2019.01.10 Thursday

生きられるだけ生きる

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    私たちは生きていく中で、色々な”人として”の基準を作り上げてしまうものですね。

     

    学校に行かなきゃいけない、高校を卒業しなければ、大学を出なければ、新卒で入社しなければ、努力して資格を取らなければ、昇進しなければ、結婚しなければ、子供を育てて、また教育をしていかなければ・・・

     

    そういう作られた人間観に合致していくことで、生は安定し、活動は効率化される。

     

    しかしそれは社会が長期安定の体勢に入っていればこそ。

     

    情報化された社会の変化のスピードはますます加速し、あらゆる分野でベストプラクティスはどんどん入れ替わる。王道のやり方というものが存在しなくなって、「これさえしていれば大丈夫」という組織や集団が真っ先に取り残されていく。

     

    こういう加速した世の中では、固定的な価値観、人間観、人生観はむしろ足かせにさえなるかもしれません。

     

    人としてこうあろう、こうでなければ、というのではかえって不幸になる。

     

    基準があればあるほど、自分自身の出過ぎた部分と足りない部分が多すぎて、だんだん苦しくなってくる。

     

    それならそれで、もう基準というものを取り外してしまう方が良い。

     

    人間をやめて、生きられるだけ生きて。

     

    それだって立派なひとつの命。この宇宙の、ささやかな現象。

     

     

     

     

     

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    2019.01.07 Monday

    年とって死ぬ

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      世の中はおかしくなっている。どんどん悪い方に進んでいく。それを今すぐにでも、何とかしなければならない。

       

      そう思っていた時期が、私にもありました。

       

      きっと良い時代を知っている人ほど、落ちていく時には苦しむものなのでしょう。

       

      この日本という国は、人もどんどん少なくなって、福祉関係のシステムもあまりにも重荷になってきた。年金制度は目に見えて崩壊してしまったし、政治の意志決定、産業界の流れ、人々の生活スタイルのそれぞれがちぐはぐになって、もう全然上手く動いていかない。

       

      経済成長、ものすごい好景気。虚勢を張ってまだまだ元気な風に見せているけれど、あちこちガタが来ているのは隠せない。

       

      ――苦しんでいる。逆境に負けまい負けまいとして、多分苦しんでいる、ということでしょう。

       

      『もうおじいちゃんやんな。』

       

      そんな風に、複雑な気持ちでこの国を見ています。

       

      地域活性化の仕事をしていたとき、当事者である地元の方が、一番良くものごとを分かっていました。

       

      「この土地は一度栄えて、いずれは消える。人も居なくなってきた。もうすぐ村全部が無くなる。それで良い。それが自然の流れなんだから。」

       

      落ちていく時間というのはある。それはそれで、分かっておれば何も怖いものではない。

       

      『もうすっかり、おじいちゃんやんな。無理せんでもええよ。』

       

      別に、年をとって身体が動かなくなったって、それで嫌いになるわけじゃあるまいし。

       

      衰えたって、日本は日本。しゃあなしや、自然の流れやさけ。ゆっくりいこう。

       

       

       

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      2019.01.04 Friday

      終わりなき生

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        ただほんの着想、つぶやき。

         

        もしも私たちが自分で自分の人生の幕を下ろそうとしたら、それには途方もない勇気(でなければ絶望)が必要だろう。

         

        (末期ガンの最終ケアとしての安楽死は、ヨーロッパでは事例も増えてきた。安楽死推進の先進国であるフランスでは、これをテーマにして物議を醸した映画も制作されているし、終末期の特定条件の患者にだけだが、鎮静剤で死ぬまで昏睡に近い状態を保つ方法に関する法律も作られている⇒持続鎮静法 法的な対応の遅れる日本国内でも緩和ケアの現場で”緩和”と”安楽死”の灰色の領域で静かに事例を増やしており、長寿化と医師・家族の負担、在宅ケアの増加など様々な要因の影響を受けて、今後よりメジャーな方法になっていくことだろう)

         

        仮に私たちが、自分で自分の生き方を終わり方を決められないとしても、より大きな何かが、例えば社会が、国家が、世界の医学的常識が、それを規定してくれるとしたらどうだろう。

         

        高齢になった私たちのフレイルティが細かく計測され、一定の基準に収まる人には安楽死が許容されるとしたら。

         

        それは言い換えれば、社会が私たちに「ここまで生きていて良い」という線引きを、間接的に定めることでもある。

         

        社会が人間を規定することについて現代の日本人は慣れっこになっているが、それを許容したくない私のような人間も、その中には少なからずいる。私の在り方を社会に規定されたくはない。そういう人間にとって、何か大きなもののラインに乗せられるということは耐え難い権利の剥奪としても映るだろう。

