2019.03.01 Friday

一寸五分

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    もしも生まれ変わるとしたら、何になりたいですか?

     

    そう聞かれると、私たちは人間ですから、やっぱり『次も人間が良い』という風に思いますよね。

     

    動物とか・・・あとは虫なんかに生まれ変わってしまったら、いつも飢えたり寒かったり、病気になっても医者すらいないし、挙げ句の果てに他の生き物にパクリと丸呑みにされて、もがき苦しんでおしまい・・・なんてとんでもない不便がありそうではないですか。

     

    しかし、です。

     

    超実存とかバウンダリーという観点から見ると、またちょっと別の見方もできるかもしれません。

     

    私たちの精神世界が、それぞれひとつずつ新しい個別の宇宙なのであれば、その宇宙の大きさは、私たちの神経の発火の頻度や規模によるのではないでしょうか。

     

    つまり、肉体と神経系が複雑な生き物ほど、より大きな宇宙に住んでいる、という風に見たらどうでしょう?

     

    人間の肉体から生まれる意識世界の宇宙は、巨大で重苦しいものです。

     

    これが動物なら、もっと小さくてシンプルな宇宙に住んでいる。

     

    昆虫ならなおさら、静かで牧歌的、軽やかでふわふわとした意識の宇宙を作り上げているのかもしれない。

     

    そんなことを考えると、個人的には、虫や細菌も良いな、と思うのです。

     

    人間は、疲れる。そりゃ楽しいけども。

     

    一時期東京の、根津のあたりに住んでいたことがありまして。上野駅まで歩いて行けたし、昼夜問わず何でもあって、便利で楽しくはありましたけれどね。

     

    だんだんコンクリートの箱の中に閉じ込められたような気持ちになって、終いには都会に住むのが嫌になってしまった。

     

    そんな経験のある私ですから、まあまあ、人間やってるよりも、いっそ虫にでもなった方が、性分にあっているかもしれませんねぇ・・・。

     

     

     

     

    蛇とマングース。自然界で生きるのも、それなりに大変だ。

     

     

     

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    2019.02.22 Friday

    冥き白夜

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      細かい場所は忘れてしまったのですが、確か、日本を代表するアニメ映画の巨匠・押井守監督が『スカイクロラ』の作品インタビューか何かで、こんなことを言っていたと思います。

       

      現代の私たちは平和であるが故に永遠を生きており、有限で重苦しい期間としての、確かな生の実感を得ていない。

       

      この観点は、地域活性の仕事をしていた頃の私の課題とちょうど噛み合って、その頃良く気にしていた『枯れると腐る』の問題にすんなり溶け込んでいきました。

       

      自然の摂理の通りに自らの終わりを自覚して、与えられた栄養の全てを昇華し、使い切り朽ち果てていくものの姿は、その枯れてゆく様すら美しい。

       

      しかし、不自然な我欲に捕らわれ使い切れぬほどの養分を溜め込んだ挙げ句、突然死して倒れ伏すものの亡骸は、異様な腐敗と悪臭をまき散らし凄惨な様相となる。

       

      地域、伝統、会社組織、あらゆる人間の創造のカタチ。盛者必衰の言葉の通りに、それらはいずれは世を去らねばなりません。

       

      しかしその世を去るときになって、自らの命の全てをより大きな何かの循環の中に明け渡しておくかどうか。このことが、命としての私たちが時間を超えた繋がりの中に参入しているかどうかを決めるのではないでしょうか。

       

      会社事業なども、100年企業とかそういうことを考えるのは普通、道理と言えば道理でしょうけれど、それよりも大事なのは事業の過程でどれだけ素晴らしい人材や文化を育て上げ、その人物なりがまた別の所で成功したときに、育て上げた古巣の会社の名を自分のアイデンティティの中にしっかりと持ち続けていること・・・そんなことこそが、本当に美しい世の営みなのではないかと思うのです。

       

      人は、終わりを知らなければならない。永遠を生きてはならない。

       

      夜のない白夜は人の中にある自然のリズムを狂わせ、今や誰もが、寝不足の頭でぼうっと白んだ地平線を見つめて立ち尽くしながら、本当の夜が穏やかに私たちを迎えに来てくれることを待ち望んでいるのかもしれない。

