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2019.02.09 Saturday

聖者vs蚊

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    ワンネスとかのこと。

     

    ニューエイジ系の、基本的にはヒンズー教、アドヴァイタ哲学を基礎とした『”私”はない』とかの思想についてですね。

     

    これを説明すると良く出てくるのが、『じゃあ蚊に刺されたらどうするんですか』の話。

     

    ”私”はない、或いはこの世の全ては私である。だから自分と他人、敵と味方なんて線引きをして、お互いに争う必要なんか無いんだ、世界をありのまま受け入れましょう、と。

     

    そういう話の延長として、こういう質問(というよりは批判)が出てきます。

     

    『じゃあ、蚊にさされたら黙って血を吸わせるんですか』

     

    『刃物を持った男が襲いかかってきたら、それも受け入れるんですか』

     

    これらの質問は、先ずもって妥当な指摘だとは言えるでしょう。常識的に考えればそういうことが気になります。

     

    しかし生憎、ワンネスとか梵我一如とか、そういう思想は全く常識的な領域をはるかに超えたところにあるものなので、こういう理解のすれ違いが起きてしまうのですね。

     

    さて、では果たして、ワンネスに到達した”聖者”(私としてはスカヴェンジャーとでも呼ぶべきだと思うけれど)は、誰もがみな蚊も殺さぬ慈悲の人なのかどうか。

     

    ――そうはなりません。ワンネスだろうと何だろうと、蚊が来たらはたき潰すし、暴漢に襲われたら助走を付けて殴り返すのです。

     

    いやいやじゃあそれは全然”私”がなくなってないじゃん、という指摘は感情的にはごもっともだけれど、論理的には、実はそうとも言えないと思います。

     

    ”私”がない、というと、私たち人間はすぐに、『じゃあ他人だけがあるのか』と考えます。これがそもそも論理エラーなのです。

     

    "私"がない、それはつまり、"私"と言えるようなものが何一つないということです。だから、名前では呼びようのない世界全体、という一つのモノだけがある(これがワンネス)のであって、私とか、他人とか、そういう線引きはないということです。

     

    それで試しにこう考えてみてほしいのですが、『"私"が蚊をはたき潰す』ように見えているその事象全体から、"私"というコンセプトを差し引いたらどうなるか。

     

    "私"は石のようにじっとなって、黙って蚊に血を吸われるのを耐えている。そうでしょうか? 誰が耐えているのでしょう? もちろん私です。私が意志を持って、蚊との関係を頭で考え、身体で行っています。これでは私が消えているとは言えません。

     

    私が蚊に血を吸われる所から"私"を消し去ると、どうなるか。正解はこうです。

     

    『一匹の霊長類の生き物が、血を吸いに来た蚊をはたき潰している』・・・これでようやく"私"は消え去りました。

     

    "私"がない、ということを理屈としては納得しておきながら、なかなか私たち人間というものは、"私"の主体性の視点を物事に無条件に適用するクセから、自由になれないものです。

     

    ワンネスの理論の中では、"私"はないのです。だからそもそも、"私"が何かをすることなどあり得ません。猿が虫をやっつけただけのことを見て、どうしても『私が』という考えがまとわりついて出てきてしまう。そういうことがこの点で足かせになるのだと思います。

     

     

     

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