デス・ツーリズム
長期計画として、『死の家』では海外への安楽死旅行(デスツーリズム)を事業として行う予定です。
そして更にその後には、法改正の後の国内安楽死事業の整備を目指しています。
今現在の日本では、こうした計画を立てること自体かなり不謹慎と思われるかもしれません。しかし、将来的には人権意識の向上の兼ね合いで、『死に方を選ぶ権利』というものが必ず目に見える課題として立ち現れてくると思います。
この流れを推進する側の人間として、もちろん私自身は、安楽死を通して死を迎えるつもりでいます。一月ほど山中の別荘にでも隠れて世の中を振り返りつつ、気の向いた朝にこの世界にお別れを言いたいと考えています。(それが国内になるか、国外になるのか、まだわかりませんが)
現代の私たちは、死をかなり恐れる傾向にあります。だから『安楽死』と聞くと、なんだか恐ろしい禁忌、あってはならないことのように感じるでしょう。
安楽死の法整備や安楽死施設の設置は、倫理の腐敗、生命の軽視と、優生思想を誘引する、と考えている人もいるはずです。
しかし私が思うに、安楽死施設の設置が、生命倫理を腐敗させることはありません。むしろそれを向上させるのです。
なぜなら己の死生観を深める機会に恵まれ、その命のパズルを完成させた人間だけが、自らの生命を恐怖なく終わらせることができるのだから。
こう考えると、安楽死施設が実働するかどうかということは、実は大した問題ではありません。社会の中にそうしたモニュメントが存在すること自体が、私たちの低下した生命倫理への感性をもう一度復活させ、一人ひとりの人生への主体性が取り戻されるきっかけとして、その役割を果たしてくれるはずだからです。
ただ、今でさえ、意図強き人々が年老いてからも様々な形で自殺を図ります。納棺師としての私のキャリアの中では、家族に恵まれた裕福な女性がぼけるのを嫌って首をつった事例があったし、もっと気丈な人になると、死ぬ一月ほど前から絶食して、ジャイナ教の高僧のように枯死を選んだという方もおられました。
そんな悲しい努力をせずとも、人は人として尊厳を持ったままで、苦しみなく世を去る権利だってあるはずです。
それが生命の大綱を逸脱すると言うのなら、弱肉強食という自然の仕組みに従わない私たち人間の有り様そのものを、一体どう捉えろと言うのでしょう。
私たちには、死について考え、死についての意見を持つ自由があります。
またそれは何も、良く生き満足して自分の存在を完成するという、人間の普遍的な幸福と相反するものではないとも思うのです。
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イレギュラリティ
最近は、このブログでも宗教や実存に関する記事を書くことが増えてきました。
かなりセンシティブな話なので、個人的には結構気を使う部分でもあるのですが。
現状では、私がさせていただいているサービスというのも、終活なども含めてほとんどがそういった分野のお仕事です。
そもそもこちらのサービスはカウンセリングと言っても保険が効かないし、臨床心理という面ではもっとちゃんとしたところがいくらでもあって、皆様そちらを選ばれるのが当然の流れでしょう。
けれどもオウム真理教以来、すっかり宗教アレルギーのこの日本。実存的感性の欠如が私たちの人生を無茶苦茶で無意味なものに変えてしまい、他人や自分自身に向けられるはずの優しささえ失わせている・・・
そういう現状があるのもまあ確かなことですし、夜ルコトはひとつこのまま方向転換というのも趣きがあって良いかな、などと考えているところです。
(なんて言いながら、オカルト好きな子供の頃からそういう分野への興味が相変わらず抜け切らない、まだ多少子供っぽいところがあるのだな、などと自覚しつつ・・・)
"時には道を踏み外す選択も必要だ"
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さらばブログ村
ランキングに参加しているブログ村で、リニューアルの関係とかで新着記事が全く反映されなくなってしまった・・・。
同じ症状の人が沢山居るらしくて、今のところサイト側の対処を待つしか無いようだ。
何にせよこのままではアクセス数もめっきり減ってしまって寂しいので、一旦別のランキングに移動することを決意(薄情だな)。
そんなこんなで、こちらの記事は初投稿のテストを兼ねています。
はてさて、どんな具合になるやら。
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死の家?
