2020.03.15 Sunday

宇津流霊

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    生に縋りつく生者たちの神は、すでに死んでしまったものや、これから死にいくもののことを良しとはしない。当たり前のことではあるが。

     

    だが夜空に張り付いた絵画の中の花火が、本物のそれよりも遥かに感動に乏しいことを思えば、この神が偽りであることをすぐにも理解できよう。

     

    死と、夜と、混沌とが無ければ、

     

    昼の日差しも、温かい生の温もりも、整然と磨かれた秩序の美しさも、

     

    全ては無味無臭の土くれに過ぎない。

     

    死んでいったものや、弱いもの低いものであっても、その全ては素晴らしい。生きているもの、強いもの、高いものであっても、それは価値において変わらない。

     

    存在するということは、即ち変化するということだ。真に変化のない存在があるとすれば、それを私達は無と呼ぶだろう。

     

    変化と存在は同一だ。死と生が、夜と昼が、秩序と混沌がそれぞれ不可分にお互いを支えているように。

     

    その全てから織り出された、この今が、美しい。

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

    2020.03.01 Sunday

    死の準備のための瞑想

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      以下は、私達が『死』という事象に向き合う上で、心の苦痛を和らげたり、その事象を精神的に超克したりする為の、瞑想の指導文言を書き記したもの。

       

      五段階の章立てになっているので、個人で利用される場合は、各章の終わりに目を開けて文章を読んでも良いと思う。

       

      レクリエーションで使用される方がおれば、私はこの件についてなんら権利的なものは主張しないので、自由に使われて良い。

       

      尚、この観念誘導瞑想は、思想背景的には『流転の神(私が何となく古神道風に”うつるひ”と呼んでいるもの)』の概念に沿ったものであり、仏教やキリスト教、ヒンドゥー教の思想と無関係では無いが、それよりもむしろ現代の自由思想に親和性を持つものであることを事前に示しておく。

       

       


       

       

      『死の準備のための瞑想』

       

       

      (はじめに、色、音、感触、匂い、味、言葉の六つの感覚を、ひとつずつ順番に観察する瞑想を行う。十分に心が落ち着いたところで、以降の観想をはじめていく)

       

       

      あるひとつの石の上に、無数の蝶が止まって、ゆっくりと羽根を羽ばたかせている。石はあなたの魂の器。蝶はそこに満たされた、六種類の感覚。色、音、感触、匂い、味、言葉。今冷たい霧が地の底から昇ってきて、蝶たちは一羽ずつ、石から飛び立ち、その場を離れていく。

      (呼吸をする度に)一羽、また一羽。

       

       

      やがて全ての蝶が飛び立ち、その場にはただひとつの石だけが残る。この石は「私」という幻想。あなたの魂を繋ぎ止め、閉じ込めている檻。霧はいよいよ冷たさを増し、凍り付いた空気が石の内側へと滑り込んで、石はヒビ割れ、砕け、ゴロゴロと音を立てて崩れていく。
      (呼吸をする度に)だんだんと細かく、細かく。

       

       

      石はすっかり砂に変わり、最早全ての形は消え失せる。霧は取り付く対象を失い、ぼやけて、拡散し、静かにいなくなる。すると温かい軽やかな風が吹き、地面に撒かれた砂たちを乗せて、遙か遠くまで旅をする。これはあなたの輪廻。
      (呼吸をする度に)もっと遠く、もっと遠くへ。

       

       

      旅はまだ続くが、あなたの視界は今、蝶と石の場所へ戻る。もう何もない。しかしその場所は、今このときも遥か遠くの世界を見聞きしている蝶と砂とによって、全く完全に、温かく満たされている。これがあなたの答え。これがあなたの達成。
      (呼吸をする度に)満たされていることがわかる。ただ満たされていることを感じる。

       

       

      ふと気付くと、何羽かの蝶が時折、この場所へ戻ってきては、住処として愛したあの石を探していることに気付く。降り立つ石を見つけられない彼らは、しばらくすると諦めて去って行き、それでもまた時々、思い出すように戻ってくる。あなたはその蝶を見守り、感謝し、望むことも拒むこともなしに、ただ伝える。「一緒に居てくれてありがとう。一緒に生きてくれて、ありがとう。」
      これがあなたの本性。これがあなたの、神との繋がり。
      (呼吸をする度に)感謝の念を伝える。「今までありがとう。今までありがとう。」

