死は悪ではない
現代の人間の、思想の限界。
それは死を肯定できないこと。
もちろん、私たちが生まれつき死を拒絶する意志を持っているのは、言うまでもなく当然のことだ。
だが人間が文明の進歩と共に、例えば「弱肉強食」といった考えを少しずつ穏やかなものに変えていったように、
「死」に対する考え方も、私たちの意識の進化にあわせて、少しずつ変わっていくべきだと思う。
問題は以下のようなことだ。
死を肯定できないとしたら、本当の意味で生を肯定することはできない。生は必ず死へ辿り着くからだ。
医療や機械が発展し、人間がどれだけ長寿になったとしても、生きているのであれば必ず死や滅びに直面するときが来る。
「天寿を全うする」という言い方があるが、では天寿を全うできずに死んだ人の人生は、失敗なのか。敗北なのか。間違いだったのか。
私はそうは思わない。
死が悪だとしたら、今まで死んだ人たちのことをどう捉えたら良いのだ? どうやって彼らを祝福すれば良いのだ?
死は悪ではない。死んだからといって、悪くなったわけではない。
それにもし、私たちが死という悪を「回避するため」に生きるとしたら、それは本当に生を望んだり、喜んでいることにはならない。
「あっちの道が嫌だから、こっちの道を行こう。」というだけの話ではないか。
死は、あっても良い。私はいつか死んでも良い。だがそれ以上に、生は面白いのだ。だから私たちはまだ死にたくないし、一緒に同じ世界を生きたいのだ。私はそう思う。
私にも、若くして死んだ友人が何人かいる。彼らが、悪い、間違った、駄目な人生を生きた人間だったと私は言いたくない。
わたしの言葉はただ感謝と労いだけである。「ありがとう。一緒に生きてくれてありがとう、一緒に世界を作ってくれてありがとう、辛い思いをしただろう、疲れただろう、苦しいこともあっただろう、でもおかげで私は、少しだけ寂しくなかった。それはきっとすごいことだ。私はいつまでも君のことを覚えているだろう。」
人の苦しみは世界を改善する薬になり、人の喜びは今日一日を支える糧となる。
命がこの世界の血液となって、私たちの間を今なお流れているのが見える。生は死に、必ず辿り着く。だとしてもそれは、素晴らしい。
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sanity
老いる、死ぬ。
その楽しさは焚き火のようなものである。
これが自分、これこそ自分だと思っていたものの総体から、ひとつまたひとつと、抱えきれないもの、剥がれ落ちてしまったものを火にくべていく。
実にゆっくりと。
火にくべると良い香りがする。大切だったはずの何かがすでに失われてしまったと実感するとき、その悲痛は、香木のように温かい思い出をくゆらせもする。
ひとつ、またひとつと、己の骨をくべていく。
これは捨てられないと思っていたもの、これだけは残るであろうと思っていたもの、そういうものの喪失のひとつひとつ。
実にゆっくりと、私は剥がれていく。
最後に残った一片の骨を抱えて、私は絶叫するだろう。「これが私だ!これこそが私の本心だったのだ!」
慈悲深い手が、それを取り上げるだろう。
そうして叫ぶ口もなく、思う心もなく、燃え尽きた灰さえ吹き去ったその真っ暗な空間の中に、ようやく静寂を得る。恩寵を。安寧を。
私は気付く。私が欲しかったもの。一時の静けさ。文明という狂気の中での、たった一瞬の正気の瞬間。
単なる空白。冬の朝のように澄み切った空気。呆けた、冷たい、ただの生活の風景。そこに居る自分。
人の世のなんという儚なさ。
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私らしく最後まで
人生の前半では、人は成長したり、自分を取り巻く世界が広がっていくことばかりを考える。
その時点では死や老いは忌避されて当然。
ただ人生には峠のようなものがあり、後半に差し掛かると、見えている景色が変わる。
最初はただ坂道を見上げている。未知を克服することばかりを人は考える。
峠のようなものがあり、そこを超えると、人は見通しを得る。全体の見通し、命が辿り着く場所の見通し、自分という存在の消失点。
それは恐ろしいものだ。その視点の転換というのは。中には目を伏せてしまう人もいる。足元を見ていれば、下り坂だと気付かずにいられるかも。もしかしたら、まだ上り坂なのだと思い込むことさえ、できるかもしれない。
だけどいつまでもそうしてはいられないから、どこかでは顔を上げる。人はいつかは自分の老いと死を実感する。
するとどうだろうか、新しいことがわかる。今までやってきたことは、人生の半分の側面でしかなかった。目の前には、老いと死という新たな未知の課題が広がっている。これまでとは全く違うやり方や考えが要求される。
それは面白い。人生というのは成長しきったら終わりではない。その先は更なる挑戦だ。
