2018.11.13 Tuesday

死生学の教科書

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    終活ブームなどの影響もあり、『死生学』という言葉も最近では少しずつ市民権を得て来ていますね。

     

    本屋さんにいくと終活の特設ブースがあったりして、本なども沢山出ています。

     

    そういう本の中でも、特に私がおすすめする一冊は、こちら。

     

     

    『死に方のコツ』著者:高柳 和江(小学館文庫)

     

     

    死に方のコツ。キャッチーなタイトルですね。著者の高柳さんは有名な女医であり医学者。医療管理学という分野で看護学生を教育されたりしています。

     

    この本に書かれている内容はとても平易で、専門知識などは一切必要ありません。私たち一般人が誰でも理解できるような内容だし、哲学とか道徳めいた部分もないので、現代の日常感覚ですんなりと受け入れられる良質な”死”の本だと言えるでしょう。

     

    非常に万人向けの安心して読める本なので、終活をされている方などには良くおすすめしています(訪問カウンセリングの一時間程度の枠組みでは、その場で話せることの量にも限界があるので・・・)。

     

    何分”死”という分野ですので、奇をてらったりびっくりさせて興味関心を引こうとするような本もある中、この本に通底している「安心して。大丈夫だよ。」という暖かい雰囲気は、私たちの死生観をまた少し、違った方面に成長させていってくれるのではないでしょうか。

     

     

     

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    2018.10.31 Wednesday

    それでも死が怖ければ

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      それでも死が怖ければ、こんな考え方もあります。

       

      例えば、不死という道。

       

      物理的な不死は科学的な問題なので、技術の発展を待つ必要があるでしょう。

       

      そうではなくて、精神的な不死、という道。

       

      それを達成するには、やはり「悟り」ということを意識しなければなりません。

       

      何を悟るのか・・・それは、”私”というものはない、ということを、悟るということです。

       

      生きるのも、死ぬのも、私。この”私”というものがなければ、そもそも生も死も起こりません。

       

      こんな風に考えてみてください。窓の向こう、青い空を一羽の鳥が優雅に羽ばたき、窓の縁から縁へ横切って、そして見えなくなってしまう。

       

      私たちの命も、あるいはこのようなもの。

       

      色、音、感触、匂い、味。喜ぶ心も、死を恐れる心も。全てはある一匹の生物という、この心の窓を通して見ているから”自分のもの”だと錯覚しているだけのこと。

       

      肉体が滅び、長い年月、このずっと歩みを共にしてきた親しみのある生物の身体も、消え去っていく。けれどそれは私たちにとって、ひとつの”心の窓”が閉じるというだけのこと。

       

      精神はなお存在し続け、世界を別の窓から眺めては楽しみ、また出会い、また喜び、新しい出来ごとの中へと飛び込んでいく。

       

      もしも私たちが、この”心”を自分自身と同一視することをやめられるのならば、世界をそのように見ていくこともまた、可能なのではないでしょうか。

       

       

       

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      2018.10.29 Monday

      スピリチュアルケアの本質

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        その

         

         

        引き続き、スピリチュアル・ケアに関するお話しです。

         

        さて、現代の私たち日本人が”スピリチュアリティ”を持っていない、というのはどういうことなのか。

         

        スピリチュアリティとは超自然的なものに対する、深い戦慄や歓喜を伴う感覚に基礎づけられている、ということを説明しました。

         

        が、今私たちが、この社会を見渡して果たしてどうでしょうか。そんなものが、一体どこに存在するのでしょう?

         

        私たちの社会は、全てが『当たり前』。何もかも知られているし、良く出来ているし、誰かが上手くやってくれるし、それゆえ新しいものが生まれ出る余地もありません。

         

        ある意味で私たちは、より物質的、より再現的、より繰り返しの社会や人生観を構築することによって、”鮮やかな魂”であるヌミノース感覚を抑圧し、そこから目を背け続けています。

         

        だから社会の中からそういう新鮮な感覚を排除してしまった私たちは、そもそも”スピリチュアリティ”に到達できていない、という皮肉な事情があるのです。( ⇒ スピリチュアル・サプレッション:霊的抑圧)