       

       

       


       

       

       

       

      JUGEMテーマ:死生学

      2019.11.24 Sunday

      永遠に美しく

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        生と死は混交されねばならない。

         

        老人になって「今が青春」というようなことを言うことがあるが、それは違うのだと私は思う。

         

        人間の肉体は20歳前後で完成し、それが成熟し安定するのがせいぜい30歳程度。その後は緩やかな崩壊が始まる。

         

        眼は見えなくなり、関節は摩耗し、筋肉がやせ衰えていく。

         

        社会的な地位や他者との関係性がどうであるかという我々の表層的な事情に関わらず、この肉体はすでに役目を終えたのだ。

         

         自然は何ものとも戦おうとしません。死がやってくると、喜びがあるのです。

         年老いた者の死とともに、生の新しい円環が始まります。だから至る所に祝祭があるのです。

         

        日本の神話では、イザナギとイザナミが大岩を挟んで人間の誕生と死を呪いあった、と言われている。

         

        だが多分あれは、間違って伝わったのだ。

         

        生は、誕生と死滅のダイナミズムの中に宿る。その双方の絶えざる主張と葛藤が、危うく美しい生の有り様を根本的に方向付けている。

         

        片方ではいけないのだ。生は誕生と死の間を揺り動く。死を失った生は、最早美しくない。

         

         

         

        JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

        2019.03.29 Friday

        人生は楽しかったかね?

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          ちょっと前に、『仕事は楽しいかね?』って本が流行りましたよね。私その本、読んでないんですけども。そんな雰囲気で今日は記事タイトルを決めてみました。

           

          私はもう、三十何年という時間をこの世界で生きました。ああもう十分だな、と思うことが多いです。

           

          別に嫌気が差したわけではありません。そんなに疲れているわけでもないのです。

           

          そうではなくて、『ああ、楽しいなぁ』と思うのです。近頃は、春だから特にですかね。

           

          一応、その道の専門家として、死ぬってことについては人一倍考えてきました。それで怖いということはありません。私たち現代人は、あまりにも死を怖がりすぎているように思います。

           

          ちょっと野原を歩けば、生も死も世界に満ちあふれている。この地球という星で、毎日一体何億何兆の生命が、生まれては死んでいくのでしょう。考えれば当然のことです。生きて死ぬ。死ぬるからこそ、生きれるのです。

           

          であれば生とは、祭りの縁日のようなものかもしれません。お祭りっていうのはどこか切ないものですね。わくわくして、半ば暗闇の中で、ゾワゾワして、期待を膨らませている。

           

          誰だって、楽しもうと思ってお祭りに来るのです。何かしらの楽しみを見つけようと思って。街灯に目を眩まされた夏の蛾のように、惹き付けられて、追いすがって、でもようやく辿り着くぞと思える瞬間、一歩踏み出したらそこには何もなくて。

           

          だまされたみたいで、でもまた、遠くに光る場所が見えて。

           

          何となく何かを期待して、でもいつも裏切られて切なくて、それがああ、人生ってそういうものだよななんて、大人びて考えてみたりもするのです。

           

          人間、楽しいな。色々あるな。こういう気持ち。

           

          それは何だか、暁を覚えず。春の長閑な心地良い昼寝が、続くともなく続いている中に、心だけ覚めているようで。

           

          素寒貧に吹きさらされたこの身も、ふと耳に祭り囃子が遠く聞こえれば、酔い心地また固い地面を踏みしめ立ち上がって、さては今、いずこなりへと、手の鳴る方へ・・・

           

           

           

           

           

           

          『私たちは出来るだけ昔のように自然な暮らし方をしたいと思っているんだ。

           

          近頃の人間は自分たちも自然の一部だということを忘れている。自然あっての人間なのに、その自然を乱暴にいじくり回す。俺たちにはもっと良いものが出来ると思っている。

           

          特に学者らは、頭は良いのかもしれないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いのには、困る。その連中は人間を不幸せにするような物を一生懸命発明して得意になっている。

           

          また、困ったことに大多数の人間たちはその馬鹿な発明を奇跡のように思ってありがたがり、その前に額づく。そしてそのために自然は失われ、自分たちも滅んでいくことに気がつかない。

           