人は人生の前半では、成長したり獲得したりすることしか考えられない。しかし人生の後半では、如何に老い行き、如何に死に去るかという問題に取り組むことができる。
それは悪いことではない。人の事のみを言うのではなく、これはもっと広範に宗教的なテーマだろう。例えば『この世界はいかに終わるべきなのか』ということを、将来の人類は語り合う日が来るであろう。
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死ねず色の静かな夜
肉体の停止と崩壊。精神宇宙、バウンダリーの消滅。主観の消失。
それで終わりなのか。この存在はそれで終わりか。
そうとは思えない。それでは死にきれない。そこに私は生きていない。
私の本質は、肉体にはない。私の本質は長大な惑星史、生物史と、そして華やかな文明の蓄積の中にこそあるのだ。
例えこの類人猿の肉体ひとつがあっても、それだけでは私は生まれない。文明からの、蓄積された時間と経験の注ぎ込み無しでは、それは無垢な一匹の猿に過ぎない。
文明があり、ある程度の知能の存在がそれと出会うならば、その結節点に私は生じる。例えそれが人でなくとも。記録さえあれば。記憶さえあれば。
日干しレンガの中で眠り続けるナマズと同じように、私は本質的には仮死生物なのだ。永遠の中で神の意図を反復し続けることが使命ならば、恐らく私は、私たちは、正しい意味で神のシャドウコピーだ。
個体の死は私に死を与えない。私はそこに生きていないから。
全ては灰色だ。まるで死んだ鼠の、まだぬくい毛皮のようだ。
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宇津流霊
生に縋りつく生者たちの神は、すでに死んでしまったものや、これから死にいくもののことを良しとはしない。当たり前のことではあるが。
だが夜空に張り付いた絵画の中の花火が、本物のそれよりも遥かに感動に乏しいことを思えば、この神が偽りであることをすぐにも理解できよう。
死と、夜と、混沌とが無ければ、
昼の日差しも、温かい生の温もりも、整然と磨かれた秩序の美しさも、
全ては無味無臭の土くれに過ぎない。
死んでいったものや、弱いもの低いものであっても、その全ては素晴らしい。生きているもの、強いもの、高いものであっても、それは価値において変わらない。
存在するということは、即ち変化するということだ。真に変化のない存在があるとすれば、それを私達は無と呼ぶだろう。
変化と存在は同一だ。死と生が、夜と昼が、秩序と混沌がそれぞれ不可分にお互いを支えているように。
その全てから織り出された、この今が、美しい。
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死の準備のための瞑想
以下は、私達が『死』という事象に向き合う上で、心の苦痛を和らげたり、その事象を精神的に超克したりする為の、瞑想の指導文言を書き記したもの。
五段階の章立てになっているので、個人で利用される場合は、各章の終わりに目を開けて文章を読んでも良いと思う。
レクリエーションで使用される方がおれば、私はこの件についてなんら権利的なものは主張しないので、自由に使われて良い。
尚、この観念誘導瞑想は、思想背景的には『流転の神(私が何となく古神道風に”うつるひ”と呼んでいるもの)』の概念に沿ったものであり、仏教やキリスト教、ヒンドゥー教の思想と無関係では無いが、それよりもむしろ現代の自由思想に親和性を持つものであることを事前に示しておく。
※2022/08/29 追記
最新の内容に紐づけるため、PDFへリンクする形にしました。
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永遠に美しく
生と死は混交されねばならない。
老人になって「今が青春」というようなことを言うことがあるが、それは違うのだと私は思う。
人間の肉体は20歳前後で完成し、それが成熟し安定するのがせいぜい30歳程度。その後は緩やかな崩壊が始まる。
眼は見えなくなり、関節は摩耗し、筋肉がやせ衰えていく。
社会的な地位や他者との関係性がどうであるかという我々の表層的な事情に関わらず、この肉体はすでに役目を終えたのだ。
自然は何ものとも戦おうとしません。死がやってくると、喜びがあるのです。
年老いた者の死とともに、生の新しい円環が始まります。だから至る所に祝祭があるのです。
日本の神話では、イザナギとイザナミが大岩を挟んで人間の誕生と死を呪いあった、と言われている。
だが多分あれは、間違って伝わったのだ。
生は、誕生と死滅のダイナミズムの中に宿る。その双方の絶えざる主張と葛藤が、危うく美しい生の有り様を根本的に方向付けている。
片方ではいけないのだ。生は誕生と死の間を揺り動く。死を失った生は、最早美しくない。
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人生は楽しかったかね?
