2019.01.17 Thursday

なぜ猫はかわいいのか

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    突然ですが、私は猫アレルギーです。

     

    ごくごく軽症なのでちょっと一緒にいるくらいは何ともないのですが、ずっといるとくしゃみが出たりするので、飼えないのが残念だな、といつも思っています。

     

    アレルギーではありますが、猫は好きです。犬よりは猫。いわゆる猫派ですね。

     

    それで思うのですが、猫はなぜかわいいのかということについて。

     

    あえて言いたいのですが、猫というのは、馬鹿で、役立たずで、強欲で、どうしようもないからかわいい、のではないかとこう思ったりもします。

     

    はっきりとモノを考えているようでいて気まぐれだし、犬のような忠誠心はなく、仕事の邪魔はしても新聞のひとつでも運んでくれるわけではありません。

     

    機能、という点で見れば、猫は犬に劣ります。けれどそれでも、猫は犬に負けず劣らずペットとして愛されるのです。

     

    心理的なところを紐解けば、妙な話ですが、それは私たち人間の、自分自身が救われたい心の反映でもあると思います。

     

    自分自身が何か役に立たないものを愛するとき、その人は『役に立たなくても誰かが愛してくれる世界』をメタ的に作り上げている、という見方もできるのです。

     

    役に立たなくても愛される。馬鹿でも、どうしようもなくても、誰かに愛され認めてもらうことができる。そういう世界を私たちは、自分の手で作ることだってできるのです。

     

    そのとき私たちは、人間の悟性がもたらす原罪と裁きの世界を、自分の意志で超越します。自然界の弱肉強食の法則を、自分という存在を通して、破壊し別のルールへと塗り替えているのです。これは大げさに言えば、「新たな世界の創造」ということでさえある。

     

    悟性の裁きは暗黙の内に行われます。私たちは論理によって自分で自分を縛り付け、人としてこうでなければならない、ああなってはならない、これはしなければ、これくらいは持っていなくては、と日々意味の自傷行為を繰り返しています。(その苦しみが人格を洗練させてもいくわけですが)

     

    そんな中にあって、一匹の猫が役立たずであればあるほど――もし私たちが彼らを愛するならば、その時私たちは、私たち自身の魂をも同時に救っているのではないでしょうか。

     

    (救っているようで、実は救われている。与えることで与えられ、愛されることよりも、愛することを通して、本当の愛を得る)

     

    『あらゆる弱きもの、愚かなるものどもは、そのままで許されよ』

     

    そんな私たち自身の、救いを求める哀れでさみしい心の投影が、そこには隠されているような気がします。

     

     


     

     

    羽の無い鳥、キーウィは生息地のニュージーランドで人々のアイデンティティに深く根付いているらしい。「私はキーウィみたいなものさ」と現地の人々が言うとき、そこには何か深く純粋な、存在への肯定の意識が働いている。

     

     

     

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    2019.01.15 Tuesday

    海月の骨

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      枕草子に「中納言参りたまひて」という有名な一節があります。

       

      この中で出てくるのが、クラゲの骨。清少納言が「それはもしかして、クラゲの骨かしらね?」と言うと、周りの人々が驚き感じ入るわけです。この人はなんとオシャレなことを言うのだろう、と。

       

      クラゲの骨。いかにもオシャレなコンセプトですね。

       

      クラゲには当然骨などないのだけれど、およそ生き物ならば(人間である自分たちと同じように)骨くらいは持っているであろう。そういう暗黙の先入観から生まれる「クラゲの骨は一体どこにあるのだ」という素朴な空想。

       

      それをひょいと裏返して、話題の中に提示してみせるセンスといたずら心が、いかにも軽妙でオシャレであるということだと思います。

       

      さて、そこから少し脱線していきますが、私もこのクラゲという生き物が特別に気に入っています。私にとってこの海に浮かぶ小さな生命の泡つぶのような生き物は、霊感的なインスピレーションを喚起してくれる象徴的な存在なのです。