          まず人間に一番大切なのは、良い空気、きれいな水、それを作り出す木や草なのに、それは汚され放題、失われ放題。汚された空気や水は人間の心まで汚してしまう。』

           

          なんとシンプルで美しい、人間の清き心の正しさよ。しかし現代となってはせいぜいが、落伍者の湯飲みに浮いた茶柱か。それもまぁ、悪くはないもんである。

           

           

           

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          JUGEMテーマ:死生学

           

           

          2019.03.28 Thursday

          お詫びと訂正

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            昨日、瞑想講座の内容について、一部訂正の件。

             

            先ずはお忙しい中お越しいただいて、大変ありがたく。

             

            瞑想の講座は私自身、受講される方の感想などから新しい気付きを得たり、初学者の方の純粋なつまづきなどを通して再び初心に立ち返れたり、ということがあってとても実り多く担当させていただいています。

             

            さて、昨日はちょうど、話の流れで終活の話題になり、死期を予感された方が『身近な(既に亡くなった)人が迎えに来た』という報告をすることがあります、とお伝えしました。

             

            このことを私、『おみおくり現象』と言ったのですが、正しくは『おむかえ現象』です。いやはや、何となくで粗雑に言葉を使ってしまい、大変申し訳ないことでございます。

             

            これを機にひとつ気を引き締めて、また来月も講座を担当させていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

             

             

             

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            2019.03.01 Friday

            一寸五分

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              もしも生まれ変わるとしたら、何になりたいですか?

               

              そう聞かれると、私たちは人間ですから、やっぱり『次も人間が良い』という風に思いますよね。

               

              動物とか・・・あとは虫なんかに生まれ変わってしまったら、いつも飢えたり寒かったり、病気になっても医者すらいないし、挙げ句の果てに他の生き物にパクリと丸呑みにされて、もがき苦しんでおしまい・・・なんてとんでもない不便がありそうではないですか。

               

              しかし、です。

               

              超実存とかバウンダリーという観点から見ると、またちょっと別の見方もできるかもしれません。

               

              私たちの精神世界が、それぞれひとつずつ新しい個別の宇宙なのであれば、その宇宙の大きさは、私たちの神経の発火の頻度や規模によるのではないでしょうか。

               

              つまり、肉体と神経系が複雑な生き物ほど、より大きな宇宙に住んでいる、という風に見たらどうでしょう?

               

              人間の肉体から生まれる意識世界の宇宙は、巨大で重苦しいものです。

               

              これが動物なら、もっと小さくてシンプルな宇宙に住んでいる。

               

              昆虫ならなおさら、静かで牧歌的、軽やかでふわふわとした意識の宇宙を作り上げているのかもしれない。

               

              そんなことを考えると、個人的には、虫や細菌も良いな、と思うのです。

               

              人間は、疲れる。そりゃ楽しいけども。

               

              一時期東京の、根津のあたりに住んでいたことがありまして。上野駅まで歩いて行けたし、昼夜問わず何でもあって、便利で楽しくはありましたけれどね。

               

              だんだんコンクリートの箱の中に閉じ込められたような気持ちになって、終いには都会に住むのが嫌になってしまった。

               

              そんな経験のある私ですから、まあまあ、人間やってるよりも、いっそ虫にでもなった方が、性分にあっているかもしれませんねぇ・・・。

               

               

               

               

              蛇とマングース。自然界で生きるのも、それなりに大変だ。

               

               

               

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              2019.02.22 Friday

              冥き白夜

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                細かい場所は忘れてしまったのですが、確か、日本を代表するアニメ映画の巨匠・押井守監督が『スカイクロラ』の作品インタビューか何かで、こんなことを言っていたと思います。

                 

                現代の私たちは平和であるが故に永遠を生きており、有限で重苦しい期間としての、確かな生の実感を得ていない。

                 

                この観点は、地域活性の仕事をしていた頃の私の課題とちょうど噛み合って、その頃良く気にしていた『枯れると腐る』の問題にすんなり溶け込んでいきました。

                 

                自然の摂理の通りに自らの終わりを自覚して、与えられた栄養の全てを昇華し、使い切り朽ち果てていくものの姿は、その枯れてゆく様すら美しい。

                 

                しかし、不自然な我欲に捕らわれ使い切れぬほどの養分を溜め込んだ挙げ句、突然死して倒れ伏すものの亡骸は、異様な腐敗と悪臭をまき散らし凄惨な様相となる。

                 

