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2019.04.04 Thursday

絶望と救済

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    遠くインドの地で、貧困と病苦にあえぐ人々に寄り添い、その支えとなったマザー・テレサ。

     

    偉大なるテレサ。神に愛されたテレサ。

     

    彼女の宗教的特異性には、主に二つの面があると思います。

     

    一つは言うまでもなく、その活動全体における途方もない努力とそれを支えた不屈の精神。

     

    そしてもう一つは、宗教者としてはむしろこちらの方に関心が向くけれど、その信仰の裏側に隠された底なしの『神への失望』。

     

    彼女の死後、公開された他の聖職者との書簡の中には、彼女が信仰において本当は、全くというほど神に見放され、救いを得られずにもがいているその苦悩の様子が、赤裸々に綴られていたのでした。

     

    この事実を取り上げて、マザー・テレサは嘘つきだったとか、詐欺師だったと言う人も居ます。

     

    がしかし、それは信仰というものを良くわかっていない人の短慮でしかありません。

     

    むしろマザー・テレサの偉大な資質というのは、この神への失望、見捨てられているという気持ち、彼女なりの言葉で言えば『渇き』の中にこそ、宿っているものなのだから。

     

    神に見放され、どれだけ足掻いても報われず、それでも救いを求め、また絶望の淵へと投げ込まれる。

     

    この深い失望の中で彼女の信仰は研ぎ澄まされ、やがて『自分は神に見捨てられているのだ』という真の『渇き』に到達したとき・・・

     

    まさにその時にその段階で、彼女の信仰は、何者かから”与えられる”のを待つという次元を超えて、”自ら癒やす”という領域へと精神の大いなる転回を果たしたのでした。

     

    キリストが最後に経験したという『渇き』、死にかけた貧者の訴える『渇き』、そしてテレサ本人の心を蝕んだ、切実な途方もない『渇き』。

     

    これらが彼女の心中で重なり合ったとき、その瞬間から、全ては逆転し、見る者は見られる者になり、祈る者は祈られる者と曖昧になって、そうして彼女は、精神の創造的領域に参入していったのだと思います。

     

    『渇く者』は即ち、『渇きを癒やす者』に。煩悩は即菩提、信仰の完成とは、信仰を超えて祈る者と祈られる者の境界線を超えていくことだとも言えるでしょう。

     

    本願名号正定業。阿弥陀仏に祈る我々と、我々を見守っておられる阿弥陀仏とが、祈りを通してその主体客体を超えた繋がりを持つと言うように、この場合、つまりマザー・テレサの信仰心においては、『渇き』こそがその偉大なる奇跡の心柱だったことは、何とも耐え難く我々の胸を打つものがありはしないでしょうか。

     

     

     

     

     

     

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