         

        議論が必要だ。当然議論が必要で、私たちはその線引きを他人に委ねてはならない。

         

        しかし、実際は委ねている。現実がそれを線引きしてくれる。理想がどれだけであろうと、好みがなんであろうと、現実そうするしかないというところで、私たちは持続的鎮静という安楽死の新しい形態を開発してまで、自らの死を考えることから逃げ続け、それを自分すら預かり知らぬ場所で処理してくれる誰かを探し求めているのだ。

         

        自らの意志で、しかも自らの知らぬ間に、安楽死させられること――それこそ私たちの本当の願いなのかもしれない。

         

         

         

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        2018.12.29 Saturday

        いしのなかにいる

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          世界には、案外たくさん、遺体の処理の仕方があるものです。

           

          私たちが良く知る火葬に始まり、キリスト教圏でメインになる棺に納めた上での土葬、イスラム圏も土葬だけれど、こちらは布で覆って。

           

          変わったところでは木の上で風化させる樹上葬、鳥に食べさせる鳥葬、今もまだあるかは知らないけれど、未開文明では家族が食べる、なんていう方法も。

           

          今時はもうできないだろうけど、ヴァイキングが火葬の櫓を組んだ小舟に死者を乗せて旅立たせる方法などは、日本のお盆の風習にも通じてロマンがありますね。

           

          世界全体でみると本当に多様性があるものですが、皆さんは、ご自分が亡くなった後の遺体、どんな風に扱って欲しいと思いますか?

           

          私としては、日本の遺体処理の方針でひとつ、自分はこうされたら嫌だなぁと思うことがあって、それはお骨をお墓の中に仕舞う、という習慣です。

           

          私が思う限りでは、意識とは物質と共にそこにあるもの。できればこの”私”という自意識が終わっても、意識そのものはまた別の命に組み込まれて、新しい場所から世界を楽しみたい。

           

          だから本当は、火葬というのもできれば避けて、森の中で鳥や虫に食べられる方が嬉しい。流石に現代では、それは樹海でもなければ無理でしょうけれど(樹海でも違法行為なので、当然NGですが)。

           

          それで、焼かれてお骨になるのはまぁしょうがないとしても、お墓の石の中に長年閉じ込められるというのが、嫌なのです。暗い何もない所にずっと居るというのは、どうにも退屈な感じがします(シミくらいは遊びに来てくれるだろうか?)。

           

          ですので昨今の海洋散葬の活発化の流れなどは、私個人としては嬉しいこと。自分が死ぬとしたら、是非そうして欲しいと考えています。

           

          『自分が死んだ後のことなんて、どうだっていいじゃないか。考えるだけ馬鹿馬鹿しい。』

           

          そんな声も聞こえてきそうではありますが、たかが抜け殻、されど抜け殻です。つまらなくとも、それが自分の持ち物であればこそ、最後までそれを自分の意志で、しっかりと管理する楽しみがあるというものではないでしょうか。

           

           

           

           

           

           

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          2018.12.24 Monday

          超実存と死

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            超実存主義として、バウンダリー(個人の宇宙)というものを中心に考える時、”死”とはどのような事象だろうか。

             

            バウンダリーは、それ自体がひとつの閉鎖された宇宙、という性質を持つ。

             

            だからバウンダリーの中から見れば、”死”とはこの宇宙全体の消滅である、という表現をすることができる。

             

            宇宙の消滅後の経過は、完全な無、ではなく、バウンダリー(自意識)の内容物(意識)が物質的なレベルの宇宙(第二宇宙)に還元されていく過程だと、また言うことができるだろう。

             

            私たちの自我世界であるバウンダリー(第一宇宙)と、その培地である物質宇宙(第二宇宙)、いずれから見るかによって”死”の重さは相反するように変わる。

             

            バウンダリーから見れば、死は宇宙の消滅である。

             

            逆に物質宇宙から見れば、”生”それ自体が、気まぐれな泡のようなものに過ぎない。それは物質宇宙全体のメロディとしてはじめて意味を成すものであって、個体の”生”というこの微少な単音だけで何かしらの意味を担っているわけではない。

             

            だから物質宇宙から見れば、”死”とはただ単に、ジャンプしたものが地面に還ってくるような変化である。

             

            それで、私たちの超実存主義的な立場からすれば重要なのはあくまでバウンダリー(第一宇宙)であって、第二宇宙というのは”この”宇宙が生じる以前の遠い存在に過ぎないのだから、超実存主義における”死”とは、宇宙の消滅であるという前述の定義を確定出来るだろう。