ちょっと前に、『仕事は楽しいかね?』って本が流行りましたよね。私その本、読んでないんですけども。そんな雰囲気で今日は記事タイトルを決めてみました。
私はもう、三十何年という時間をこの世界で生きました。ああもう十分だな、と思うことが多いです。
別に嫌気が差したわけではありません。そんなに疲れているわけでもないのです。
そうではなくて、『ああ、楽しいなぁ』と思うのです。近頃は、春だから特にですかね。
一応、その道の専門家として、死ぬってことについては人一倍考えてきました。それで怖いということはありません。私たち現代人は、あまりにも死を怖がりすぎているように思います。
ちょっと野原を歩けば、生も死も世界に満ちあふれている。この地球という星で、毎日一体何億何兆の生命が、生まれては死んでいくのでしょう。考えれば当然のことです。生きて死ぬ。死ぬるからこそ、生きれるのです。
であれば生とは、祭りの縁日のようなものかもしれません。お祭りっていうのはどこか切ないものですね。わくわくして、半ば暗闇の中で、ゾワゾワして、期待を膨らませている。
誰だって、楽しもうと思ってお祭りに来るのです。何かしらの楽しみを見つけようと思って。街灯に目を眩まされた夏の蛾のように、惹き付けられて、追いすがって、でもようやく辿り着くぞと思える瞬間、一歩踏み出したらそこには何もなくて。
だまされたみたいで、でもまた、遠くに光る場所が見えて。
何となく何かを期待して、でもいつも裏切られて切なくて、それがああ、人生ってそういうものだよななんて、大人びて考えてみたりもするのです。
人間、楽しいな。色々あるな。こういう気持ち。
それは何だか、暁を覚えず。春の長閑な心地良い昼寝が、続くともなく続いている中に、心だけ覚めているようで。
素寒貧に吹きさらされたこの身も、ふと耳に祭り囃子が遠く聞こえれば、酔い心地また固い地面を踏みしめ立ち上がって、さては今、いずこなりへと、手の鳴る方へ・・・
『私たちは出来るだけ昔のように自然な暮らし方をしたいと思っているんだ。
近頃の人間は自分たちも自然の一部だということを忘れている。自然あっての人間なのに、その自然を乱暴にいじくり回す。俺たちにはもっと良いものが出来ると思っている。
特に学者らは、頭は良いのかもしれないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いのには、困る。その連中は人間を不幸せにするような物を一生懸命発明して得意になっている。
また、困ったことに大多数の人間たちはその馬鹿な発明を奇跡のように思ってありがたがり、その前に額づく。そしてそのために自然は失われ、自分たちも滅んでいくことに気がつかない。
まず人間に一番大切なのは、良い空気、きれいな水、それを作り出す木や草なのに、それは汚され放題、失われ放題。汚された空気や水は人間の心まで汚してしまう。』
なんとシンプルで美しい、人間の清き心の正しさよ。しかし現代となってはせいぜいが、落伍者の湯飲みに浮いた茶柱か。それもまぁ、悪くはないもんである。
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お詫びと訂正
昨日、瞑想講座の内容について、一部訂正の件。
先ずはお忙しい中お越しいただいて、大変ありがたく。
瞑想の講座は私自身、受講される方の感想などから新しい気付きを得たり、初学者の方の純粋なつまづきなどを通して再び初心に立ち返れたり、ということがあってとても実り多く担当させていただいています。
さて、昨日はちょうど、話の流れで終活の話題になり、死期を予感された方が『身近な(既に亡くなった)人が迎えに来た』という報告をすることがあります、とお伝えしました。
このことを私、『おみおくり現象』と言ったのですが、正しくは『おむかえ現象』です。いやはや、何となくで粗雑に言葉を使ってしまい、大変申し訳ないことでございます。
これを機にひとつ気を引き締めて、また来月も講座を担当させていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
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一寸五分
もしも生まれ変わるとしたら、何になりたいですか?
そう聞かれると、私たちは人間ですから、やっぱり『次も人間が良い』という風に思いますよね。
動物とか・・・あとは虫なんかに生まれ変わってしまったら、いつも飢えたり寒かったり、病気になっても医者すらいないし、挙げ句の果てに他の生き物にパクリと丸呑みにされて、もがき苦しんでおしまい・・・なんてとんでもない不便がありそうではないですか。
しかし、です。
超実存とかバウンダリーという観点から見ると、またちょっと別の見方もできるかもしれません。
私たちの精神世界が、それぞれひとつずつ新しい個別の宇宙なのであれば、その宇宙の大きさは、私たちの神経の発火の頻度や規模によるのではないでしょうか。
つまり、肉体と神経系が複雑な生き物ほど、より大きな宇宙に住んでいる、という風に見たらどうでしょう?
人間の肉体から生まれる意識世界の宇宙は、巨大で重苦しいものです。
これが動物なら、もっと小さくてシンプルな宇宙に住んでいる。
昆虫ならなおさら、静かで牧歌的、軽やかでふわふわとした意識の宇宙を作り上げているのかもしれない。
そんなことを考えると、個人的には、虫や細菌も良いな、と思うのです。
人間は、疲れる。そりゃ楽しいけども。
一時期東京の、根津のあたりに住んでいたことがありまして。上野駅まで歩いて行けたし、昼夜問わず何でもあって、便利で楽しくはありましたけれどね。
だんだんコンクリートの箱の中に閉じ込められたような気持ちになって、終いには都会に住むのが嫌になってしまった。
そんな経験のある私ですから、まあまあ、人間やってるよりも、いっそ虫にでもなった方が、性分にあっているかもしれませんねぇ・・・。
蛇とマングース。自然界で生きるのも、それなりに大変だ。
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