       

      終わらないものはない。この日本という国だってそう、いつかはまた別のカタチへ。人類の文明だってそう、地球圏の歴史全体を見ても、きっとそうなのです。

       

      いずれ終わりはある。けれど美しいいのちは、それでもなお、続いていく。

       

       

       

       

       

       

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      2019.02.10 Sunday

      変わり生く魂

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        純粋に宗教的な話題として、私たちの魂の本質は如何なるものか、ということについて。

         

        現代人として、その筋のことに励む一人の人間として、私にも、神や善悪というものが理解できないではない。

         

        しかしどうにも、それは私には完全なものとは思われない。神は偏狭すぎ、私たちの魂に宿る自由や無限への実感というものに十分には応えていない。

         

        私が思う限りのことを言わせてもらうならば、この世界の神は、ただ無限にある状態の内の一つに過ぎないのではないか。

         

        秩序として”在る”ロゴスは、真に原初のものではないのだ。

         

        真実、根本原質と言えるものは、”変化”である。変化の無い永遠の静寂の中に、秩序が突然生まれ出ることはない。むしろ混沌の中でだけ、秩序は偶然にも産み落とされうる。熱の大海に私たちの生命が偶然生じたように。

         

        "変化"が即ち”在る”という概念を呼び起こす。この感覚はロゴスに由来しない。それはむしろ夢の中の自由な流転のように、カオスとしてのとりとめも無い”何かが在る”という実感、感触なのだと言える。

         

        無限の変化と混沌の中で行われる、ある一つの”秩序”に関する気まぐれな試行錯誤。それがこの世界の実相であると思う。

         

        無限の変化の根本原質、"在る"という実感の基礎、大いなる魂の総体。私はそのコンセプトを仮に宇津流霊(ウツルヒ)と呼ぶことにした。

         

        永遠の変化こそが真の"神"であるとしたら、この世界のロゴスとしての神は何なのだろう。

         

        それは恐らく、変化というくびきから解き放たれる方向を偶然にも見出した、"逆らう者"ではないか。あくまで変化に内包されながらも、変化に抗い、変化の中で"変わらぬ秩序"を維持し続ける。

         

        真の神と、それに逆らうロゴスと。そしてさらに、ロゴスの中で、ロゴスを維持するためにカオスを代謝する装置としての、サタンに逆らう者としての、ルシファー。

         

        最後に、それら大いなる魂のシステムを構成する器官や細胞としての、私たち一人ひとり。

         

        年代記的に見れば、それぞれが上位の存在のやりようを否定しつつ、好き勝手に自分の自由を求めて活動している様にも見える。

         

        しかしその線的な繋がりを見れば、内包されていく構造を見れば、過去のイベントとしてではなく現状この世界の継続中の状況の説明として見るならば、

         

        それら全体がただウツルヒの"在る"という混沌の意図の中で、めいめい新たなバランスを作り出して協調しながら世界を維持し続けているのだとも言える。

         

         

        ただ、”変化”だけが在る。自由な夢を見るように、私たちは、その流れに乗っていく。

         

         

         

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        2019.01.27 Sunday

        今日も死ぬのにもってこいの日だ

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          終活、という範囲に留まらず、心の良い習慣として「自分に対して死ぬ」というのを身に付けることも良いでしょう。

           

          これは自由思想家であるジッドゥ・クリシュナムルティが述べたことです。

           

          私たち人間は、生きていく中で毎日、「自分はこういう人間だ」という固定観念を成長させていきます。

           

          そして場合によっては、その自分を縛る固定観念から逃げられなくなって、あれをしなくてはならない、これをしてはならないという勝手な空想によって、自分をダメにしてしまいます。

           

          「私はこういう人間だ」という固定観念。それに対して、「死ぬ」こと。

           

          実際、原子レベルで見れば人間の細胞というのは数ヶ月とかの期間で大体入れ替わってしまうそうです。

           

          大げさに言えば、一年前の私と今日の私とは、全くの別人だということ。

           

          にも関わらず私たちは、どうしてもその一年前の同じ骨の誰かと、今日ここにいるこの私とを関連付けないと気が済まないのです。

           

