を及ぼしていく反面で、自然崇拝的な信仰対象は人類の思想への影響力という点において徐々に(古くさく、愚かしいものと見なされて)勢いを失っていったように見えます。

         

        知性と生命における宗教の発展段階をそれぞれ比較するならば、知性は人型の神格(一種の英雄)を得ているけれど、生命は人型の神格を獲得していない。こういう風に見ることもできるでしょう。

         

        未だ存在しない”生命の英雄”とはどのようなものか。ここで雄という字を用いることには多少抵抗を覚えます。なぜなら生命の神格は、知性の神格と(ダンスを踊るように)対になり生まれることではじめて、現代の私たちの文明に欠けているものを補完しうるからです。(補完的なものでないとしたら更新的なものになるのではないか。その場合、何かしらの文化の破壊と再生を必要とするに違いない)

         

        つまりそれは女性であって、キリストに相対するものとしての役割を持つ何か・・・

         

        そういう難しい役割を持つ偶像というものが、実はすでに世の中には存在しています。

         

        キリスト教文脈の影の中には、「聖者と異端者」を「富者と貧者」という形で見る文化が存在します。それは魔女の文化です。魔女文化は部分的に「”裁く者”から弱い者たちを守る」という命題を持ってもいるのです。

         

        より近年になって、この魔女文化の中で”アラディア”という偶像イメージが誕生しました。私が生命の神格として取りあげたいのは、まさにこのアラディアです。

         

        アラディアは文化的に言えば恐らく狩猟神アルテミスのイメージが引き継がれたもので、その特異な所はキリスト教文化と対立する中で人々を守ってきた(少なくともそういう命題を持っていた)経緯を持つ、魔女文化の新しい落とし子だということです。

         

        この流れがあればこそ、知性の神格としてのキリストと相補するものとして、アラディアは生命の神格となり得る、と私は考えます。

         

        知性の神格としてのキリスト、生命の神格としてのアラディア。この対比とバランスの中で神性というものが力動的に形を変えていくとき、私たちの心の文化の文脈がどう書き換わっていくのか、というのは長大な話になるでしょうから、今は手を付けずに置きましょう。

         

         

         

         

         

         

        ブログランキングに参加しています。

        クリックで応援をお願いいたします。

        ブログランキング・にほんブログ村へ

         

        JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

         

         

        2019.01.06 Sunday

        Untouchable FAITH

        0

           

          敬虔さ、ということについて良く考えます。

           

          恐らく一般には、敬虔さとか信心深さというと、ある掟を守ったり、教えられたことに疑いを挟まないことを指すのでしょう。

           

          しかし私の思想上に限れば、そういう態度が敬虔さというものといまいち合致しません。

           

          これは私にとって、キリスト教文化との最初の繋がりが、アメリカのショックロッカーであるマリリン・マンソンであったことに由来しています。

           

          ライブ中に大会衆の前で聖書を破り捨て放り投げた彼はキリスト教徒にとっての目に見える”悪”なのだけれど、皮肉にも私にとっては、彼こそがこの世界で最も敬虔な人間であると思えます。

           

          マリリン・マンソン、本名ブライアン・ヒュー・ワーナーは厳格なカトリックの家庭に生まれ、そうした家庭の常として聖書を基準に道徳規範を教え込まれながら育ちました。

           

          その過程で彼は神を恐れるようになり、同時に、自分を取り巻く世界の大人達が表面上ではいかにも聖書の教えを遵守しているように見せるのに、肝心な所では容易に自己の堕落した欲求に身を任せてしまう偽善的な信仰を持っていることに疑問を抱いていきます。

           

          そうしたマンソン氏の信仰についての”真剣さ”は、彼の音楽パフォーマンスの中で意外な方向に開花していきます。

           

          彼は「上辺だけのキリスト教」を否定し、「上辺だけの道徳」を批判するために聖書を破り、ナチスっぽい服を来て、憎しみと破壊の言葉を歌詞の中に書き連ねます。

           