         

        そうは言っても晩年になれば、或いは大病を患って余命宣告をされたならば、”死”という超常的イベントから目を背けることもいつかはできなくなります。そしてその時私たちは気付くでしょう。

         

        人生を通してずっと保留にしてきたもの、逃げ続けてきた問題が目の前に巨大な山となって積まれており、今からではどうやってもその課題を終わらせることなど、できそうもない、という途方もない現実に。

         

        一説によると、死に対する恐れを感じにくいのは、死後世界を固く信じている人と全く信じていない人、なのだそうです。そして最も死を恐れそれに苦しんでしまうのは、「中途半端に神や死後世界を信じている人」だと言われます。

         

        これは要するに、生や死について突きつめて考えた経験のある人ほど、終末における強さがあり、反対にその問題を保留にし続けてきた人ほど、最後の時間に苦しみ葛藤してしまう、ということを表しているのではないでしょうか。

         

        ですから私たちは、スピリチュアル・ケアにおいて次のことを意識しなければならないと思います。

         

        『このクライエントの死に対する意識性の程度は、どれほどであろうか。彼は既に実存の問題を克服しただ単に最後の自己表現の援助者を探しているだけなのか、それとも今まさに宗教者などとの話し合いを求めている段階か。スピリチュアル・サプレッションは存在しているか、いないか。存在しているとしたらそれを解くべきか、それとも、もはやそのような課題を解決するには余りに難しい状況であり、そのためサプレッションを解かずにそのままにしておく方が、彼にとってより苦痛の少ない道だろうか?

         

         

        その

         

         

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        2018.10.28 Sunday

        スピリチュアルケアの本質

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          死生学や終末産業、QOLなどを考える上で『スピリチュアリティ』というものを避けて通ることはできないでしょう。

           

          しかし残念ながら、スピリチュアリティというものを私たち日本人はなかなか理解できません。

           

          恐らく私たちが真っ先に思い浮かべるのは、占いや霊媒師などから発展した日本独自の文化である『スピリチュアル』な世界観ないしそれに付随する産業、ではないかと思います。

           

          が、これは看護学や医療倫理の分野で議論されている『スピリチュアリティ』とは全く違うものであって、そもそもその点に気付くことができなければ、理解を先に進めることはままなりません。

           

          スピリチュアリティとは、要するに、神などの超自然的なものと自分をどう関連付けるかという問題に対する、個々人の態度や考え、そしてめいめいそうした考えを抱く私たち人間の、普遍的な素質とか能力、或いは特徴のこと。

           

          もっと完結に。スピリチュアリティとは、超自然的なものへの感性のことです。

           

          しかし、”超自然的な世界?そんなものない”、そう考えてしまうのが私たち日本人の悲しいさが。良くも悪くも、与えられた価値観にあまりにも従順なのでしょう。

           

          例えばですが・・・私たちは、宇宙の始まりはビッグバンだと教えられています。が、その前はどうだったのでしょうか。何もない無からこの宇宙が生まれる。こんな考えは、本当は子供でもわかるでしょうけれど、あまりにも馬鹿げています。何かがあったから、何かがあるのです。何もないのだとしたら、そこからは何も生まれません。ビッグバンの前にも世界は何らかの形で継続していたはずです。

           

          この宇宙が始まる以前。こうした考えでさえ、すでに私たちに超自然的な何かを、つまりこの世界には計り知れない何かしらの原理原則が存在することを、予感させるのに十分ではないでしょうか。

           

          心理学者であるユングは、こうした人間が抱く実存的な途方もなさ、その恐れおののくような感触について、神学者ルドルフ・オットーの考えをそのまま引き継ぎ『ヌミノース』という言葉で表しています。

           

          『スピリチュアリティ』とは、『ヌミノース』という感覚にまつわる、私たち個々人の防衛ないし適応の形である、とも言えるでしょう。

           

          つまり、スピリチュアリティのケアにおいて問題になっているのは、決して「事実として死後世界があるかないか」というような論理的科学的問題ではなく、私たちひとりひとりが抱く実存的な恐れ、事実としての実感、感触、そしてその感触に対する理解や解釈です。