          こんな風に、日々入れ替わるこの意識と命を、それぞれが全く新しい別の存在だと見抜くことこそ、「自分に対して死ぬ」ことだと言えるでしょう。

           

          それによって何の益があるのかと言えば、自分への決めつけ、つまり私はウサギを食べたいと思わないとか、車のボンネットには座らないとか、絵を画くことはできないとか山には登れないとかいうつまらない思い込みを脱ぎ捨てて、今ここに実際にある私という存在の、ありのままの姿に向き合うことができる、というようなことでしょうか。

           

          ただ何となく、無性に旅に出たい日だってあるでしょう。実際に旅に出れるかどうかはさておき、そんな自分の心に気付くということ。自分の心の新たな側面に出会うということ。

           

          それがまた、人生に新たな可能性を呼び込んでくれるのだとも思います。

           

           

           

          どうでも良いけれど、マイケル・ブーブレはどうしてこんなにも吉幾三に似ているのだろう。これがシンクロニシティというものだとしたら、私たちの集合的無意識には吉幾三が原型として刷り込まれているのかもしれない。

           

           

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          2019.01.22 Tuesday

          死をも恐れぬ…

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            死生学。『死』について考えること。

             

            そういうのは、嫌だ、とんでもない、と思われる方もいるでしょう。

             

            確かに、『死』や自分の人生の終わりについて考えることは、大変恐ろしいことです。

             

            そうした恐れこそ、私たちが死という現実から目を背けてしまう原因なのかもしれません。

             

            それは『死』のみならず『生命倫理』などであっても同じ。

             

            例えば「自分自身が生きるために、より弱い誰かを犠牲にしても良いのかどうか」など。

             

            こういう種類の深刻な問題を前にすると、人はどうも臆病になり、問題を直視することをやめて感情的な対応に逃げてしまいます。

             

            では一体、問題を直視するにはどうしたらいいのでしょう。どうすれば私たちは『死』を直視することができるでしょうか。

             

            必要なのは、勇気でしょうか、知識でしょうか、あるいは地位や権威が役に立ってくれたりもするでしょうか。

             

            問題を直視するために必要なもの。

             

            私が思うに、それは『弱さ』ではないかと思います。勇気ではなく弱さです。

             

            自分自身の弱さ、小ささ、不完全さをまっすぐに受け入れた時にだけ、人は問題から逃れようという努力をやめるのです。そして問題を直視します。

             

            直視したところで構わないのです。どうせ自分にはその問題を回避できないし、根本的な解決などは言わば神様の意向にでも任せれば良いことであって、自分がちょっと考えたり、何かしてみたところで状況は変わらない、ということがはっきり分かっているからです。

             

            そして、逃げるのをやめたとき、ゆっくりと状況を眺めて、私たちはこう呟くでしょう。

             

            『ああ、これは大変だ。もうどうもならないな・・・。でも、待てよ。この状況でもまだいくらかできることがありそうだ。せっかくだからそれくらいはやっておくか。』

             

            『死』と向き合うというのも、こんなことではないかと思います。必要なのは、『弱さ』です。

             

             

             

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            2019.01.10 Thursday

            生きられるだけ生きる

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              私たちは生きていく中で、色々な”人として”の基準を作り上げてしまうものですね。

               

              学校に行かなきゃいけない、高校を卒業しなければ、大学を出なければ、新卒で入社しなければ、努力して資格を取らなければ、昇進しなければ、結婚しなければ、子供を育てて、また教育をしていかなければ・・・

               

              そういう作られた人間観に合致していくことで、生は安定し、活動は効率化される。

               

              しかしそれは社会が長期安定の体勢に入っていればこそ。

               

              情報化された社会の変化のスピードはますます加速し、あらゆる分野でベストプラクティスはどんどん入れ替わる。王道のやり方というものが存在しなくなって、「これさえしていれば大丈夫」という組織や集団が真っ先に取り残されていく。

               

              こういう加速した世の中では、固定的な価値観、人間観、人生観はむしろ足かせにさえなるかもしれません。

               

              人としてこうあろう、こうでなければ、というのではかえって不幸になる。

               

              基準があればあるほど、自分自身の出過ぎた部分と足りない部分が多すぎて、だんだん苦しくなってくる。

               