             

             

             

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            2018.12.11 Tuesday

            死の行進

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              普通、『死』というものは社会一般では歓迎されません。むしろ、積極的に隠される類いのものではないかと思います。

               

              私(たち)の活動は、あえてその『死』というものを掘り返し、人前に突きつけるようなことだと自覚しています。

               

              多死社会の到来ということを考えると、この日本でも”死の認知運動”が起こるのは当然の成り行きであるとは言えるでしょう。

               

              しかし私は、『死』というものに対して避けがたい必然以上の何かを、はっきりと見ています。

               

              私にとって『死』を自覚するということは、私たちの精神が新たな段階へ進むための、きっかけなのです。

               

              死を自覚し、意識が有限であると知るときにはじめて、人はこの世界や自分自身を本当の意味で尊重し始めるのではないでしょうか。

               

              死は、必ず来る夜のようなもの。それは優しい、それは全てを忘れさせてくれる、それは全てを引き取ってくれる、それは冷たい、それは暗い、それはただただ静かで、そしてざわめいている。

               

              夜を避けることはできない。夜は昼を支えている。私たちはそれを通り過ぎる。夜も昼も。死を乗り越えられるなら、溶けていく闇の向こうに、地平線に輝く新たな太陽の輝きを見る。命は更新される。死は再生に至る。肉体は滅びるとも、魂はより鮮やかに生まれ変わる。

               

              『死』は私にとって、何かポジティブなものなのです。死の認知運動は、恐怖への共感者を見つけて己を慰めたい人間によるいたずらな苦しみの拡散、などではなく、私たちの価値観を大きく変えてくれる可能性を持った『希望』なのです。

               

              現代の私たちは永遠を生きています。少なくとも世の中のほとんどの方は、そのつもりでおられると思います。だからこそ私たちは、今日一日の無意味さにこれほどまで無関心で居られるのです。「いずれは変わるだろう」と。

               

              だから私は、あえて真面目くさってその”永遠”を取り外し、こう問いかけてみたいのです。

               

              『 この宇宙は138億年続きました。もしかしたら、そろそろ寿命かもしれませんね。実際のところはわかりませんが、見方を変えれば、少なくとも終わりに向かっていることは確かです。だとしたら、この世界の最期を、あなたはどんなふうに生きたいですか? 』

               

               

               

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              2018.11.28 Wednesday

              おおシャンゼリゼ

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                たとえばこんな質問。

                 

                『もしもあなたが今眠りについて、目を覚ましたときにこれまでの記憶を全て失っており、見知らぬ世界に居て、その身体も全く別物になっていたとしたら?』

                 

                この質問について『そんな恐ろしいことは考えたくもない!』なんて答える人はいないでしょうね。

                 

                私たちはいつもあっさり”死を恐れる”なんて言いますけれど、本当は何を恐れているんでしょうか。

                 

                それはもしかしたら、”自分が在る”という感覚が消えてしまうこと、なのかもしれません。

                 

                例え身体を失ったって、記憶を失ったって、”自分が在り”続けるなら、私たちはそれをあまり恐れたりはしないものなのです。

                 

                これは全く、不思議な習性だと言えるでしょうね。

                 

                 

                 

                 

                 

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                2018.11.13 Tuesday

                死生学の教科書

                0

                   

                  終活ブームなどの影響もあり、『死生学』という言葉も最近では少しずつ市民権を得て来ていますね。

                   

                  本屋さんにいくと終活の特設ブースがあったりして、本なども沢山出ています。

                   

                  そういう本の中でも、特に私がおすすめする一冊は、こちら。

                   

                   

                  『死に方のコツ』著者:高柳 和江(小学館文庫)

                   

                   

                  死に方のコツ。キャッチーなタイトルですね。著者の高柳さんは有名な女医であり医学者。医療管理学という分野で看護学生を教育されたりしています。

                   

                  この本に書かれている内容はとても平易で、専門知識などは一切必要ありません。平成6年の本なので少しだけ時代の差を感じる部分はあるにしても、私たち一般人が誰でも理解できるような内容だし、哲学とか道徳めいた部分もないので、日常感覚ですんなりと受け入れられる良質な”死”の本だと言えるでしょう。

                   

                  非常に万人向けの安心して読める本なので、終活をされている方などには良くおすすめしています(訪問カウンセリングの一時間程度の枠組みでは、その場で話せることの量にも限界があるので・・・)。

                   

                  何分”死”という分野ですので、奇をてらったりびっくりさせて興味関心を引こうとするような本もある中、この本に通底している「安心して。大丈夫だよ。」という暖かい雰囲気は、私たちの死生観をまた少し、違った方面に成長させていってくれるのではないでしょうか。

