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2019.07.13 Saturday

なぜ言葉は主体的なのか 

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    幻覚剤の使用や、脳内出血、側頭葉てんかんなどで見られるEgo-Dissolution(自己解散:認知内容の中で自分とそれ以外のものとの区別が付かなくなること。多くの場合、この経験の当事者は自己が解散した状態についてのはっきりとした記憶を持つ。またこの経験は幸福感に溢れた光の体験や、自分が消滅するという極限の恐慌状態を伴うことがあると報告される。)という現象を調べるにあたり、その現象と言語機能との関係はどのようなものかを考えた。

     

    つまり単純にではあるが、私はこの自己解散という現象は何らかの作用によって脳の言語野の活動が阻害される際に起こるという仮説を受け容れている。(ジル・ボルト・テイラー博士の有名な体験談を参照)

     

    そうしたことを踏まえて先ず最初に疑問に思うのは、「なぜ言葉はこれほどまでに客観的かつ主体的なものなのか?」ということである。

     

    このことはマインドフルネス瞑想の実践や、それについての理論の中でも時折議論されるが、自分の知覚や動作内容を言語を用いて実況する「ラベリング」の技法は厳密には意識の中に自己に対する客観的な視点を作り上げ強化してしまう側面があり、ひとまずは自己制御能力の向上と考えても良いであろうこの状態が、修養のある段階においては意識内容の完全な受容を妨げてしまう(精神の中に”客観視する私”というブラックボックスの領域を築いてしまう)ことがある。

     

    私たちの「今、ここ」の知覚内容とは伝統的な仏教思想において、即ち「色、音、感触、匂い、味」の五識であるが、上記のことに関連して私はここに「言葉」を加えて良いのではないかと思う。それほどまでに私たちの意識における言語作用は独立し自律的に常時働いているものである。

     

    が、にも関わらずこの「言」の意識がマインドフルネス理論の知覚対象として取りあげられることが少ないのは、この意識領域が私たちにとってあまりにも暗黙で、無意識かつ前提的なものであり、また私たちがこの領域の中に自己の自己たる所以を強固に見ているからかもしれない(我思う故に我在り)。

     

    私は禅の理論などをある程度理解しているので、精神の中に”私”を支えるような絶対的な構造物があるという風には考えない。なるほど言語領域はいかにも客観的、主体的なものと感じられ、この言葉の領域のみはまさに”私”という存在の中心から発しているのだという説得力を持つかもしれないが、それとても詳述すればいくらかの機能のコンプレックスが創発する、見た目上の機能に過ぎないだろうという確信を持つ。

     

    そこで再び前述の問題提起に戻るのだが、だとしたらなぜ、言葉の世界はこれほどの客観性及び主体性を私たちに確かに感じさせるのだろうか。そしてその主体的実感は、どのような神経の処理過程を通して実現されるのであろうか。

     

     

     

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