<< なぜ言葉は主体的なのか  | main | なぜ言葉は主体的なのか  >>
2019.07.13 Saturday

なぜ言葉は主体的なのか 

0

     

    次の図は、私なりの精神処理過程の理解と、それにおけるマインドフルネス理論の立ち位置を示すものである。

     

     

     

     

    精神についてのこの構造的理解は、ルドルフ・シュタイナーの精神一元論とC・G・ユング「タイプ論」(四機能説)を下敷きにして、用語を整理しそれぞれの順序に整合性を持たせたものである。

     

    簡単に説明すれば、精神の原始的で単純な領域は知覚ー欲求というサイクルによって成り立っており、私たち人間の複雑な言語的認識の世界は、その単純なサイクルの最中に言語的認識ー連想という複雑な拡張過程を挿入することで成り立っている、ということである。

     

    先ほど私は「ブラックボックス化」というマインドフルネス理論のラベリング技法のデメリットについて触れたが、上の図で言えばそれは複雑サイクルの言語的世界観の中から単純サイクル(およびその先に広がる肉体外の世界)を「切り離して、客観視している」という風に考えればわかりやすい。

     

    このような理解の下で、言語世界は私たちの精神処理過程の実質的な最奥部、突き当たりに存在するものなのだと言うことができるだろう。そしてその点にこそ、私たちが言語的な意識を自らの精神の中心であるかのように錯覚することの原因がある。

     

    ではさらに、この言語的な処理過程のより詳しい構造について考えよう。

     

     

     

     

    二つ目の図は、最初の図の右側、複雑サイクルの部分のみを取り上げたものである。最初の図で認識ー連想という二段階のプロセスで説明していた過程を、より詳しく四つの段階に細分化してある。

     

    ここに図示されることの特徴として、特に強調したい点は以下二つである。

     

    先ず、点線の枠で囲った部分に呼称を割り振った通り、この領域はそれ自らが独立して言語を循環させ続けるという半ば閉鎖的な自律性を持つことである。

     

    この閉鎖領域に知覚という入力を投じ、(連想能力によって修正された再知覚としての)欲求という出力を得る。この処理過程は外部からすると中身の見えない神秘的な乱数装置であり、その意味でまさに外界との直接的相関を持たないブラックボックスの性質を持つ。

     

    次に、言語循環の中の連続するプロセスが識語から始まり発語に終わる点に注目したい。処理過程の中での意義を分かりやすくするため識語/発語という語を用いているが、生理学的にはそれぞれ感覚性言語/動作性言語と読み替えても大凡の意味が通ずるだろう。

     

    この処理過程の一連の流れが示すのは、一度知覚内容が私たちの言語循環の中に入力されると、それは直ちに入力されたものに相応な程度の欲求を出力として返す、のではなく、認識した言葉に連なる別の語を連想し、自らに向けて内的に”発声”し、それをまた自らで認識して、というピンポンのような行程を繰り返すことで線的な繋がりのある言語を連ねていく性質がある、ということである。

     

     

     

    JUGEMテーマ:心理学

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    25262728293031
    << August 2019 >>
    【 ランキング参加中 】


    Webサイト
    夜ルコト 心理ワークス https://yorukoto.net
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Mobile
    qrcode