           

          それはある特定宗教における物語そのものだとかの問題ではなく、物語り的な要素を多分に含んでもいる、実際感覚上の問題なのです。

           

          さて、そのようにヌミノース感覚をケアするということがスピリチュアルケアの本質になろうとは思いますが、これが大きな問題です。

           

          何故なら現代の日本人である私たちは、『スピリチュアリティ』を"持っていない"から。

           

          長くなってきたので、一旦ここで区切りましょう。

           

           

          その

           

           

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          2018.10.14 Sunday

          七生豊食

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            『100万回生きた猫』は、はたして、最初の1回目の自分の人生を覚えているでしょうか。

             

            100万回も生きたら、きっと覚えてはいないのでしょうね。

             

            もしも神様か誰かが猫のところへやってきて、一枚の写真を見せ「これは君が11万2371回目の生涯を過ごしていた頃の様子だよ。」と教えてあげても、猫はきっと『へぇ、私ぁまったく記憶にないようです。まるで別の猫みたいな感じがいたしますな。』とでも答えることでしょう。

             

            覚えていることだけが自分のことで、覚えていることだけが大事なことなのか。

             

            それともやっぱり、覚えていないことだって自分のことで、覚えていないことだって、大事なことなのか。

             

            あるいは覚えているとかいないとか、そんなことを言ったところで曖昧で。確かめたらまた、ただの夢だったり、思い違いだったりして、信用ならないとか。

             

            なあ、君はどう思うんだい、そのあたり? と薮から棒にたずねてみたら、絵本の中の『100万回生きた猫』は、あくびしながらこんなふうに言うかもしれません。

             

            『さあねぇ、確かなのは、ただこの今があるってこと。俺みたいに長生きをしていると、何でもおぼえてはおられんよ、実際。3日前のことも、あやしい。』

             

            『でもな、おぼえてなくたって、ほら、腹がへってきた。腹時計は、俺が”そろそろ腹が減るぞ”って思い出すのを待っちゃあくれない。思い出すとか、おぼえてるとか、大した意味はないのさ。あるものはあるんだ。ちょうどこのへんに・・・。』

             

            そう言って猫は、丸く太った自分のお腹を用心深く見つめながら、ここ、と思うある一点を見つけて指さした。そんな単純な話じゃないだろう、と私は内心笑いながら、真剣な猫に失礼だと思われないよう、慇懃にうなずいて見せた。猫は多少、気を良くしたらしい。自分のお話の対価を要求してもよかろうと考えたようで、満足そうにこう言うのだった。

             

            『さて、それじゃキャットフードをここへ。そろそろこの空腹を、忘れたいのだからね。』

             

             

             

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            2018.10.06 Saturday

            どーせ命は有限だ

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              どうせ、命は有限。

               

              今日一日を輝いていられれば、”結果”が伴わなくとも。それで良いのではないでしょうか?

               

              命は歌のようなもの、大事なのは”今この時”の音。先や全体を考えていては今を見失います。

               

              ただし人間は、他の動物たちと違って、未来も過去も自然に「想ってしまう」もの。

               

              ヒトは過去がいつまでも気がかりなら、未来があまりにも不安であれば、今日という日もまた曇らせてしまいます。

               

              まさに今この瞬間に、「未来や過去を気にしている自分自身の心」が確かにそこに存在しているのであれば。

               

              それを否定して何になるでしょうか。

               

              むしろそれと向き合い付き添って、ある程度、人間らしい「未来や過去」という空想のなかで生ききるということも、まことに人としての自然ではないだろうかと思います。

               

              「老い先短い」と言うけれど、なればこそ、将来の不安などしようがなくなるもの。もっと自由になり、もっと軽快になる。今を生きる。その素晴らしさが、いよいよわかる。

               

              老いも死も、きっと悪いことばかりではないですね。

               

               

               

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              2018.10.05 Friday

              そうは言っても死ぬのは怖い

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                題名のとおり・・・

                 

                私は”QOL”(クオリティオブライフ:人生の質)を自分の人生のテーマにしているので、そこには必然的に、『生と死』という概念が関わってきます。

                 