死の家。
シノイエ、です。
いずれ作ろうというその施設の名前。
”死”だなんて、普通は店舗や施設の名称には使わないですよね。
もちろん、わかっていてこの言葉を使っています。
わかっていて敢えてこの言葉を使うのは、私はこの社会に対する一種のショック療法として、この施設を作り上げるからです。そこにはなにか、人が抑圧し続けている根源的な感情を暴露し、強烈に惹き付け、掻き立てていく要素が必要だと思うのです。
加えて、この施設の意義、意図する方向性というのは、次のようなものでもあります。
それはつまり、「私たち人間の意識的な文化の力によって、”死”という未踏の混沌、荒れ狂う自然のダイナミズムを、受け止め、整列させ、芸術的なわざの中に飼い慣らしていくこと」です。
もっとわかりやすく言うと・・・
「”死”を禁忌(タブー)でなくすること」
そのために、この施設そのものが”死”という言葉によって明朗に飾られているということは、いかにも良いことであると思うのです。
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Imagine
長期の目標として、死の美術館のようなものを作りたいと思っています。
今すぐにどうこうと言うわけではなく、一種のライフワーク、生涯の仕事としてですね。
”死の家”と名付けたこの施設が日の目を見るのは実際にはいつの日やら、とは言え資金調達等のことを念頭にも置きつつ、ビジュアル的にもコンセプトを少しずつまとめて行こうと思っています。
美術館と言ったけれど、もう少し細かく説明すると人文学を基調とした大型のカフェ、のような施設。
老若男女を問わず、レリジョン・フリー(宗派無制限)に”生と死”について考えていける場所をイメージしています。
構想段階のビジュアルは以下のような様子。シンボルツリーを中心とした時計型の建物で、”有限の時間の中に生と死が混沌として充満する”イメージ。画像作りの粗雑さはご愛嬌。
下の画像は見取り図。
上記のイメージは新たに建築することを想定したものだけれど、施設の規模や配置や機能は、土地や物件など諸々のご縁に応じてまたゼロから計画していくことになるでしょう。
突然こういうものを作り始めたのは、近々新規出店されるというある経営者の方が、構想段階からアートワークにすごく力を注がれていて、影響を受けたから。新奇性のある事業では、訴求力は伸るか反るか。イメージがあると伝わる可能性はぐっと上がる。こうして人から学ばせていただけるというのは、有り難いことですね。
”死の家”については、今後も当ブログで少しずつ説明なり、進捗なりを書き記していけたらと思っています。いずれ皆様の目の前にこれをお披露目できる日が、来るやら来ないやら、どうぞ楽しみにお待ちください。
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spirit away
単純な問題提起。
葬祭って、宗教か、心理か。
葬儀がビジネスであるということは、すでに厳然たる事実。
葬祭の中でも特に作業や手続きの部分はとてもドライなビジネスですが、それ以外に感情的なものを含んだセレモニーの要素がある。
ではそのセレモニーの領域は、宗教的なものなのか、それとも心理的なものなのか、ということ。
これについては、多分、ご葬家というか施主様、ご家族個人個人によって、お考えの違うところではないかなぁと思います。
宗教的なものだという方も相当数。それよりは心理的なものであるという方も、ある程度。
けれどこの世の展望を考えれば、それは少しずつ、ゆるゆると、宗教的なものから心理的なものへ変遷していくのではという気もします。
しかし今のところ、葬祭、セレモニーと言えば宗教色の強いもの以外の選択肢はあまりなく。それが不要と思われる方はセレモニーそのものを葬祭の内容物から取り外して、作業と手続きだけで良いという判断をされる方もおり。
”死”というものが単なる行政手続きだけで終始するものに変貌していくとしたら、それはそれ物悲しい部分もあるのだろうし。
そろそろ、そろそろ。別の選択肢もあってはどうでしょうか、という、そういうことでございます。
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グリーフ・エンカウンターとは何か
私がまだ納棺師をしておりました頃、あるご葬儀でのことです。
それは直葬でしたので、ご納棺を終えたら後は火葬のための出棺を待つのみというご状況。
ご家族数人だけでお集まりになって、納棺の最中、ご親戚の女性がお一人訪ねてこられました。遠方から、どういうわけか故人の逝去を聞きつけてやってきたとのことでした。
簡単に挨拶があって、その後ご納棺のほうもつつがなく。
するとそのご親戚の女性は、すぐに帰られるという話に。ご家族の負担にならないようにというご配慮だったのでしょう。
遠くから来て、故人にちょっとご面会されて、積もる気持ちもあったであろうところ、すぐにお帰りになりました。
ああ一体、あの女性は、故人が最後にどんなご様子で、どんな亡くなり方をされたのか、知ることができたのだろうか。ご遺族に伝えたい気持ちやエピソードはなかったか、ご遺体を前にして、故人へのご自身への想いを省みることはできたのだろうか。
そういうことを考えながら、何だか今日我々の、葬送の空しさというようなものを滔々と考えさせられたのです。
こうした経験が元になっていますので、グリーフエンカウンターは先ず、会の代表者の方が故人のご年齢や、お辛くなければ死因、ご逝去の場所などを説明し、その場の全員で事実を共有する所からはじまります。
その後、皆様お一人ずつ順々に、いくつかの質問を通して、故人との大切な思い出や想いを打ちあけて、気持ちを確かめあっていく時間。
それが終わって、皆様お気持ちをある程度開示できたというところで、クロージングとして、故人への祈念としての詩の朗読。
最後にリラクゼーションの時間を少し設けて、この後今しばらくお辛い時期もあろう中で、心に癒やしをもたらすセルフケアのクセを少しばかり身に付けていただき、会は終了となります。
こういう次第で、グリーフエンカウンターの全体は「開示→共有→手当」という一貫した方法の中で、安心・安全に配慮した形で、参会者の方々の心の回復を促し、故人と遺族の間に、温かな心のつながりをしっかり結び付けていく、ということを実現するのです。
その場の雰囲気作りなど小手先の装飾は色々ありますが、グリーフエンカウンターの骨格というのはこのようにシンプルなもので、難しくはないはずです。
葬送文化の一端を担う人間として、葬儀前後におけるエンカウンターの習慣が、もっとどんどん世の中に広まり根付いていけば良いのになぁ、とは、いつも思っているところです。
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