2019.07.24 Wednesday

悟りと人格

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    悟った人、と言えば真っ先にブッダを想像するだろう。その慈愛や賢さなどの性質について考え、自分もそうなりたいと思うのは自然なことだろう。

     

    だが本当に、悟りに進むことは即、人格の洗練や向上を意味するのか?

     

    それは違う。

     

    悟りと人格の洗練にはもちろん関係があるが、絶対的な関係ではなく、間接的な関係にある。

     

    悟っていなくても洗練された人格の人はいるし、悟っていても洗練されていない人もいる。

     

    だが悟りに進まなければ、本当の意味で人格が洗練されることはない。

     

    また、悟りに進んでより高い視点の現実認識を得ることで、私たちは自然に自分の在り方を見直しはじめるようにもなる。

     

    (ルドルフ・シュタイナーは、健全な知性と思想を持つことによって私たちの持つ感情の構造全体が影響を受け、矯正されていくことについて述べている)

     

    悟りに至る/至らないの違いは、ちょうど泳ぐときに浮き輪を付けているかいないかの違いのようなものだ。

     

    浮き輪はある程度まで便利なものだが、ある時点からは泳ぎの邪魔になるので、より上達するためには取り外さなければならない。

     

    別の視点から言えば、悟ったからといって、即ちその人の人格が優れているということにはならない。

     

    悟りは天井を取り払うだけだ。人格の洗練は、生きている限り続く。

     

     

     

    JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

    2019.07.23 Tuesday

    悟りとは何か

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      物語には尾ひれが付く。折々でその余分な所を落として、話を整理しておくことも大事だろう。

       

       

       

      「悟り」という現象の本質は何か。

       

      それは、言葉を通して考えるクセから脱することだ。

       

       

       

      それによって何が起きるか。

       

      ・この世界のありのままの現実(実存的領域)を認知し、洞察するようになる。

       

      ・意味の地平線を超えて、超意味的な世界観を得る(創造性の領域に足を踏み入れる)。

       

      ・心を束縛する競争心と憎悪(要するに自分への不満、自己否定)が解消される。

       

      ・彼我の境界線が消え、エゴを制御した調和的な振る舞いに慣れていく。

       

      ・より大きな原則(真理)に身を委ね、その中で安寧を感じるようになる(自分を手放す)。

       

      ・主観的視点から自由になることで、認知におけるゲシュタルトの組み替えを容易に行うようになる。

       

      ・より落ち着いた健康な精神を持つ。

       

       

       

      そこに至る手段は何か。

       

      根本的には、クリシュナムルティが述べるように「真理はそこへ行く道のない土地」ということで、定まった何かの方法をやっていれば必ずそれがわかる、というようなものはない。

       

      これは哲学として言えば「(私たちが)何かを求めて、これこれをやり、どこどこへ至る」というような線的な認識の仕方こそ言葉の思考法なのであって、真理はこのような線的な連続性が打破されてはじめて理解できるものだという事情による。(地と図の交代、コペルニクス的転回)

       

      それだからこそ、私たちが真理を理解したければ五感の全てを通してこの世界に良く触れ、教理を学び、考え、あらゆる方向性の精神修養に取り組んでいくのが良い。

       

      実情としては、精神的なショックで脈絡無く突然理解する人もいるだろうし、仏教で瞑想をしてわかる人もおり、信仰を通して理解していく人もおり、科学や論理の追求の果てにそれを見る人も、生まれつきの豊かな感性と優れた文化の交互作用によってそれと知らず身に付ける人も居るだろう。

       

      真理は兎に角無形であり、多様性がある。それは真理という一つの動かしがたい不変のものに対して、私たち一人ひとりがあまりにも無形で、且つ多様である、という事情による。

       

       

       

      JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学

      2019.07.13 Saturday

      なぜ言葉は主体的なのか 

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        さて以上に述べてきたように、仝生貊朶弔私たちの精神処理過程の折り返し地点に位置すること、また言語循環は自己言及的な活動を通して半閉鎖された自律性を持つこと(ブラックボックス化されていること)、という二つの特徴的な構造によって、私たちが色や音といった肉体的な知覚よりも、言語的な意識の方をより「自分の本質に近い」精神内容である、と認識しやすいことが説明できるだろう。

         

        また発展的な考察として、ある構造の閉鎖性(半閉鎖性)というものが、主体意識、アイデンティティ、主客意識、彼我意識などを構築するための、普遍的な必須要素であるということが想像できる。

         

        「ある程度の閉鎖性を持つ部分が外部世界に関連付けられることによって、始めて主体性が生じる」とまとめて良いだろう。

         

        スポーツで言えば、“地球代表”の選手団というコンセプトが説得力を持つのは、私たちが地球以外の領域に知的生命体の住む場所を発見したとか、新たに開拓した場合だけであろう。

         

        またそうした選手団を”第××宇宙空間代表”のように、真空以外何もない宇宙空間の代表として勝手に選抜することもできまい。それは例えば地球という半閉鎖系の中で、自律した個々の世界の中から選抜されることによって、はじめて確かな意味を持つ。半閉鎖性こそ主体性の鍵なのである。

         

        さて、まとめになるが、言語領域はこのような半閉鎖性と精神処理過程内の配置により、他の知覚内容よりも主体性のある精神活動領域として私たちには感じられる。

         

        しかしその半閉鎖構造は、言語循環という高度な認知の連続的自己反射作用によって実現される疑似ブラックボックスであり、言語的な意識世界だけが、他の肉体的知覚とは違う精神の本質的作用である、というようなことを意味するものではないのである。

         

         

        ※補足として、ここでは深入りを避けたが、もとより言語作用は脳の複数領域が協働して相互のフィードバックの中で生み出すものであると今日では知られている。言語循環における連続的な言語の連なり、その複雑な修飾や文法精査などの働きは、視覚野や聴感覚などのセンスを多分に利用するものであることは疑いようがない。だから私は、簡略化のためそうした複雑な関係性を図の中に描いてはいないが、精神の複雑系が言語野のみに閉鎖された活動であるというようなことを言うつもりはない。それはむしろ、脳全体を言語世界の中に包括的に巻き込みながら閉鎖性を作り上げていく機構なのだと言えるだろう。

         

         

         

        JUGEMテーマ:心理学

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