                そんなことを生業にしていますので、時々、「じゃあ死ぬのが怖くないんですか?」と聞かれます。いつでもはっきりしたことをお伝えするのは難しいですね。その方の心情とか、現状とか、そういうものに気を配らねばならない繊細な話になりますので。

                 

                ただそういう気づかいを差し引いてはっきりお答えするとすれば、答えは『いいえ、すごく怖いですよ』という風になります。

                 

                死ぬことは恐ろしい。誰だってそうだと思います。本能的なレベルにおいて、死を恐れない生物などいるはずはないのです。

                 

                ただ、それを俯瞰して、どう捉えるか、というところでは個人差が出てくるような気がします。

                 

                死を恐れる自分の心を俯瞰して、どう捉えるか。

                 

                私は個人的には、人が死を前にして感じるその恐れ、悲しみ、苦しさは、とても”美しい”ものだと考えています。

                 

                それは美しいのです。

                 

                何故なら、それは私たちが、ひとつの活き活きとした生命としてこの世界と出会うために支払った、貴重な代償だから。

                 

                目の前に広がるこの世界が、期限付きの素晴らしい、本当に掛け替えのない宝物であることを教えてくれる魔法の時計だから。

                 

                それは私たちの魂の重さだから。そこに存在の確かな質量が宿っているから。

                 

                私たちが死を恐れ悲しむとき、私たちはその悲しみを通してさえ、この世界にありありと生きています。

                 

                それはとても美しいことだと私は思います。

                 

                私は死を生業にしています。それを縁にして人と出会うことがあります。そして聞かれるのです、「死が怖くないのですか?」と。

                 

                私の答えはこうです。

                 

                『いいえ、すごく怖くて、心細いです。でもその怖さのおかげで、私とあなた、死を恐れる同じ一人の人間同士が、こうして出会うことが出来ましたね。』

                 

                 

                 

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                2018.09.27 Thursday

                誰でもできる終活

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                  終活は、高齢の方だけのもの・・・何となれば、病気で余命宣告をされた末期の人にだけ必要なもの。そんな風に考えてはおられませんか。

                   

                  いつ終活をはじめれば良いか。一般には65歳、75歳などで、身の回りの金銭状況が変わりはじめたりする時期・・・というような風潮がありますね。

                   

                  しかし私は、そうではなくて、本質を考えれば終活を始める時期は「成人するとき」だと考えます。

                   

                  もちろん、成人したからじゃあお墓を用意しようか、というような話ではありません。

                   

                  「終活」にも色々とレベルがあって、お墓や葬儀のことを煮詰めるのは、すでに土地にじっくり腰を据えて、ゆっくりした時間を過ごしていこうという年代になった方のためのもの。

                   

                  それよりももっと前の段階として、一社会人、全ての責任を自分ひとりの身に受けて生活していかねばならない私たち成人には、「もし自分が死んだら金銭や契約などのことはどうなるのか?」ということを考え整理しておく責任が、当然あるからです。

                   

                  加えて、「死」という人生の終わりを受け入れ考えることは、「生」をより濃密にし私たちの人生に積極的な意味と意志を与えるものでもあります。人生の早い段階からそういう考えを持っているかどうかは、その人の生き方に大きな影響をもたらします。

                   

                  とは言え、では若者がエンディングノートを買ってきてそれを書くのか、というのも変な話。もっと気軽に、簡単にできる『チョイ終活』ぐらいの方が良いですね。

                   

                  文房具屋で売っている名刺用紙を買ってきて、印刷でも良いですし、手書きでも良いので、大事な人の連絡先や契約関係の必要な手続きなどを書いておきましょう。それを財布に入れておけば、万が一の時に誰かが気付いて対応してくれる可能性はかなりあります。

                   

                  注意点として、銀行口座のパスワードとか、そういったものは書かないように・・・財布を紛失したときに情報が盗まれてしまいます。またこのカードは遺言書ではないので、法的な効力なども無い、あくまで「お願い」程度のものであることも把握しておきましょう。

                   

                  たったこれだけのことでも、いざやってみると、案外自分の心の整理になります。「終活はまだなぁ・・・」と思っている方々に是非ともおすすめしたい方法です。

                   