       

      というのも一体いつのことだったか、別段何の前触れもなく、ある日こういうことを私は思い浮かべたのでした。

       

      『クラゲは魚を食べるけど、あれはやっぱりおいしいから食べているのかな。でもクラゲって、どう見たって脳みそが無いし、透明でスカスカなのに、おいしいなんて思うことはできるのだろうか。そもそもクラゲには、心、なんてものがあるのだろうか?』

       

      脳みその無い生き物は、自然界には沢山存在しています。しかし私はその中でも、特にこの透明で中身のない、あからさまにどう見たって”脳みそ不在”の生き物の姿をぼんやり思い浮かべていた拍子に、何かそこでかすかな戦慄のようなものを感じたのです。

       

      脳みそが無くても、心はあるのか。

       

      果たしてクラゲにも心はあるのでしょうか。皆様はどう思われますか?

       

      これは哲学的で、シンプルかつ深遠なものを含んだ面白いテーマだと思います。

       

      あえて「答えはこうです」などと、無粋なことを言うのはやめておきましょう。どうぞお時間のあるときに、少しぼんやりと考えを巡らせてみてください。

       

      ちょうどそう、世に珍しきクラゲの骨を探して、ご自身の思考の海をただよい揺られていくように・・・。

       

       

       

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      2019.01.14 Monday

      男女と自己の形式

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        男女の自己形成の違いについて。

         

        (今回もそうですが、性差にまつわる事柄について書くときに、話を簡略化するため男女というものをごくごく”典型的な”男女観を通して扱っています。性別に対して解放された方々にまで当てはまる内容ではないと思いますが、解釈を進めていくための一つの基準として、平均値としてのイデアルな男性・女性を前提とすることをご容赦ください。)

         

         

         

         

        上の図は、自己形成における男女の違いを示したものです(自己は人生経験に応じて”作られていく”もの。当然個人差がありますので、これはあくまで一例です)。

         

        一般に男性の自己形式は先鋭化されたいくつかの領域を持ち、その領域内では一方向(山形の先端部分)に心理的な動力が流れており、態度の一貫性を保ちます。

         

        対して女性型の自己形式では、山形を成す部分が多くなり、より広く浅く、心理的な動力も拡散的に複数の領域に用いられています。

         

        男女双方において、山の頂点を成す部分はその人の自己実現領域となり得る核心の部分であって、この数が少ない男性型はより専門的な社会適応、山の数が多い女性型はより総合的な社会適応を志向することが示されます。

         

        自己形成を支える二つのエネルギー(内圧と外圧)について、男性型では外圧が一極に集中されることによって、自己否定の感覚は競争意識や権力欲求の形を取ります。

         

        これについても女性型とでは違いがあり、女性は外圧を、広範な領域における”自己嫌悪”へと変形させています。つまり言い換えれば、女性の自己嫌悪も男性の権力欲求も、根は同じ”自己不全感”、”無能力感”であるということです。

         

        このように女性と男性という性別次第で、自己が形成されていく形式に違いがある理由は何かという疑問が湧きますが、単純な予測として、DTIによる男女の脳の活動の違いについての研究で言われているように、男性の脳は辺縁領域で局所的な活動を長時間行う傾向があるのに対して、女性の脳は中心領域を並行して断続的に使う傾向があり、そのような脳の使い方の違いが結果として男女における”世界認識”の違いを作り上げ、男女それぞれが異なった傾向の外圧と内圧を与えられることで、自己形成プロセスに典型的な差異が生じてくる、ということが考えられると思います。

         

        なお、補足として最後に強調したいのですが、以上に説明するように自己は”形成”されていくもの。ある生地から織り出されていくものです。私たちはテレビに映る映像を見て物体が動いているように感じますが、実際は光が点滅しているだけです。それはまやかしと言えばまやかしであって、”自己”というものもまさにこの性質を持っています。”私”などというものは、本当は存在しないのです。

         

         

         

         

         

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