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2019.06.22 Saturday

Tears in Rein 

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    宗教的な神秘体験の必要性について再考している。

     

    これまで私は主に心理的な立場から、各宗教教義や神秘思想における啓示や幻、預言、神秘体験などについて純粋に(意味のある)脳の誤作動という程度の見方をしてきた。

     

    私自身精神修養に併せて神秘体験を経験したことはあるが、それとても長年の心理的抑圧が解体されたショックによる興奮物質の過剰分泌程度のことであろうと考えていた。

     

    キリスト教教義に良く見られるような啓示などは、例えそれが幻であったとしても、恐らくは無意識の高度な倫理的判断を示し、私たちに驚嘆や感動を与えてくれる意味深いものであることは心得ている。

     

    それでも尚私には、神秘体験の知覚内容そのもの、何を見たとか聞いたとかいう内容はあくまで「象徴」としての役割を持つだけであって、重要なのはその根底にある無意識の内容、それさえ分かれば表層にある現象部分は特に見るものはない、と考えられてきたのである。

     

    さてしかし、全く別の事柄を検討するにあたってこのような神秘体験の有用さ如何について思う。

     

    その別の事柄というのは、即ちバウンダリーの解体である。

     

    超実存的に見ると私たち人間の精神構造には、二段階の特徴的な自己中心化プロセスがある。

     

    一つは言語的観念を通して作られる”私”という自意識構造。もう一つは中枢神経に由来する知覚の統御能力を通してもたらされるバウンダリー(境界)。

     

    自意識の解体については、禅やジニャーナヨーガなどの知見を通してすでに相当語り尽くされているところでもあり、ここでは触れない。

     

    今回着目したいのはバウンダリーの、解体、そして精神をそこから解放する技法としての、神秘体験の構造的利用についてである。

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

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