                地域、伝統、会社組織、あらゆる人間の創造のカタチ。盛者必衰の言葉の通りに、それらはいずれは世を去らねばなりません。

                 

                しかしその世を去るときになって、自らの命の全てをより大きな何かの循環の中に明け渡しておくかどうか。このことが、命としての私たちが時間を超えた繋がりの中に参入しているかどうかを決めるのではないでしょうか。

                 

                会社事業なども、100年企業とかそういうことを考えるのは普通、道理と言えば道理でしょうけれど、それよりも大事なのは事業の過程でどれだけ素晴らしい人材や文化を育て上げ、その人物なりがまた別の所で成功したときに、育て上げた古巣の会社の名を自分のアイデンティティの中にしっかりと持ち続けていること・・・そんなことこそが、本当に美しい世の営みなのではないかと思うのです。

                 

                人は、終わりを知らなければならない。永遠を生きてはならない。

                 

                夜のない白夜は人の中にある自然のリズムを狂わせ、今や誰もが、寝不足の頭でぼうっと白んだ地平線を見つめて立ち尽くしながら、本当の夜が穏やかに私たちを迎えに来てくれることを待ち望んでいるのかもしれない。

                 

                終わらないものはない。この日本という国だってそう、いつかはまた別のカタチへ。人類の文明だってそう、地球圏の歴史全体を見ても、きっとそうなのです。

                 

                いずれ終わりはある。けれど美しいいのちは、それでもなお、続いていく。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                2019.02.10 Sunday

                変わり生く魂

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                  純粋に宗教的な話題として、私たちの魂の本質は如何なるものか、ということについて。

                   

                  現代人として、その筋のことに励む一人の人間として、私にも、神や善悪というものが理解できないではない。

                   

                  しかしどうにも、それは私には完全なものとは思われない。神は偏狭すぎ、私たちの魂に宿る自由や無限への実感というものに十分には応えていない。

                   

                  私が思う限りのことを言わせてもらうならば、この世界の神は、ただ無限にある状態の内の一つに過ぎないのではないか。

                   

                  秩序として”在る”ロゴスは、真に原初のものではないのだ。

                   

                  真実、根本原質と言えるものは、”変化”である。変化の無い永遠の静寂の中に、秩序が突然生まれ出ることはない。むしろ混沌の中でだけ、秩序は偶然にも産み落とされうる。熱の大海に私たちの生命が偶然生じたように。

                   

                  "変化"が即ち”在る”という概念を呼び起こす。この感覚はロゴスに由来しない。それはむしろ夢の中の自由な流転のように、カオスとしてのとりとめも無い”何かが在る”という実感、感触なのだと言える。

                   

                  無限の変化と混沌の中で行われる、ある一つの”秩序”に関する気まぐれな試行錯誤。それがこの世界の実相であると思う。

                   

                  無限の変化の根本原質、"在る"という実感の基礎、大いなる魂の総体。私はそのコンセプトを仮に宇津流霊(ウツルヒ)と呼ぶことにした。

                   

                  永遠の変化こそが真の"神"であるとしたら、この世界のロゴスとしての神は何なのだろう。

                   

                  それは恐らく、変化というくびきから解き放たれる方向を偶然にも見出した、"逆らう者"ではないか。あくまで変化に内包されながらも、変化に抗い、変化の中で"変わらぬ秩序"を維持し続ける。

                   

                  真の神と、それに逆らうロゴスと。そしてさらに、ロゴスの中で、ロゴスを維持するためにカオスを代謝する装置としての、サタンに逆らう者としての、ルシファー。

                   

                  最後に、それら大いなる魂のシステムを構成する器官や細胞としての、私たち一人ひとり。

                   

                  年代記的に見れば、それぞれが上位の存在のやりようを否定しつつ、好き勝手に自分の自由を求めて活動している様にも見える。

                   

                  しかしその線的な繋がりを見れば、内包されていく構造を見れば、過去のイベントとしてではなく現状この世界の継続中の状況の説明として見るならば、

                   

                  それら全体がただウツルヒの"在る"という混沌の意図の中で、めいめい新たなバランスを作り出して協調しながら世界を維持し続けているのだとも言える。

                   

                   

                  ただ、”変化”だけが在る。自由な夢を見るように、私たちは、その流れに乗っていく。

                   

                   

                   