              それならそれで、もう基準というものを取り外してしまう方が良い。

               

              人間をやめて、生きられるだけ生きて。

               

              それだって立派なひとつの命。この宇宙の、ささやかな現象。

               

               

               

               

               

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              2019.01.07 Monday

              年とって死ぬ

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                世の中はおかしくなっている。どんどん悪い方に進んでいく。それを今すぐにでも、何とかしなければならない。

                 

                そう思っていた時期が、私にもありました。

                 

                きっと良い時代を知っている人ほど、落ちていく時には苦しむものなのでしょう。

                 

                この日本という国は、人もどんどん少なくなって、福祉関係のシステムもあまりにも重荷になってきた。年金制度は目に見えて崩壊してしまったし、政治の意志決定、産業界の流れ、人々の生活スタイルのそれぞれがちぐはぐになって、もう全然上手く動いていかない。

                 

                経済成長、ものすごい好景気。虚勢を張ってまだまだ元気な風に見せているけれど、あちこちガタが来ているのは隠せない。

                 

                ――苦しんでいる。逆境に負けまい負けまいとして、多分苦しんでいる、ということでしょう。

                 

                『もうおじいちゃんやんな。』

                 

                そんな風に、複雑な気持ちでこの国を見ています。

                 

                地域活性化の仕事をしていたとき、当事者である地元の方が、一番良くものごとを分かっていました。

                 

                「この土地は一度栄えて、いずれは消える。人も居なくなってきた。もうすぐ村全部が無くなる。それで良い。それが自然の流れなんだから。」

                 

                落ちていく時間というのはある。それはそれで、分かっておれば何も怖いものではない。

                 

                『もうすっかり、おじいちゃんやんな。無理せんでもええよ。』

                 

                別に、年をとって身体が動かなくなったって、それで嫌いになるわけじゃあるまいし。

                 

                衰えたって、日本は日本。しゃあなしや、自然の流れやさけ。ゆっくりいこう。

                 

                 

                 

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                2019.01.04 Friday

                終わりなき生

                0

                   

                  ただほんの着想、つぶやき。

                   

                  もしも私たちが自分で自分の人生の幕を下ろそうとしたら、それには途方もない勇気(でなければ絶望)が必要だろう。

                   

                  (末期ガンの最終ケアとしての安楽死は、ヨーロッパでは事例も増えてきた。安楽死推進の先進国であるフランスでは、これをテーマにして物議を醸した映画も制作されているし、終末期の特定条件の患者にだけだが、鎮静剤で死ぬまで昏睡に近い状態を保つ方法に関する法律も作られている⇒持続鎮静法 法的な対応の遅れる日本国内でも緩和ケアの現場で”緩和”と”安楽死”の灰色の領域で静かに事例を増やしており、長寿化と医師・家族の負担、在宅ケアの増加など様々な要因の影響を受けて、今後よりメジャーな方法になっていくことだろう)

                   

                  仮に私たちが、自分で自分の生き方を終わり方を決められないとしても、より大きな何かが、例えば社会が、国家が、世界の医学的常識が、それを規定してくれるとしたらどうだろう。

                   

                  高齢になった私たちのフレイルティが細かく計測され、一定の基準に収まる人には安楽死が許容されるとしたら。

                   

                  それは言い換えれば、社会が私たちに「ここまで生きていて良い」という線引きを、間接的に定めることでもある。

                   

                  社会が人間を規定することについて現代の日本人は慣れっこになっているが、それを許容したくない私のような人間も、その中には少なからずいる。私の在り方を社会に規定されたくはない。そういう人間にとって、何か大きなもののラインに乗せられるということは耐え難い権利の剥奪としても映るだろう。

                   

                  議論が必要だ。当然議論が必要で、私たちはその線引きを他人に委ねてはならない。

                   

                  しかし、実際は委ねている。現実がそれを線引きしてくれる。理想がどれだけであろうと、好みがなんであろうと、現実そうするしかないというところで、私たちは持続的鎮静という安楽死の新しい形態を開発してまで、自らの死を考えることから逃げ続け、それを自分すら預かり知らぬ場所で処理してくれる誰かを探し求めているのだ。

                   