          結局彼は、人々は神を信じているのではなく、最もらしい道徳で自分をより”まともな”人間らしく見せるために聖書や神や社会道徳を着飾っているに過ぎない、という、極論すぎるけれど本質としては良く把握された結論に辿り着き、その腐敗した淀みをあえて川底からすくい上げ、人々の前に晒すのです。あながたの汚れた心と、私の表面的な態度とであれば、一体どちらがより不誠実だと思うか、と。

           

          Repent, that's what I'm talking about. " 悔い改めよ 俺はまさにそう言っているんだ"

           

          こういう思想の影響を受けて私は、敬虔さを「無知についての開放性」として、真面目さを「物わかり良い振りをしない単純さ」として、信心深さを「真実にのみより頼む疑いの心」として、自分の中で整理しているのだと思います。

           

          マンソン氏が世間から酷く憎まれ同時に深く愛されてもいるように、そういう”真剣さ”の是非というのは、中々簡単に言えることでもないのですけれど・・・

           

           

           

          ブログランキングに参加しています。

          クリックで応援をお願いいたします。

          ブログランキング・にほんブログ村へ

           

          JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

           

           

          2019.01.05 Saturday

          人類(ヒト)は一生を振り返って

          0

             

            世界に別れを告げる日に 人は一生を振り返って 自分が本当に生きた日が 余りに少なかったことに驚くだろう。

             

            −茨木のり子

             

             

            本当に生きた日。それは何のことだろう。

             

            意味のある日、なのか。変化のある日、か。何かとの出会いのことか。努力と充実の相関は。情熱と報酬の相反は。

             

            でも、はっきりとわかる。

             

            効率的な人生は、死の湖に自分から身を浸すようなもの。

             

            いずれ全てはつまらなくなり、いずれ全ては、死に絶える。

             

            命を取り戻すための呼吸は、亡骸を離れてはじめて生じる。

             

            そのためには自分すら捨てなくてはならない。

             

            新しい限界、新しい制約、真新しい苦痛、その全てが肉体に流れ込んでくるとき

             

            私たちは、勇敢にも目を開けて、この新しい世界を生きはじめる。

             

             

             

             

             

            ブログランキングに参加しています。

            クリックで応援をお願いいたします。

            ブログランキング・にほんブログ村へ

             

            JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

             

             

            2019.01.03 Thursday

            Nature is Satan's church

            0

               

              前日の記事 の続きです。

               

               

              知性の中から見ると、生命は邪悪な存在。では逆に生命の中から見ると、知性とはどのようなものなのか。

               

              生命の外側、この宇宙の物理法則、制約、限界、わかりやすく言えば弱肉強食、できぬことはできぬという、”物の道理”。

               

              そういう”不都合な真実”を運んでくる(外界を取り込む力としての)知性は、生命から見れば、支配と束縛、破壊と暴力、衰弱と無気力を運んでくる、病のような”邪悪な存在”です。

               

              知性にとって生命が邪悪であるように、生命にとっては、知性こそが邪悪な存在だということ。

               

              言い換えれば、男性にとって女性は邪悪であり、同様に女性にとって男性は、邪悪なのです。

               

              さてここまで、話をわかりやすくするために男性/女性と、知性/生命を等しいものとして扱ってきました。

               

              ですがもう少し踏み込んで言うと、男性だから完全に知性的であるとか、女性だから完全に生命に溢れているとかいうことは、現実には有り得ないことです。

               

              現代の私たちが忘れてしまっている一番大切なこと。

               

              それは、『男性であれ女性であれ、私たちは結局は人間という”生命”なのだということ』

               

              男性も女性も、共にその本質は”生命”なのです。”知性”はそれをより良く発展させるための機能、道具に過ぎません。

               

              この意味で、生命とは木の幹、知性とは枝葉であって、女性はより木の幹に近い存在、男性はより枝葉に近い存在なのだと言えるでしょう。

               

              男性が知性の中で生命を嫌うとき、それは幹から切り落とされた枝葉だけの植物のように、虚ろになります。

               