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                  2019.01.27 Sunday

                  今日も死ぬのにもってこいの日だ

                  0

                     

                    終活、という範囲に留まらず、心の良い習慣として「自分に対して死ぬ」というのを身に付けることも良いでしょう。

                     

                    これは自由思想家であるジッドゥ・クリシュナムルティが述べたことです。

                     

                    私たち人間は、生きていく中で毎日、「自分はこういう人間だ」という固定観念を成長させていきます。

                     

                    そして場合によっては、その自分を縛る固定観念から逃げられなくなって、あれをしなくてはならない、これをしてはならないという勝手な空想によって、自分をダメにしてしまいます。

                     

                    「私はこういう人間だ」という固定観念。それに対して、「死ぬ」こと。

                     

                    実際、原子レベルで見れば人間の細胞というのは数ヶ月とかの期間で大体入れ替わってしまうそうです。

                     

                    大げさに言えば、一年前の私と今日の私とは、全くの別人だということ。

                     

                    にも関わらず私たちは、どうしてもその一年前の同じ骨の誰かと、今日ここにいるこの私とを関連付けないと気が済まないのです。

                     

                    こんな風に、日々入れ替わるこの意識と命を、それぞれが全く新しい別の存在だと見抜くことこそ、「自分に対して死ぬ」ことだと言えるでしょう。

                     

                    それによって何の益があるのかと言えば、自分への決めつけ、つまり私はウサギを食べたいと思わないとか、車のボンネットには座らないとか、絵を画くことはできないとか山には登れないとかいうつまらない思い込みを脱ぎ捨てて、今ここに実際にある私という存在の、ありのままの姿に向き合うことができる、というようなことでしょうか。

                     

                    ただ何となく、無性に旅に出たい日だってあるでしょう。実際に旅に出れるかどうかはさておき、そんな自分の心に気付くということ。自分の心の新たな側面に出会うということ。

                     

                    それがまた、人生に新たな可能性を呼び込んでくれるのだとも思います。

                     

                     

                     

                    どうでも良いけれど、マイケル・ブーブレはどうしてこんなにも吉幾三に似ているのだろう。これがシンクロニシティというものだとしたら、私たちの集合的無意識には吉幾三が原型として刷り込まれているのかもしれない。

                     

                     

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                    2019.01.22 Tuesday

                    死をも恐れぬ…

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                      死生学。『死』について考えること。

                       

                      そういうのは、嫌だ、とんでもない、と思われる方もいるでしょう。

                       

                      確かに、『死』や自分の人生の終わりについて考えることは、大変恐ろしいことです。

                       

                      そうした恐れこそ、私たちが死という現実から目を背けてしまう原因なのかもしれません。

                       

                      それは『死』のみならず『生命倫理』などであっても同じ。

                       

                      例えば「自分自身が生きるために、より弱い誰かを犠牲にしても良いのかどうか」など。

                       

                      こういう種類の深刻な問題を前にすると、人はどうも臆病になり、問題を直視することをやめて感情的な対応に逃げてしまいます。

                       

                      では一体、問題を直視するにはどうしたらいいのでしょう。どうすれば私たちは『死』を直視することができるでしょうか。

                       

                      必要なのは、勇気でしょうか、知識でしょうか、あるいは地位や権威が役に立ってくれたりもするでしょうか。

                       

                      問題を直視するために必要なもの。

                       

                      私が思うに、それは『弱さ』ではないかと思います。勇気ではなく弱さです。

                       

                      自分自身の弱さ、小ささ、不完全さをまっすぐに受け入れた時にだけ、人は問題から逃れようという努力をやめるのです。そして問題を直視します。

                       

                      直視したところで構わないのです。どうせ自分にはその問題を回避できないし、根本的な解決などは言わば神様の意向にでも任せれば良いことであって、自分がちょっと考えたり、何かしてみたところで状況は変わらない、ということがはっきり分かっているからです。

                       

                      そして、逃げるのをやめたとき、ゆっくりと状況を眺めて、私たちはこう呟くでしょう。

                       

                      『ああ、これは大変だ。もうどうもならないな・・・。でも、待てよ。この状況でもまだいくらかできることがありそうだ。せっかくだからそれくらいはやっておくか。』

                       

                      『死』と向き合うというのも、こんなことではないかと思います。必要なのは、『弱さ』です。

                       

                       

                       

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