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2019.03.15 Friday

デス・ツーリズム

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    長期計画として、『死の家』では海外への安楽死旅行(デスツーリズム)を事業として行う予定です。

     

    そして更にその後には、法改正の後の国内安楽死事業の整備を目指しています。

     

    今現在の日本では、こうした計画を立てること自体かなり不謹慎と思われるかもしれません。しかし、将来的には人権意識の向上の兼ね合いで、『死に方を選ぶ権利』というものが必ず目に見える課題として立ち現れてくると思います。

     

    この流れを推進する側の人間として、もちろん私自身は、安楽死を通して死を迎えるつもりでいます。一月ほど山中の別荘にでも隠れて世の中を振り返りつつ、気の向いた朝にこの世界にお別れを言いたいと考えています。(それが国内になるか、国外になるのか、まだわかりませんが)

     

    現代の私たちは、死をかなり恐れる傾向にあります。だから『安楽死』と聞くと、なんだか恐ろしい禁忌、あってはならないことのように感じるでしょう。

     

    安楽死の法整備や安楽死施設の設置は、倫理の腐敗、生命の軽視と、優生思想を誘引する、と考えている人もいるはずです。

     

    しかし私が思うに、安楽死施設の設置が、生命倫理を腐敗させることはありません。むしろそれを向上させるのです。

     

    なぜなら己の死生観を深める機会に恵まれ、その命のパズルを完成させた人間だけが、自らの生命を恐怖なく終わらせることができるのだから。

     

    こう考えると、安楽死施設が実働するかどうかということは、実は大した問題ではありません。社会の中にそうしたモニュメントが存在すること自体が、私たちの低下した生命倫理への感性をもう一度復活させ、一人ひとりの人生への主体性が取り戻されるきっかけとして、その役割を果たしてくれるはずだからです。

     

    ただ、今でさえ、意図強き人々が年老いてからも様々な形で自殺を図ります。納棺師としての私のキャリアの中では、家族に恵まれた裕福な女性がぼけるのを嫌って首をつった事例があったし、もっと気丈な人になると、死ぬ一月ほど前から絶食して、ジャイナ教の高僧のように枯死を選んだという方もおられました。

     

    そんな悲しい努力をせずとも、人は人として尊厳を持ったままで、苦しみなく世を去る権利だってあるはずです。

     

    それが生命の大綱を逸脱すると言うのなら、弱肉強食という自然の仕組みに従わない私たち人間の有り様そのものを、一体どう捉えろと言うのでしょう。

     

    私たちには、死について考え、死についての意見を持つ自由があります。

     

    またそれは何も、良く生き満足して自分の存在を完成するという、人間の普遍的な幸福と相反するものではないとも思うのです。

     

     

     

     

     

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    JUGEMテーマ:死生学

     

     

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