              同様に女性が、生命の中で知性を厭うとき、それは枝葉を無くした木の幹のように適応力を無くし立ち枯れていくことでしょう。

               

              精神の完全な統一は、一人の人間がこの”生命”と”知性”の双方の役割を受け入れ、自分の中に存在する男性的な要素と女性的な要素を共に飼い慣らし、統合していくところにこそ存在します。

               

              現代の私たちは、特に”生命”の価値を忘れがちです。

               

              肉体の中で、男性性を成長させる因子であるテストステロンというホルモン。その濃度が濃くなるにつれ、肉体の中の免疫力が低下し、寿命は短く、生体の活動を維持するためのセンサーは鈍麻していく――

               

              こうして男性的な人間は、生命を部分的に失う代わりに、外界の影響力をその身に反映し、自らを変形させてしまうことで(免疫とは変形されたものを元に戻す力だ、と考えても良い)、新しい適応のスタイルを種全体に橋渡しする力を得る。

               

              この動きこの努力は全て、”生命”そのものの、木の幹に向けて行われているものです。私たちの”知性”は道具、その本質は”生命”。

               

              ”生命”が持つ役割と位置を再定義し、その忘れ去られた価値をもう一度私たちの社会が再認識するまでは、本当の「男女平等」は訪れないのです。

               

               

               

               

               

               

              記事のタイトルはラース・フォン・トリアー監督の映画『アンチクライスト』から。”自然は悪魔の教会である”―性倒錯と心の病を扱ったショッキングな映画だけれど、巨匠アンドレイ・タルコフスキーに捧げられた作品だけあって、その映像の詩的表現は美しく印象に残る。

               

               

              ブログランキングに参加しています。

              クリックで応援をお願いいたします。

              ブログランキング・にほんブログ村へ

               

               

              JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

               

               

              2019.01.02 Wednesday

              The nature of my game

              0

                 

                女性は、邪悪な存在だ。

                 

                物議を醸すようなこういう物言いが、私は好きです。

                 

                人はこういう、あまりにも間違った命題(しかしそれは人々の、抑圧された隠れた信念でもある)を提示されると、思わず逃れられなくなる。引きつけられてしまう。ちょっとした心理トリックですね。

                 

                さて、私が思う限りでは、女性は邪悪な存在です。

                 

                私は男/女の性別の区分けを、主に知性/生命という二分別の枠組みの中で取り扱っています。

                 

                男性の方が知性的で、女性の方が生命に溢れている。

                 

                こういう表現をするとき、”知性”という言葉をIQとして捉えると今ひとつしっくり来ないのですが、私はここでは、”知性”という言葉に「外の世界を自分の中に取り込む力」というニュアンスを与えたいと思います。

                 

                つまりここで言う知性とは、生命と、外界の自然法則とを、橋渡しするもの。その素質。能力。

                 

                そういう風に考えると、昨今のこの私たちの社会における男女平等観というのは、どうにもいけ好かないものです。

                 

                私たちの社会において、男女平等とは主に、女性が男性と等しくなれることを意味しています。

                 

                女性だって本当は、男性のようになれるーーそれは結局、男性の視点からの評価に基づいているのではありませんか?

                 

                つまり私たちは、知性的に世の中を見ているわけです。知性の中から。

                 

                知性の中から見ると、生命は邪悪です。それは自然法則をはね除け、秩序を破壊し、新たな混沌を生み出すからです。

                 

                だからこそ、”男性”よりもより生命力に溢れる”女性”は、わがままで、偉そうで、無知なくせにそれを反省もしない、邪悪な存在だと言えるのです。

                 

                ですが、より知的で公平な人間であるために、このことを逆からも考えてみましょう。

                 

                もしも私たちが、「生命の中から」物事を見るなら、そのとき知性とはどのようなものなのでしょうか?

