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2019.06.15 Saturday

魂のはじまる場所

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    例えば宗教的な思索の中で、インド哲学が述べる個我と大我のようなものを対比するとき――

     

    私たちはどうしても、大我の前提的な立ち位置を重視するあまり、ありのままの個我の存在の仕方であるとか、その自由、多様性などを否定しがちになる。

     

    だが、大我のある末端部分としての個我を否定するということは即ち、大我そのものを否定してしまうことにも繋がろう。

     

    私たちが真理に寄り掛かろうとするとき、そこに何か否定的な心を残しているのでは、本当に寄り掛かっているとは言えない。

     

    大事なのは、大我から生まれ来る個我、この個我としての私を否定するのではなく、この個我の上に、この個我を通して、更に大我の有り様を美しくまざまざと描き出すことではないだろうか。それが真理と我々との、本当の繋がりということになりはしないか。

     

    あるより大きな真理を拠り頼もうとして、今目の前の現実を否定するということがあってはなるまい。

     

    私たちのバウンダリーは極度に集積された神経の相互作用によって生まれるから、その根源である純粋意識の存在を覆い隠してしまうという意味では、確かに余計な遮蔽物であり、私たちの精神を閉じ込める檻のようなものにもなりかねない。

     

    が、だからと言って私たちがバウンダリーを忌避するとすればそれは、直ちに自らの生命そのものを否定し、結末的には純粋意識の意図それ自体を否定することになりはしないか。

     

    であればやはり、私たちはバウンダリーを否定してはいけない、どころか、それを肯定し受け入れねばなるまい。そしてその上に、バウンダリーを通して、バウンダリーの先に、更に純粋意識の揺るぎなく輝く世界を、まざまざと描き出さねばならないのだ。

     

     

     

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

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