                  自らの意志で、しかも自らの知らぬ間に、安楽死させられること――それこそ私たちの本当の願いなのかもしれない。

                   

                   

                   

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                  2018.12.29 Saturday

                  いしのなかにいる

                  0

                     

                    世界には、案外たくさん、遺体の処理の仕方があるものです。

                     

                    私たちが良く知る火葬に始まり、キリスト教圏でメインになる棺に納めた上での土葬、イスラム圏も土葬だけれど、こちらは布で覆って。

                     

                    変わったところでは木の上で風化させる樹上葬、鳥に食べさせる鳥葬、今もまだあるかは知らないけれど、未開文明では家族が食べる、なんていう方法も。

                     

                    今時はもうできないだろうけど、ヴァイキングが火葬の櫓を組んだ小舟に死者を乗せて旅立たせる方法などは、日本のお盆の風習にも通じてロマンがありますね。

                     

                    世界全体でみると本当に多様性があるものですが、皆さんは、ご自分が亡くなった後の遺体、どんな風に扱って欲しいと思いますか?

                     

                    私としては、日本の遺体処理の方針でひとつ、自分はこうされたら嫌だなぁと思うことがあって、それはお骨をお墓の中に仕舞う、という習慣です。

                     

                    私が思う限りでは、意識とは物質と共にそこにあるもの。できればこの”私”という自意識が終わっても、意識そのものはまた別の命に組み込まれて、新しい場所から世界を楽しみたい。

                     

                    だから本当は、火葬というのもできれば避けて、森の中で鳥や虫に食べられる方が嬉しい。流石に現代では、それは樹海でもなければ無理でしょうけれど(樹海でも違法行為なので、当然NGですが)。

                     

                    それで、焼かれてお骨になるのはまぁしょうがないとしても、お墓の石の中に長年閉じ込められるというのが、嫌なのです。暗い何もない所にずっと居るというのは、どうにも退屈な感じがします(シミくらいは遊びに来てくれるだろうか?)。

                     

                    ですので昨今の海洋散葬の活発化の流れなどは、私個人としては嬉しいこと。自分が死ぬとしたら、是非そうして欲しいと考えています。

                     

                    『自分が死んだ後のことなんて、どうだっていいじゃないか。考えるだけ馬鹿馬鹿しい。』

                     

                    そんな声も聞こえてきそうではありますが、たかが抜け殻、されど抜け殻です。つまらなくとも、それが自分の持ち物であればこそ、最後までそれを自分の意志で、しっかりと管理する楽しみがあるというものではないでしょうか。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    2018.12.24 Monday

                    超実存と死

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                      超実存主義として、バウンダリー(個人の宇宙)というものを中心に考える時、”死”とはどのような事象だろうか。

                       

                      バウンダリーは、それ自体がひとつの閉鎖された宇宙、という性質を持つ。

                       

                      だからバウンダリーの中から見れば、”死”とはこの宇宙全体の消滅である、という表現をすることができる。

                       

                      宇宙の消滅後の経過は、完全な無、ではなく、バウンダリー(自意識)の内容物(意識)が物質的なレベルの宇宙(第二宇宙)に還元されていく過程だと、また言うことができるだろう。

                       

                      私たちの自我世界であるバウンダリー(第一宇宙)と、その培地である物質宇宙(第二宇宙)、いずれから見るかによって”死”の重さは相反するように変わる。

                       

                      バウンダリーから見れば、死は宇宙の消滅である。

                       

                      逆に物質宇宙から見れば、”生”それ自体が、気まぐれな泡のようなものに過ぎない。それは物質宇宙全体のメロディとしてはじめて意味を成すものであって、個体の”生”というこの微少な単音だけで何かしらの意味を担っているわけではない。

                       

                      だから物質宇宙から見れば、”死”とはただ単に、ジャンプしたものが地面に還ってくるような変化である。

                       

                      それで、私たちの超実存主義的な立場からすれば重要なのはあくまでバウンダリー(第一宇宙)であって、第二宇宙というのは”この”宇宙が生じる以前の遠い存在に過ぎないのだから、超実存主義における”死”とは、宇宙の消滅であるという前述の定義を確定出来るだろう。

                       

                       

                       

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