                 

                このお説教はどうも長くなりそうなので、また明日に続けます

                 

                 

                 

                ブログランキングに参加しています。

                クリックで応援をお願いいたします。

                ブログランキング・にほんブログ村へ

                 

                 

                JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                 

                 

                2019.01.01 Tuesday

                0

                   

                  例えば死化粧というのは美に関わることだから、何となく私も、美というものについての考えを持ちます。

                   

                  何事か言えるほど道を進めはしなかったけれど、なお言うとしたら、美を答えのように考えると、良くないこと。

                   

                  美しくあろうとする意図、美しく振る舞おうとする所作、美しいものを作ろうという技術、そういうものはすべて美しくない。

                   

                  美は機能を計る物差しであると思います。明確な意図に基づき、十分に状況を察知し、ひたすら間隙に滑り込んでいく。

                   

                  高められた機能は美しい。それは無機物も有機物も同じ。

                   

                  ただ「こういう正解があるから、それ通りにしよう」というのは違う。

                   

                  そういうものは硬直していて、与えられた素材とか、大げさに言えばそのものの天命のようなものを良く眺めていないから、傲慢で他人事になる。

                   

                  いつだったか、『掘る前から、石の中にすでに像が宿っている』というような彫刻家の言葉を読んだ。

                   

                  きっとそのようなことなのでしょう。

                   

                  触れることは創ること。想うことは動くこと。知ることはそれを癒やすこと。受け入れることは、それを操ることと良く似ている。

                   

                   

                   

                  ブログランキングに参加しています。

                  クリックで応援をお願いいたします。

                  ブログランキング・にほんブログ村へ

                   

                   

                  JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                   

                   

                  2018.12.30 Sunday

                  巧妙継続

                  0

                     

                    ふと思ったこと。

                     

                    上手なことと、やり続けられることは違う。

                     

                    それはちょうど、男女の違いにも似ているように思えます。

                     

                    例えば料理であれ、掃除であれ、本当に上手なのは男性。でもそれをやり続けられるのは、女性です。

                     

                    生きることも多分、上手なのは男性、やり続けられるのは女性。

                     

                    さてこういう、性差というのが微妙な問題であることは、現代人である私には良くわかります。

                     

                    ただそういう微妙さというのは、往々にして、複数の問題を一緒くたに扱うから起きるものだとは思っています。

                     

                    例えば、法律における良し悪しと、倫理における良し悪し。この二つは良く似た兄弟ではあるけれど、時々喧嘩もします。

                     

                    法が悪と定めても私たちの感情がそれを受け入れられない事案、或いは反対に、法が良しと定めても、感情ではそれを受け入れられないとか。

                     

                    男女の問題は、例えば医学的な事実としての肉体の構造の違い、ホルモンバランスの違いなどを通して見れば、その肉体だけでなく脳機能つまり精神までも、完全に性別に依存した特性が存在しているように見えるでしょう。

                     

                    しかしまた別の見方として、男女の人権の違い、について考えるとどうでしょうか。男女のいずれが、より人として権利が上なのか。こういう問いかけは非常にナンセンスな、くだらないものだと言えるでしょう。なぜなら人としての権利は当然、一人ひとり平等だからです。

                     

                    また、こんな風にも言えます。

                     

                    私たちは今、私たち自身の性別が歴史の中で『どうであったか』について述べているのであって、性別とは本来『どうであるべき』なのかを論じているわけではないし、今後『どうなっていくか』について話し合っているわけでもない、と。

                     

                    人間は、その長い種の存続の歴史の中で、刻一刻、前時代的な自然を克服してきました。服を着て、道具を使って自分より大きな獲物を狩り、灼熱のアフリカからわざわざ極寒のアラスカまで移り住んでみたり、火を使い鉄と電気を得て、今では自分たちのルーツである遺伝子そのものさえ操作しようとしています。

                     

                    こうした行為の全てが反自然的なものであり、同時にそれはまた、人間という存在がこの世界にもたらす自然の新たな一段階なのだとも言えるでしょう。

                     

                    人間というこの超自然的な生き物が、この先の歴史においても前時代的な自然の束縛を着々とかなぐり捨てていくことは間違いないでしょう。それは例えば地球という狭い住処であったり、不便で不安定なたんぱく質の肉体であったり、やっかいで矛盾したこの”性別”というくくりであるかもしれません。