                   

                   

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                  2018.09.23 Sunday

                  いずれ、美しく死ぬ

                  0

                     

                    女優の樹木希林さん。つい先日逝かれましたね。

                     

                    報道で知る限りですが、最後まできりっと自分を生きられたようですね。

                     

                    終わりの日を見つめて、今日、今一日をしっかり生ききっていく、そういう死生観をお持ちのようでした。

                     

                    死の現実を乗り越えられる人は強い人です。そして強い人、暴力やわがままではなく覚悟と受け入れの素質によって内心の本当に強い人は、美しい人だと思います。

                     

                    その美しさは死後の伝聞に残るのみならず、生前から、周囲の人々を照らす光として発散されていきます。

                     

                    私たちはどうでしょうか。私たちは、そのように強くあれるのでしょうか。

                     

                    死のイメージは恐ろしいものです。しかしその広大な暗闇の中に、一歩だけ意識の足を踏み入れてみてください。

                     

                    夜の世界には、天空一面の星粒の数々。山の端は白く、その向こうに静かな王国があることを予感させます。足下には大小の珍奇な草花と生き物たちが、互いに語り合い練り歩き、夜の世界の知られざるいやさかを称えています。

                     

                    本当は、死は、豊かです。そこは私たちの、生の意味、存在の意味がぎゅっと詰め込まれた世界なのです。

                     

                    その豊かさを知ればこそ、私たちは存在の不安を離れて、この生をより強く明るく、生き抜いていくことができるのではないでしょうか。

                     

                    皆様も、折に触れ「死」について学ばれてみてください。それは同時に「生」をより良くすることでもあるのだと、きっと気付かれていくことでしょう。

                     

                    人はいずれ、死にます。どうせなら、美しく。ありかたも、さりかたも・・・

                     

                     

                     

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                    JUGEMテーマ:死生学

                     

                    2018.09.21 Friday

                    死が怖いときには

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                      死が怖いのなら、死と一緒にいることです。それがまず全ての始まりではないでしょうか。

                       

                      私が納棺師の仕事をしていた頃、辛かったのはご遺体の腐敗や損傷を目にしたりそれに触れたりすること、ではありませんでした。

                       

                      本当に怖いのは、死を忘れられなくなることです。

                       

                      普通私たちは、例えばお葬式に出て誰かの死を悲しんでも、葬儀が終わって一日二日、繰り返し睡眠を取るたびに「死」というものの存在を頭の中から追い出していきます。

                       

                      死を忘れてしまうということ。それがある意味、生物として健全なこと、でもあります。

                       

                      また別の見方をすれば、永遠に生きられるような感覚で消費をしたり働いたりするのは、私たちの社会の、良くない習慣だ、とも言えるでしょう。

                       

                      ですがもし、忘れられなくなったとしたら? 死に携わる仕事、重い病気での入院、そして、歳を重ねること。

                       

                      あぁ、自分もいつか死ぬなぁ、という実感が頭から離れなくなってくる。そういうことだって、生きていれば十分あり得るわけです。

                       

                      その時に、それはそれで、死について悩んだり考えたりすべきだと私は思うのです。「自分は死なないぞ」とそこから目を背けて、心の中に不安を隠したままにするのも、あまり健康とは言えないのではないでしょうか。

                       

                      良寛(りょうかん)さんという有名なお坊さんがいらっしゃって、こういう言葉を残されました。

                       

                      災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。

                      死ぬる時節には死ぬがよく候。

                      これはこれ災難をのがるる妙法にて候。』

                       

                      災難にあったときは、しっかり災難に向き合うと良い。

                      死んでしまうときには、しっかりと死んでみることだ。

                      これこそ難を逃れる秘訣だよ。』(現代語意訳)

                       

                      逃げよう逃げようとすると、かえって苦しくなることもあるものです。生あるものである以上、死もまた私たちの一部。受け入れて、生ききって、自分の全てを味わい尽くすこと。

                       

                      そんな風に考えてみるのも、ひとつ、悪くないのではないかと思います。

                       

                       

                       

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