                   

                   

                   

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                  2018.10.31 Wednesday

                  それでも死が怖ければ

                  0

                     

                    それでも死が怖ければ、こんな考え方もあります。

                     

                    例えば、不死という道。

                     

                    物理的な不死は科学的な問題なので、技術の発展を待つ必要があるでしょう。

                     

                    そうではなくて、精神的な不死、という道。

                     

                    それを達成するには、やはり「悟り」ということを意識しなければなりません。

                     

                    何を悟るのか・・・それは、”私”というものはない、ということを、悟るということです。

                     

                    生きるのも、死ぬのも、私。この”私”というものがなければ、そもそも生も死も起こりません。

                     

                    こんな風に考えてみてください。窓の向こう、青い空を一羽の鳥が優雅に羽ばたき、窓の縁から縁へ横切って、そして見えなくなってしまう。

                     

                    私たちの命も、あるいはこのようなもの。

                     

                    色、音、感触、匂い、味。喜ぶ心も、死を恐れる心も。全てはある一匹の生物という、この心の窓を通して見ているから”自分のもの”だと錯覚しているだけのこと。

                     

                    肉体が滅び、長い年月、このずっと歩みを共にしてきた親しみのある生物の身体も、消え去っていく。けれどそれは私たちにとって、ひとつの”心の窓”が閉じるというだけのこと。

                     

                    精神はなお存在し続け、世界を別の窓から眺めては楽しみ、また出会い、また喜び、新しい出来ごとの中へと飛び込んでいく。

                     

                    もしも私たちが、この”心”を自分自身と同一視することをやめられるのならば、世界をそのように見ていくこともまた、可能なのではないでしょうか。

                     

                     

                     

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                    2018.10.29 Monday

                    スピリチュアルケアの本質

                    0

                       

                      その

                       

                       

                      引き続き、スピリチュアル・ケアに関するお話しです。

                       

                      さて、現代の私たち日本人が”スピリチュアリティ”を持っていない、というのはどういうことなのか。

                       

                      スピリチュアリティとは超自然的なものに対する、深い戦慄や歓喜を伴う感覚に基礎づけられている、ということを説明しました。

                       

                      が、今私たちが、この社会を見渡して果たしてどうでしょうか。そんなものが、一体どこに存在するのでしょう?

                       

                      私たちの社会は、全てが『当たり前』。何もかも知られているし、良く出来ているし、誰かが上手くやってくれるし、それゆえ新しいものが生まれ出る余地もありません。

                       

                      ある意味で私たちは、より物質的、より再現的、より繰り返しの社会や人生観を構築することによって、”鮮やかな魂”であるヌミノース感覚を抑圧し、そこから目を背け続けています。

                       

                      だから社会の中からそういう新鮮な感覚を排除してしまった私たちは、そもそも”スピリチュアリティ”に到達できていない、という皮肉な事情があるのです。( ⇒ スピリチュアル・サプレッション:霊的抑圧)

                       

                      そうは言っても晩年になれば、或いは大病を患って余命宣告をされたならば、”死”という超常的イベントから目を背けることもいつかはできなくなります。そしてその時私たちは気付くでしょう。

                       

                      人生を通してずっと保留にしてきたもの、逃げ続けてきた問題が目の前に巨大な山となって積まれており、今からではどうやってもその課題を終わらせることなど、できそうもない、という途方もない現実に。

                       

                      一説によると、死に対する恐れを感じにくいのは、死後世界を固く信じている人と全く信じていない人、なのだそうです。そして最も死を恐れそれに苦しんでしまうのは、「中途半端に神や死後世界を信じている人」だと言われます。

                       

                      これは要するに、生や死について突きつめて考えた経験のある人ほど、終末における強さがあり、反対にその問題を保留にし続けてきた人ほど、最後の時間に苦しみ葛藤してしまう、ということを表しているのではないでしょうか。

                       

                      ですから私たちは、スピリチュアル・ケアにおいて次のことを意識しなければならないと思います。

                       

                      『このクライエントの死に対する意識性の程度は、どれほどであろうか。彼は既に実存の問題を克服しただ単に最後の自己表現の援助者を探しているだけなのか、それとも今まさに宗教者などとの話し合いを求めている段階か。スピリチュアル・サプレッションは存在しているか、いないか。存在しているとしたらそれを解くべきか、それとも、もはやそのような課題を解決するには余りに難しい状況であり、そのためサプレッションを解かずにそのままにしておく方が、彼にとってより苦痛の少ない道だろうか?

                       

                       

                      その

                       

                       

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