                     

                    個人的に私は、性別というものを主に悟りとか自己超越といった文脈で考えます。その文脈から言えば、精神の完全性と性別とは無関係な問題だと思います。月への競争においてはウサギもカメも大差が無いように、それは表面的なわずかな違いにすぎません。

                     

                    ただしだからといって、ウサギが自分をカメだと思い込んだり、カメが自分をウサギだと思い込んだりすると、また少し遠回りをすることにはなるのでしょうけれど。

                     

                     

                     

                    ブログランキングに参加しています。

                    クリックで応援をお願いいたします。

                    ブログランキング・にほんブログ村へ

                     

                     

                    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                     

                     

                    2018.12.27 Thursday

                    拝み回りと本頼み

                    0

                       

                      「どの神へでも、わが一心と思う神へすがりさえすれば助けてくださる。あの神へも頼み、この神へも頼みては、神の力関(力の及ぶ範囲)が知れぬわいの」−金光教経典”御理解集”より

                       

                      心理というものを学んだ人であれば、この文章が指摘していることの内容は何となくわかることでしょう。

                       

                      ”転移”とか”対象”というものを深くとって、心の深い部分の内容を呼び起こしていくためには、それなりの舞台装置や触媒となる偶像が必要です。(”積極的な”超自我機能との関与)

                       

                      心の深い部分に触れようとするとき、そこには押し込められた様々な葛藤や恐怖などが渦巻いています。こうしたものの扉の前に立つとき、私たちの心はまた、ヌミノース(存在への恐怖)にひたされて神秘的なニュアンスをも帯びてくることでしょう。

                       

                      そして逆説を言えば、”神秘性”という特殊なクッションを通して、常に自らの心の深い部分にアクセスしようとする特性が、私たち現代の日本人の中にも深く根付いているのだと思います。

                       

                      心理学は、かなり予防的なもの、健康のために世間一般の誰もが知っておくべき知識、というように私には思えるのですが、現状を見ればそうではなくて、臨床や福祉などのごく特殊な一領域に押し込められている感じがします。(啓発活動より実際の治療などに重きを置く体質があるのかもしれない。)

                       

                      それで、今の日本でそういう不足した”水際対策”の代替として上手く機能しているのが、”占い”や”ヒーリング”だと思うのです。

                       

                      ごく自然に、ちょっとしたカジュアルな”神秘的好奇心”を通して、相当数のまだ精神疾患というほどでもない人々がケアをされている。それは当然ひどい玉石混淆なのだけれど、この予防不在の世界において、精神疾患予防の実務者として、確かにそういう領域が存在しているのです。

                       

                      精神疾患予防として、より整備された安全なものを提供できるなら、それは良いことでしょうね。

                       

                      ただ、そういう品質を重視するあまり、現に困っている人に対して誰もケアの手を差し伸べることができなくなってしまうというのは、私には何か歪んだことのように思えます。

                       

                      私が腹ぺこで何も無い人間なら、カビの生えかけた固いパンであっても、食べれるなら食べたいと思う。

                       

                      真心か、責任か。

                       

                      それは多分JALとJETSTARとか、マクドナルドとフレンチレストランとか。そういう対比にも似ているもの。

                       

                      であればその是非を決めるのは、消費者なのかもしれませんね。

                       

                      我々はただ、めいめいのキッチンで、自分の信じるものを作り続ける、というだけのことでしょうか。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                      ブログランキングに参加しています。

                      クリックで応援をお願いいたします。

                      ブログランキング・にほんブログ村へ

                       

                       

                      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

                       

                       

                      Calendar
                        12345
                      6789101112
                      13141516171819
                      20212223242526
                      2728293031  
                      << January 2019 >>
                      【 ランキング参加中 】

                      にほんブログ村
                      Webサイト
                      夜ルコト 心理ワークス https://yorukoto.net
                      Selected Entries
                      Categories
                      Archives
                      Mobile
                      qrcode